わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

文字の大きさ
上 下
34 / 116

34、協力者

しおりを挟む
「これを、届けてほしいの」

 渡した手紙を受け取ると、家令はちらりと宛名に目をやり、すぐにかしこまりましたと頭を下げた。きっとすぐにでも届けさせるだろう。なにせ相手はこの国の王女なのだから。

 グリゼルダとは、頻繁にではないが、手紙のやり取りをしていた。ディートハルトとの婚約がなくなり、侍女の仕事もやめたので、イレーネの近況を心配して……というのが表向きの内容だ。本音はただの暇つぶし、面白いことが起こっていないか知るためだ。

 王女相手なので当然返事を書かぬわけにはいかず、イレーネは新しい婚約者が決まったことなど、あまり詳しくは書かず、最低限の情報だけを彼女に報告していた。あとは季節柄のことや、グリゼルダが最近読んだという本の内容に関する返答に留めていた。

 だが、今回は違う。

 ハインツとのことを彼女が少しでも興味を引くように頭を捻って書き、駆け落ちするための助力を訴えた。もし力を貸してくれるならば、ハインツを通して計画を練ってほしいとも。

 かなり厚かましく、図々しい願いであることは承知だが、グリゼルダだけが頼りなのだと、イレーネは本音も混ぜて書き綴った。

 ハインツのことを愛している。彼と一緒に生きていきたいのだと。

 イレーネが王女と手紙のやり取りをしていることは、父も知っている。だがこれまで特に咎めることはしなかった。王族と娘が懇意にしていることは、父にとっても将来得に繋がるかもしれないと考えているからだ。ディートハルトのことがなければ、変わらずグリゼルダに仕えさせただろう。

 ともかくそういう経緯があったので、手紙を届けることも特に不審がられなかった……さすがに王女に助力を求めるとは思っていないだろう。……たぶん。

 大丈夫だと思っても、やはりこっそり封を切られ、中を確かめられているかもしれない。父でなくとも、グリゼルダの手元に届くまで、他の誰かに……そんなことないと思っても、不安は消えなかった。今のイレーネには待つことしかできない分、よけいにやきもきした。

(もし、姫様もだめだとなると……)

 その時は自分たちの力だけで逃げるしかない。イレーネが半ば諦めかけてそう思い始めた頃――グリゼルダからの返事が届いた。彼女は平静を装いながらその手紙に目を通していくにつれて、便箋を握る指先を震わせた。

『おまえの今までの恩に報いてあげる』

 グリゼルダは協力を引き受けてくれたのだった。

 グリゼルダはすでに駆け落ちの手順も一通り書いており、イレーネは自分とハインツを小屋で再会させてくれたメイド――ネリーも一緒に連れて行くことに決めた。

 イレーネは箱入り娘で、この先無事に逃げおおせてどこか田舎の地域に落ち着くにしても、きっと一人で生活するには苦労するはずだ。ハインツもしょせんは貴族のお坊ちゃんで、最悪二人して野垂れ死ぬ可能性もあった。屋敷から出るにしても、一人では難しいだろう。

 いろいろなことを踏まえると、初めから手引きしてくれる人間がいた方がいい。ネリーならば、ハインツの言伝を預かってくれたこともあり、説得できるかもしれない。……たとえ彼女が嫌だと言っても、イレーネは脅して付き合ってもらうつもりだった。

(ごめんなさい……)

 そう心の中で謝りながら、イレーネがネリーに打ち明けると――彼女はとても驚いた様子であったが、わかりましたと覚悟した表情で了承したので、イレーネの方がかえって動揺してしまった。

「本当にいいの?」
「はい」
「故国を離れることになるかもしれないのよ?」

 そしてもう二度と戻って来ることはない。

「はい。承知しております」
「……どうして、そこまでしてくれるの?」

 ハインツに会わせてくれたこともだ。同情していたとはいえ、他の使用人や父にばれたら解雇されていたかもしれないのに……。

「お嬢様に何かあったら力になってあげてほしいと、奥様に頼まれましたから」
「お母様に?」

 意外な名前にイレーネはネリーの顔をじっと見つめた。

「はい。私の母はもともと別のお屋敷で奉公していたのですが、そこの主人に手籠めにされたそうで……大きなお腹では仕事にならないからと暇を出されて途方に暮れていたところ、偶然教会に足を運んでいた奥様に、自分の屋敷へ来るようお声をかけていただいたのです」

 まだ外を自由に出られていたということは、母が使用人と駆け落ちする前のことだろう。イレーネが生まれる前の出来事だ。

「それで……いろいろありまして、奥様の身の回りの世話はすべて母が行うようになりまして、私も時々、母の手伝いをしていたのでございます」
「そうだったの……」

 仕事とはいえ、母のそばにいられた彼女がイレーネには羨ましく思えた。

「あなたがわたし付きのメイドになったのは最近よね? それまで、ずっと母の世話をしていたの?」
「はい。脚の悪くなった母に代わって……奥様はずっと、お嬢様のことを気にかけておられました」

