わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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30、互いの気持ち

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 イレーネは少しの間であったがお目付け役の目を離れ、ハインツと二人きりになってしまった。事情があったとはいえ、事実は事実だ。報告を受けた父は怒り、目を離した彼らを減給に処し、ハインツには屋敷の出入りを禁じた。イレーネの言い訳は無視された。

「おまえもしばらく屋敷から出るな」

 そう命じられて数週間が経つ。

(ハインツ様、どうしているかしら……)

 イレーネが勝手な行動に出たせいで、使用人や彼に責任が求められた。謝りたくても、外へ出ることは禁じられており、誰かを使いにやるのも、また同じことになるのではないかと思い気が引けた。

(それとも、わたしのことなんて忘れて、あの女性たちと楽しくしていたりして……)

 ハインツの腕に遠慮なく豊満な胸を押し当てていた彼女たちの姿を思い出し、イレーネは胸がもやもや、むかむかした。そして悲しくもなった。ハインツなら、本当に彼女たちと愉しんでいるような気がしたからだ。

 避妊薬だって渡してしまったのだから、遊び放題だと言って、いつもよりも羽目を外しているかもしれない。……考えて、また苦しくなった。

 どうして自分はあの時薬など渡してしまったのだろう、と過去の自分まで責め始め、イレーネは心底嫌になった。親になる覚悟もないのに子どもができてしまうのはよくないことだ。でも……本当に相手のことが好きだったらどうなるのだろう。

 たとえ一緒になれなくても、いや、なれないからこそ、せめてあなたの子が欲しいと言われたら……考えてみれば、行為をして避妊薬を渡されるのは、たとえ好きな相手でなくても身体だけ利用されたみたいで嫌な気分になるものだ。

 それが好きな相手ならなおさら傷つき、薬を渡した男や、そうさせている女を憎らしく思うに決まっている……しかし、だからといって……イレーネはハインツを慕っていた女性の目を思い出し、どうしようもない思いに駆られるのだった。

 それから数週間経ってもハインツは訪れず、一ヵ月が過ぎてようやくイレーネのもとへ顔を見せにきた。

「よぉ……」

 どこか、緊張した顔つきだった。イレーネも同じような表情をしていただろう。

「元気、だったか?」
「ええ……ハインツ様は?」
「俺は……あんまり」

 そういえばどことなく顔色が悪い気がする。

「大丈夫ですか」
「うん……いや、」

 どっちなんだろう。

「イレーネ」
「はい」
「そっち、行っていい?」

 なんで許可を取るのだろうと戸惑いながらも、イレーネは頷いた。ハインツはゆっくり目の前まで来ると、いきなりがばっと抱き着いてきたので、彼女はびくりと身体を震わせてしまった。

「ハインツ様?」
「会いたかった……」

 一体どうしたのか、という疑問は、絞り出すように呟かれた言葉ですべて消え去ってしまった。イレーネが恐る恐る背中に手を回せば、彼はさらにぎゅうっと抱きしめてくる。骨が折れるのではないかと思うくらい、きつく。

「ハインツ様、くるしい……」
「俺も、苦しかった……」

 いや、心理的な意味ではなく物理的にだ。だがハインツはそんなの些細な問題だというようにぐりぐりとイレーネの肩口に額を押しつけてくる。そしてスーハ―と匂いを嗅いできたので、さすがにやめてほしいと言ったが、やはりこれも却下された。

 仕方がないので、抱きしめられたままイレーネは言葉を紡ぐ。

「もう、こちらへはお出でになられないと思っておりました」
「……おまえの親父さんに結婚まで来るなって門前払いされてたんだよ」

 初めて聞いた内容にイレーネは驚いた。彼女の動揺に気づいたのか、ハインツが顔を上げて、じっとイレーネの顔を見つめてくる。

「でも、それならどうして」
「だから、必死で毎日会わせてくださいって頼んだ。土下座までやったら、ようやく認めてくれた」
「まぁ……」

 そこまで、とイレーネは正直思ってしまった。別に婚約が破棄されたわけではない。ただ結婚までの間、互いに会うのを我慢するだけだ。それなのにどうして貴族にとって、人として屈辱的な行為をしてまで、父の許しを請おうとしたのか。

「会いたかったんだよ」

 おまえに、とハインツはまたイレーネを抱き寄せた。

「おまえは俺に会えなくて、寂しくなかったの?」
「わたしは……」

 イレーネだって、寂しかった。でも、正直に伝えてしまうのは不安だった。だって――

「わたしに会えなくても、あなたは他の女性と……仲良くしていらっしゃるだろうと思っていたから」
「ひでぇ」

 また顔を埋めて、くぐもった声で非難される。イレーネも言葉に詰まるも、すぐに言い返した。

「わたしに会いに来たのも……いつものようなことをしたかったからでしょう?」
「はぁ? ちげえし」

 がばっと顔を上げると、ハインツはイレーネに文句ありげな目で抗議した。だがイレーネがこれまでの行動を省みてください、という無言の圧と疑いに満ちた眼差しに、すぐに勢いを失った。

「……たしかに、そういうこともしたい」

(やっぱり……)

「仕方ないだろ。おまえと出かけた日から、ずっとやってないんだから!」

 イレーネはその台詞に耳を疑った。ハインツはあっ、という顔をして、気まずげに目を逸らした。

「……嘘ですよね?」
「嘘じゃねぇ」
「……あの子たちとやらなかったんですか」
「だれ。あの子たちって」

 イレーネはあの日話しかけてきた女性だと説明すれば、彼はああ、というように苦い顔をした。

「なんかいつにもましてしつこかったけど……やってない」
「……」
「ほんとだって!」

 信じてくれよ、とハインツは泣きそうな声で言った。

「そりゃたしかに街歩いていたら、いきなり厳ついオッサンたちに両腕掴まれて、あいつの店に連行されて、無理矢理服も脱がされて、扱かれたり、口で慰められたりしたけど、おまえの泣きそうな顔がずっとちらついて、勃たなかったし、萎えて不発に終わったよ!」

 とんでもない暴露に、イレーネは言葉を失った。ハインツはやけっぱちになったように捲し立てる。

「あの女、なんで勃たないのよ、その年でもう不能になったの、とか言って俺の頬に思いきり張り手食らわせて……そうだ。その時の顔、他の連中も見ているはずだから、今度証拠にそいつらのところ行こう。いや、おまえは部屋から出るの禁じられているだろうから、俺がそいつらをここへ連れてくる。そうすればおまえだって、」

「待って、待ってください。わかりました。わかりましたから……!」

 とんでもない計画を立てようとしているハインツに、イレーネは慌てて止めに入った。しかしハインツは、なんで止めるんだというように不満な顔をした。

「こういうことは、白黒はっきりさせておいた方がいいだろ。あの女が嘘を吐く可能性だってあるし……そうだ。隣にいたやつらの耳にも届いているだろうから、そいつらも連れてきて――」
「わたしも、寂しかったんです」

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