わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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35、脱出

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 ネリーが協力者となってくれたことで、ハインツの状況も知ることができた。彼はどうやらグリゼルダにも直接会ったようで、その時の問答が彼女のお眼鏡に適ったそうだ。

(何を聞かれたのかしら……)

 さすがのハインツも、すごく緊張しただろうなと思いながら、イレーネは作戦決行の日まで静かに部屋で過ごした。父にもう抵抗の意思はない、大人しく次の婚約者のもとへ嫁ぐと思わせるために。

 荷物は最小限に留めた。ハインツからもらったペンダントに、後で金銭に換えるための宝石――珍しいものは逆に足取りを掴まれそうなので、そこまで高価ではないものをいくつか選び、鞄に詰め込んだ。

 決行の夜。みなが寝静まった夜に、ネリーが訪れ、イレーネの着替えを素早く終わらせると、マントを羽織り、使用人が普段活用する裏口からそっと抜け出した。そして正門とは反対方向の、人一人通れるほどの抜け道から這い出した。

 そこから大通りまで急いで行き、手配してあった馬へと乗った。手綱を握るのはグリゼルダの配下で、彼もまた今回の逃避に付き合ってくれる協力者であった。他にも国境を越えるまで数人の護衛をつけて、グリゼルダはイレーネたちを隣国まで逃がすことを計画した。街の正門近くまで馬を走らせると、今度は幌を張った荷馬車が用意してあり、他の街へと届ける荷物に混じって、門を通り抜ける予定だった。

 ハインツとも、そこで合流した。

 久しぶりの再会であったが、喜んでいる余裕はなく、どちらも互いに強張った顔をして、不安に揺れた目をしていた。ばれないよう荷台の奥へ身体を滑り込ませ、身を寄せあって、手を握りしめられたのでイレーネも強く握り返した。

 日も出ぬ暗いうちから門をくぐることは商売に携わる者ならば珍しいことではなく、イレーネたちの他にも同じような馬車が続いていた。ここを通りすぎれば、第一関門はとりあえず突破したと言えるだろう。

(大丈夫。誰もわたしたちがいるなんて思わないわ)

「――待て!」

 しかし遠くから聴こえた声に、彼女は耳を疑った。どうしここに。わからない。でもどうか聞き間違いであってほしい。

 ここでディートハルトに見つかるわけにはいかなかった。

「どうした」

 護衛をしていた騎士の一人が冷静な声で対処する。

「おまえたちはグリゼルダ殿下の騎士だな? なぜ荷馬車の護衛などをしている」
「王家からの荷物を運んでほしいと頼まれたゆえ、我々が請け負った」
「だとしてもなぜおまえたちが行く必要がある」

 彼はなおも鋭く尋問する。イレーネは心臓の鼓動が痛いほど早くなって、ハインツが隣で抱きしめてくれなければ、どうにかなりそうだった。

 イレーネが激しく動揺する一方で、グリゼルダの騎士はどこまでも落ち着いた様子でディートハルトに答えていく。先の聖戦で騎士が不足しているため、我々が駆り出された。国王からの命令ゆえ、王女も逆らうことはできなかった。

 二人は続けて言葉を交わし、途中声を潜めるかたちで小声になったので、イレーネにはよくわからなかったが、ディートハルトはどうにか納得したらしい。荷馬車はまたゆっくりと、動き出した。

 自分の姿は見えていないはずだが、ディートハルトの突き刺さるような視線をイレーネは門をくぐるまで感じていた。無事に街から脱出することができたとわかっても、しばらくハインツの腕の中でずっと震えが止まらなかった。

 王都から遠ざかっても、途中でディートハルトや他の追っ手が追いかけてくるのではないか、気づいた父が行く先の関所を封じさせるのではないかとか、いろいろな不安が押し寄せてきてきて、イレーネもハインツも重く押し黙ったままだった。

(お母様も、こんな気持ちだったのかしら……)

 喜びよりも深い罪を犯してしまったという意識が胸に重くのしかかり、何度も自分がいなくなった後の屋敷の様子や途中で連れ戻される夢を見てしまう。

 ようやく幾分かの緊張が解けたのは、いくつかの街を通りすぎ、国境も無事に越えて、とある宿屋で休むことになってからだ。駆け落ちしてから、すでに数週間ばかりが経っていた。

「今頃、大変な騒ぎになっているでしょうね」
「だろうな……」

 しばらく二人きりで話したいと頼み、ネリーと護衛騎士には部屋の外に出てもらっていた。彼らもずいぶんと気を張りつめていたことだろう。もしかするとイレーネたち以上に不安を感じているかもしれない。

「……後悔しているか?」
「えっ?」

 寝台の縁に並んで座って俯いていたイレーネは、ぱっと顔を上げた。自分をじっと見つめるハインツの表情。彼女は久しぶりに彼の顔をまじまじと見た気がした。逃亡してから、いつ誰かにばれるのではないかと下ばかり見ていたからだ。

 それをハインツは、イレーネが後悔していると読み取ったのだろう。

「……いいえ。後悔していません」
「本当か? 帰りたいと、思っていないか?」
「思っていません」

 たしかに想像していたよりも、ずっと行動の重みは自分の心へ返ってきた。ここまできたら、もう引き返すことはできない。この重圧に耐えながら、これからは生きていかなくてはならないのだ。

 でも、決して後悔はしていない。

(それに……)

「わたしは一人ではありません。あなたが、います」

 ハインツしかいないのだ。ハインツと生きるために、イレーネは罪悪感に襲われようとあの街を出たのだ。

「これからどんな結末を迎えても、わたしたちの運命は共にあります。今改めて、そう感じているんです」


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