わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

文字の大きさ
上 下
45 / 116

45、相手にならない

しおりを挟む
「イレーネ!」

 何も言えず、互いに黙って見つめ合っていると、後ろから追いかけてきたブルーノに肩を掴まれた。彼はさすがにイレーネが転んで冷静になったのか、心配した声で大丈夫かと尋ねてくる。

 だがディートハルトがイレーネの手を握っているのを見ると、怪訝そうな顔をした。

「誰ですか。あなたは」

 ディートハルトはちらりとブルーノに目を向ける。相手の怪しむ目つきに動じない、おまえこそ誰だと問いかける冷ややかな眼差しにブルーノは僅かに怯んだ様子だった。ディートハルトはブルーノを一瞥すると、イレーネの手を取ったまま、腰を浮かせる。

「イレーネ。立てるか」

 彼女は促されるまま、おずおずと立ち上がった。

 ブルーノは見知らぬ男に大人しく従うイレーネの姿に訳がわからない様子だった。

「イレーネ。この男とは知り合いかい」
「それは……」

 彼女は何と答えればいいかわからなかった。まさかこんな場所でディートハルトと再会するとは思わず、混乱していた。

(待って。どうして彼はここにいるの……)

 用事があって訪れた? 一体何の用で? わざわざこんな遠くまで?

 次々と疑問が湧いてくるなかで、何も答えないイレーネにブルーノは苛立ったのか、ディートハルトへと矛先を向けた。

「すみません。僕たち、まだ話の途中なんです。どなたかは存じ上げませんが、彼女から手を離してくれませんか」

 そう言ってブルーノは強引にディートハルトからイレーネの手を奪い返そうとした。しかしその前にディートハルトがイレーネをぐいっと引き寄せ、自分の方に抱き寄せてしまう。

「なっ、なにしてるんですか!」

 ブルーノは狼狽した。イレーネもまた驚いて声が出なかった。ただ一人、ディートハルトだけが淡々と疑問に答えた。

「先ほどの様子だと、彼女はきみから逃げているように見えたが?」
「そ、それは……」

 言葉に詰まったブルーノを、ディートハルトはさらに問い詰めた。

「怯えた様子も見られるし、きみの態度からしても無理矢理連れて行こうとしていたんじゃないか」
「そんなことありません! 俺と彼女は親密な仲なんです!」

 大きな声で言い放ったブルーノにイレーネはやめてと叫びたかった。だがディートハルトに抱き寄せられた恐怖から上手く反論できない。それをディートハルトは違うふうに解釈した。

「ほら、今のもそうだ。きみは激昂して、一人で捲し立てるのに対し、彼女の方は一言も話さない。話せない。それはきみが何か弱味を握って彼女を抑えつけようとしている証拠だ。きみの方が立場が上なんだ。普通の、対等な関係ではない」
「そんなこと、」
「ない、というならば、彼女に直接聞いてみよう。その間、きみは黙っていたまえ」

 初対面であるのにディートハルトはブルーノを難なくあしらい、自分が会話の主導権を握って進めていく。

「イレーネ。この男はきみのなんだ。恋人か? 婚約者か?」

 答えろ、とじっと見下ろされ、イレーネはごくりと唾を飲み込んだ。

「……いいえ。恋人でも婚約者でも何でもありません。ただの他人です」
「イレーネ!」

 静かに、とディートハルトは目でブルーノを制すると、「ではなぜきみはこの男に追いかけられていた」と尋ねた。まるで尋問の取り調べだ。

「わたしに……再婚してほしいと言って、でもわたしは……そのつもりは一切ない。もう会いに来ないでほしいと告げても、無理矢理迫ってきたので、だから、怖くなって逃げてきたんです」
「違う! でたらめだ!」

 ブルーノはイレーネの方から迫ったのだと、自分で作り上げた嘘を主張した。ディートハルトは今度は黙るよう彼を制しなかった。イレーネもブルーノの言葉などどうでもよかった。ただディートハルトの突き刺さるような視線の方がずっと恐ろしく感じたのだ。

 彼はイレーネがすでに結婚していたことに対しては何も言わず、「わかった」と静かに告げた。ブルーノがぱっと顔を輝かせた。

「きみの言い分はここの管轄区である司教に仲裁に入ってもらって、改めて聞かせてもらおう」
「司教に?」

 なぜ、とブルーノの顔に困惑が浮かんだ。

「きみと、イレーネの意見に食い違いがあるからだ。どちらの意見が正しいか、双方の主張、そして第三者の意見も交えて決めるのがいい」

 要は裁判して決めようとディートハルトは言っているのだ。

「教会で裁かれるのが嫌ならばここの領主に頼んでもいい。ああ、何なら国王に頼むこともできる。彼らは悪人から罰金を取り立てて懐を温かくするのが好きだからな」

 金が入るとなれば、喜んで裁判を開いてくれるだろう。

 ディートハルトの言葉にブルーノは次第に冷や汗を浮かべ始める。

「そ、そこまでする必要は……」

 なぜだ、とディートハルトは鋭く切り込んだ。

「きみは彼女に対して、不当な扱いを受けたのだろう? ならば、それをきちんと明らかにして、改めて彼女に罪を問う必要がある」
「いや、何もそこまでしなくていいんです。これは僕とイレーネの問題なので、」
「いいや、はっきりさせた方がいい」
「ど、どうしてそこまで赤の他人であるあなたが僕たちの問題に首を突っ込むんですか!」
「赤の他人ではない」
「えっ」

