わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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43、小さな温もり

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「お母さん!」

 沈んだ気持ちで帰宅すると、先に帰っていたエミールが駆け寄って抱き着いてきた。夫と同じ瞳の色をした目はきらきらと輝いており、イレーネは自然と笑みを浮かべていた。

「ただいま、エミール。先に帰っていたのね」
「うん! 今日はね、司教様がお客様の相手をしなければならないから早めに終わりますって言ったんだ」
「そうなの。一人で待っていて寂しかったでしょう?」

 エミールはそこでちょっと拗ねた表情をした。

「もうぼく子どもじゃないから寂しくないよ」

 とは言うけれど、ここ最近までずっとイレーネと一緒に寝ていたのだ。おそらくハインツが亡くなったことで、寂しさや母親までいなくなってしまうのではないかという不安に襲われたのだろう。

 イレーネは毎晩エミールの寝顔を見ながら、この年で父親を失った息子を可哀想に思い、それでも弱い所は見せたくないと、小さな身体で必死に背伸びする姿がいじらしくもあった。

「ふふ。そう。じゃあお皿をテーブルに並べてくれる?」
「うん!」

 エミールと早めの夕食をとり、内職の仕事をしながら、彼が今日教会で習ったことや覚えたことを話してくれる時間がイレーネにとっては一番の幸せだった。

「そういえばね、明日も早めに勉強終わるかもしれないんだ」
「まぁ、そうなの?」
「うん。お客様、すごく立派な人なんだって」
「へぇ……」

 一体誰だろう、とイレーネは思ったが、それよりも今日のようにエミールを一人留守番させておくことの方に頭を悩ませた。

「お母さんも明日、早く上がれないかお店の人に頼んでみるわね」
「大丈夫だよ、お母さん。ぼく一人でもきちんと留守番できたし!」
「でも……」
「それにもしかたら、ネリーおばさんのところで遊んでくるかもしれないから」
「そうなの?」
「うん! 遠慮しないで、いつでも来なさいって」

 ネリーには悪いが、自分が帰って来るまで預かってもらうことにしようか。

(今度お詫びしなくちゃ……)

 ネリーは今でもイレーネのメイドという意識があるのか、何かと気にかけてくれる。ハインツが亡くなった際も、葬儀の手伝いや精神的にもずいぶんと助けてもらった。イレーネはそんな彼女に恩返しがしたいと思いつつ、今は自分たちのことで精いっぱいなのが実状であった。

(やっぱり、再婚するしかないのかしら……)

「お母さん?」

 物思いに耽っていた母をエミールが心配した顔で覗き込んでくる。彼女はいけないと我に返り、慌てて「明日も早いから、そろそろ寝ましょうか」と誤魔化す。しかしエミールはじっと母の顔を見つめ、おもむろに口を開いた。

「あのね、お母さん。ぼく、もっと勉強して、早く大きくなって、強くなるから」
「え?」
「だからお母さんは何も心配しなくていいよ」

 今までずっと幼いと思っていた息子の思わぬほどしっかりした言葉に、イレーネは呆気にとられる。エミールは少し恥ずかしくなったのか、目を逸らしながら言い訳するように付け加えた。

「……そう、お父さんとも約束したから」
「お父さんと?」
「うん。……もしお父さんに何かあったら、おまえがお母さんのことを守ってやるんだぞ、って」

(ハインツ様……)

 自分には聞かせてくれなかった言葉を息子から伝えられ、イレーネはいろんな気持ちが押し寄せてきて泣きそうになった。そして不安そうに見つめるエミールの視線に気づくと、ありがとうと微笑んで抱きしめてやった。エミールも何も言わず、ぎゅっと母にしがみついてくる。

 この小さな温もりがあれば、自分は何でもできる。イレーネは目を閉じながらそう強く思った。

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