わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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44、逃げても

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「イレーネ。昨日のことだけど、」
「ブルーノさん、ごめんなさい。何度来られても、わたしの気持ちは変わりません」

 昨日と同じく、ブルーノはイレーネを店の前で待っていた。周囲の目も気になるので、今までイレーネはなるべく穏便に済ませようとしていた。だが、今日は違う。

「もうこうしてわたしに会いに来るのもやめてください」
「そんな。どうしてだい」
「迷惑だからです」

 限度というものがある。周りから誤解されて、再婚すればいいじゃないかと言われるのも嫌だった。

「そんな、イレーネ」
「失礼します」

 ショックを隠せない様子でブルーノはイレーネを見ていたが、彼女が立ち去ろうとすると、待ってくれと肩を掴んできた。強引に振り向かせ、顔をグッと近づけてくる。

「僕は本気だ! 本気できみのことが好きなんだ!」
「だから、」
「どうして死んだ男のためにそこまで操を立てるんだ! もう彼はいないんだぞ!」
「っ……いい加減にしてください!」

 イレーネがぱしんと手を振り払えば、ブルーノは一瞬傷ついた顔をして怯んだ。だが拒絶されたことでかえって今まで相手にされなかった不満が爆発したのか、すぐに手首を掴んで勝手に歩き出す。

「ブルーノさん!? やめっ、離してください!」

 イレーネが痛みで顔を歪めても、ブルーノは無理矢理イレーネを引っ張っていく。名前を呼んでも、止まってくれない。

「ね、一度落ち着いてください。失礼な態度をとってしまったのならば、謝りますから」

 ちらりと彼は振り返り、嘲笑した。

「そう言ってきみはまたはぐらかすんだろう? いつも僕の気持ちを弄んで……初めて会った時も、僕に微笑んで、僕の心を奪っておきながら、夫もいて、子どもまで……僕がどれほど恋い焦がれていたかわからないだろう」
「そんな、わたし……」

 弄んでなどいない。ブルーノにはただ立派な家具を作ってもらったから、そのことに感謝しただけだ。彼の自分に対する気持ちはただの横恋慕にすぎない。

 だが、そうした正論もブルーノの耳には届かなかった。

「でも、もう僕ときみの仲を邪魔する人間はどこにもいない。きみを無理矢理奪っても、それは許されることなんだ」
「なっ――」

 ブルーノは完全におかしくなっていた。イレーネはゾッとして、強引に手を解こうとする。気づいた彼が冷たく笑い、さらに固く握りしめてくればイレーネにはもう振り解けない。

「はは。見ろ。きみはこんなにもか弱い女性なんだ。僕みたいな男性がついていないと何もできない」
「いやっ、誰か……!」

 イレーネが周囲に助けを求めるのを遮るように、ブルーノが素早く言い放った。

「もしきみが助けを求めるなら、僕はきみから誘われたのだと告白する」

 何を言われたか、一瞬わからなかった。

「きみの旦那がまだ生きていた頃、いや、病気になって心細くなった時、夫の見舞いに訪れた僕にきみは縋りついた。僕は何度も止めたけれど、きみが泣いて頼むから……だからきみの夫が亡くなった今、僕がきみに対して責任をとるのは当然のことなんだ。それなのにきみは罪の意識に苛まれ、僕を拒み続けている。みんなにはそう説明するよ」
「あなた……おかしいわ」
「おかしくてもいいさ」

 ブルーノの目は据わっていた。

「きみが手に入るなら、どんな非道な手も使ってみせる」
「そんな話、誰も信じませんわ」
「どうかな」

 彼は笑った。嫌な笑みだった。今まで純朴な青年だと思っていた彼の一面を垣間見た気がして、彼女は怯える。

「きみより、僕の方がずっとこの町に長く住んでいる。それにきみは他のやつらからの求婚も冷たく跳ね除けていたみたいだから、その男たちや、彼らに想いを寄せている女性陣たちから恨みを買っているんじゃないかな」

 初めて指摘された内容にイレーネは戸惑う。ブルーノはさらに続けた。

「狭い町だ。悪い噂はあっという間に広まる。ほら、今だってちらちらと視線を感じているのがわかるだろう?」

 イレーネが通りに目をやると店先の主人や買い物に来ていた主婦たちと目が合う。彼らはすぐに目を逸らしたけれど、今こうしてブルーノと話している姿は見られている。イレーネは怖くなって、黙って首を横に振った。

 それでもあなたを受け入れるつもりはないというように。

 ブルーノはまだわからないのかと苛立った表情を見せ、ふと真顔になった。

「イレーネ。ここで話してもわかってくれないなら、きみの家へ行こう。そしてきみの身体に無理矢理でも――」
「いやっ!」

 危険を感じたイレーネはブルーノの身体を渾身の力で突き飛ばし、全速力で走った。

「イレーネ!」

 以前はそれで諦めてくれたブルーノも、今度は必死の形相で追いかけてくる。彼女は恐怖に囚われ、必死に逃げようとするも足がもつれ、派手に地面に倒れ込んだ。掌や腕、膝が勢いよく擦れ、血が滲む。

「イレーネ!」

 立ち上がって逃げなくてはならないのに、痛みと恐怖で力が入らない。地面に視線を落としながら、イレーネは泣きそうになった。

(ハインツさま……)

 どうして今彼はここにいてくれないのだろう。どうして自分をおいていってしまったのだろう。

 一人の人をずっと愛し続けたいと思う願いすら、許してくれないのか。

「イレーネ!」

 もう、自分は――

「大丈夫か」

 目の前に革靴を履いた大きな足が見えた。そしてどこかで聴いた声だと思った。目の前の人間が腰を下ろして、膝をつく。イレーネはなぜか心臓が痛いほど音を立てて、顔を上げたくないと思った。それは本能的な何かだった。

 だが彼は、イレーネの傷だらけの手を取った。彼女は恐る恐る顔を上げ、その瞳の色にああ、やっぱりと思った。

「ディートハルト、さま……」

 何の表情も浮かべていない彼は、ただじっと自分を見つめていた。

 婚約を破棄されてから五年以上経っただろうか。相変わらず彼の顔立ちの良さに変わりはなかった。むしろ月日を重ねたぶん、落ち着きを得て、ますますその美しさに磨きをかけていた。しかし感情の抜け落ちた表情はイレーネにとってただただ恐ろしく映った。

 ふと、ハインツと街へ出かけて、ディートハルトの姿を見た時のことを思い出す。あの時自分は彼から逃げ出した。追いかけられて、見つかりそうになって、ハインツに隠してもらった。

 でも、もう自分を守ってくれる人はいない。今度こそ、見つかってしまった。

 自分はもう逃げられないのだと、イレーネはそんな錯覚に囚われた。

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