 イレーネは一体何を言うつもりだとディートハルトの顔を見上げた。

「あ、あなたはイレーネとどういうご関係なのですか」

 いつの間にか、ブルーノの口調は敬語になり、ディートハルトを恐れる感情を滲ませていた。ディートハルトは完全にブルーノを御した様子で冷たく言い放った。

「そんなこと、赤の他人であるきみに言う必要はない」
「なっ……」
「それより、どうしてそこまで裁判を拒否する。まるで、そうされると困ると言いたげな態度だ」
「ち、違う。僕はただ、そうなったらイレーネも困るだろうと思ったから……彼女には、子どももいるんです! 大事になったら、その子も可哀想でしょう? 陰で何を言われるかわかったものじゃない。そういう気遣いからです」
「……そうか。子どもがいるんだな……」

 ディートハルトの呟きに、同意を得たと思ったのか、ブルーノが「そうなんですよ」と必死で話し続ける。

「まだ六歳なんですよ。父親を亡くしたばかりなのに、毎日教会に通って必死に勉強しています。そんな子が、母親が法廷で裁かれるなんてことを知ったら、心に一生消えない傷を負うはずです。だから、やめておいた方がいいと思います」

 ディートハルトはしばし無言になって、やがてわかったと言った。しかしブルーノがほっと胸をなで下ろした瞬間、

「やはりやるべきだ」

 とも付け加えた。

「なっ、どうしてです!?」
「どうしても何も、母親が冤罪をかけられているのならば、なおさら無実を証明するべきだ。それが、息子の願いでもあろう」

 どうあっても穏便に済ませまいとするディートハルトに、ブルーノは言葉が見つからず、口をパクパクと開けては閉じることしか繰り返せない。

「もし、きみが法廷に立つことを拒否するというならば、決闘してどちらが正しいか決めるしかない」
「決闘!?」
「そうだ。彼女の代わりに、私がきみの相手をする。神は正しい者に味方してくれるはずだから、きみはきっと生き残れるだろう」

 ブルーノは恐ろしい怪物でも見たかのようにディートハルトを見つめ、自然と一歩、後ろへ退いていた。

「さぁ、そうと決まれば、司教の所へ行って、さっそく裁判の日取りを決めよう」

 ディートハルトが手を差し伸べた瞬間、ブルーノは踵を返し、脱兎のごとく逃げ出した。イレーネのことは見向きもしなかった。

 イレーネは普通なら感謝するべきだろう。そしてブルーノが自分から立ち去ってくれたことに深く安堵するべきだった。

 しかし彼女はディートハルトと二人きりに取り残されたこの状況の方が、ずっと恐ろしく思うのだった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

【完結】365日後の花言葉

Ringo
恋愛
許せなかった。 幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。 あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。 “ごめんなさい” 言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの? ※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

筆頭婚約者候補は「一抜け」を叫んでさっさと逃げ出した

基本二度寝
恋愛
王太子には婚約者候補が二十名ほどいた。 その中でも筆頭にいたのは、顔よし頭良し、すべての条件を持っていた公爵家の令嬢。 王太子を立てることも忘れない彼女に、ひとつだけ不満があった。

姉の婚約者であるはずの第一王子に「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」と言われました。

ふまさ
恋愛
「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」  ある日の休日。家族に疎まれ、蔑まれながら育ったマイラに、第一王子であり、姉の婚約者であるはずのヘイデンがそう告げた。その隣で、姉のパメラが偉そうにふんぞりかえる。 「ぞんぶんに感謝してよ、マイラ。あたしがヘイデン殿下に口添えしたんだから!」  一方的に条件を押し付けられ、望まぬまま、第一王子の婚約者となったマイラは、それでもつかの間の安らぎを手に入れ、歓喜する。  だって。  ──これ以上の幸せがあるなんて、知らなかったから。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

婚約者を想うのをやめました

かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。 「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」 最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。 *書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。

不遇な王妃は国王の愛を望まない

ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝ある時、クラウン王国の国王カルロスの元に、自ら命を絶った王妃アリーヤの訃報が届く。王妃アリーヤを冷遇しておきながら嘆く国王カルロスに皆は不思議がる。なにせ国王カルロスは幼馴染の側妃ベリンダを寵愛し、政略結婚の為に他国アメジスト王国から輿入れした不遇の王女アリーヤには見向きもしない。はたから見れば哀れな王妃アリーヤだが、実は他に愛する人がいる王妃アリーヤにもその方が都合が良いとも。彼女が真に望むのは愛する人と共に居られる些細な幸せ。ある時、自国に囚われの身である愛する人の訃報を受け取る王妃アリーヤは絶望に駆られるも……。主人公の舞台は途中から変わります。 ※設定などは独自の世界観で、あくまでもご都合主義。断罪あり。ハピエン🩷 ※稚拙ながらも投稿初日からHOTランキング(2024.11.21)に入れて頂き、ありがとうございます🙂 今回初めて最高ランキング5位(11/23)✨ まさに感無量です🥲

処理中です...