(お母様……)

 母と引き離されたのはまだ十にも満たない頃だった。あの頃は寂しくて仕方がなかった。我慢できずこっそり会いに行っても、あとから必ず父にばれて、しばらくの間部屋に閉じ込められた。

 イレーネは泣いて、そのうち母も自分に会いたくないのだと思うようになっていった。そう思うことで、母のいない環境に慣れようとしたのだろう。

 だから今ネリーからずっと気にかけていたと言われても、信じられないような、だったらどうして今まで一度も会いにきてくれなかったの、とか、そういう複雑な気持ちを抱いた。

「お嬢様。どうか奥様を責めないであげてください。奥様がお部屋から出られないのは、すべて旦那様が禁じていられるからです」
「……わかっているわ」

 母を責めるべきではない。それに、離れていても自分のことをずっと気にかけてくれていたのだとわかって、安堵する気持ちもあった。

「ねぇ、お父様はお母様が許せないから……だから今でもあんな仕打ちをなさっているの?」
「それは……」

 ネリーは言い淀み、目を伏せた。

「私も詳しくは存じません。ですが……旦那様は決して奥様のことを嫌ってはいないと思います。むしろ深く愛しているからこそ……だからこそ、奥様が旦那様を置き去りにして逃げたことが今でも許せないのではないでしょうか」
「そうなの? でも……先に過ちを犯したのはお父様の方でしょう?」

 母は十分耐えた上で、逃げ出す道を選んだのだ。

 イレーネが納得できない顔でそう零すと、ネリーは困った顔で微笑んだ。

「母が言っていました。本当に大切なものは、失って初めて気づくものだと……どんなに真面目で賢い人も、そうした過ちを一度は犯すのだと……」

(本当に大切なもの……)

 父は母が逃げ出して、初めて母がなくてはならない存在だと気がついた。何の因果か、今度は娘である自分が母と同じ道を歩もうとしている。

 だがイレーネは父からすれば、母よりは価値の劣る存在だろう。

 もし失敗して連れ戻されたとしても、鳥籠で飼われることはない。自分の価値に気づく者はいないのだから。もし嘆き悲しむ者がいるとすれば、それはこれから逃げるハインツだけだ。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

【完結】365日後の花言葉

Ringo
恋愛
許せなかった。 幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。 あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。 “ごめんなさい” 言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの? ※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

筆頭婚約者候補は「一抜け」を叫んでさっさと逃げ出した

基本二度寝
恋愛
王太子には婚約者候補が二十名ほどいた。 その中でも筆頭にいたのは、顔よし頭良し、すべての条件を持っていた公爵家の令嬢。 王太子を立てることも忘れない彼女に、ひとつだけ不満があった。

姉の婚約者であるはずの第一王子に「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」と言われました。

ふまさ
恋愛
「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」  ある日の休日。家族に疎まれ、蔑まれながら育ったマイラに、第一王子であり、姉の婚約者であるはずのヘイデンがそう告げた。その隣で、姉のパメラが偉そうにふんぞりかえる。 「ぞんぶんに感謝してよ、マイラ。あたしがヘイデン殿下に口添えしたんだから!」  一方的に条件を押し付けられ、望まぬまま、第一王子の婚約者となったマイラは、それでもつかの間の安らぎを手に入れ、歓喜する。  だって。  ──これ以上の幸せがあるなんて、知らなかったから。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

婚約者を想うのをやめました

かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。 「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」 最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。 *書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。

不遇な王妃は国王の愛を望まない

ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝ある時、クラウン王国の国王カルロスの元に、自ら命を絶った王妃アリーヤの訃報が届く。王妃アリーヤを冷遇しておきながら嘆く国王カルロスに皆は不思議がる。なにせ国王カルロスは幼馴染の側妃ベリンダを寵愛し、政略結婚の為に他国アメジスト王国から輿入れした不遇の王女アリーヤには見向きもしない。はたから見れば哀れな王妃アリーヤだが、実は他に愛する人がいる王妃アリーヤにもその方が都合が良いとも。彼女が真に望むのは愛する人と共に居られる些細な幸せ。ある時、自国に囚われの身である愛する人の訃報を受け取る王妃アリーヤは絶望に駆られるも……。主人公の舞台は途中から変わります。 ※設定などは独自の世界観で、あくまでもご都合主義。断罪あり。ハピエン🩷 ※稚拙ながらも投稿初日からHOTランキング(2024.11.21)に入れて頂き、ありがとうございます🙂 今回初めて最高ランキング5位(11/23)✨ まさに感無量です🥲

処理中です...