わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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19、一夜の恋

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 夜になった。だがイレーネはなかなか寝付けず、少し散歩でもしようと思って起き上がった。あまり褒められた行動ではなく、普段の自分ならば決してしないのだが、今日はなぜかそういう気分になった。

 夜着の上からすっぽりと身体を覆うマントを羽織り、彼女はそっと自室から抜け出した。今夜は見張りも見当たらない。出立を前にして、恋人や家族のもとで過ごしているのだろう。

 外は蝋燭がいらぬほど、月の光が明るかった。イレーネはもっとよく見たいと、中庭の方まで歩いていった。誰か人影が目に入ると、さっと大きな柱に隠れて、そこからひっそりと丸い月を見上げた。

 今日の自分はおかしい。心が落ち着かない。昼間ディートハルトの姿を見たからだろうか。

「――イレーネ?」

 いいや、違う。たぶん、自分は待っていた。彼と最後に、もう一度だけ会うことを。

「ユリウス様」

 ユリウスは真っ直ぐこちらへ歩み寄ってくると、なぜここに、と静かな口調で問いかけた。若い娘がふらふらと夜更けに出歩いているので怒っているのかもしれない。

「眠れなくて」

 だがイレーネは漠然とした期待を打ち明けることはせず、よくあるだろう言い訳を口にした。そしてユリウスの視線から逃げるように月を見上げた。

「そうか……。実は俺も、眠れなかった」

 彼もまた、同じように月を見上げた。イレーネがちらりとその横顔を見ると、彼もこちらを向いた。二人は黙り込んで、互いの顔を見つめ合う。

 ひどく張りつめた空気だ。きっとたくさんの感情が胸の中に渦巻いているはずなのに、言葉にできない。言ってしまえば、もう戻れない。そんな予感があった。

「……あの、わたしやっぱりそろそろ戻りますね。おやすみなさい」

 イレーネは耐え切れなくなって、自ら背を向けた。逃げようとした。だが、今度はユリウスがイレーネを振り向かせた。そして、すぐそばに彼の顔があって、柔らかな感触が唇に押し当てられていた。

 それが何なのか知ると、イレーネはびくりと身体を大きく震わせた。だめだと彼の胸を押しのけようとした。けれどユリウスの身体は大きくてびくともせず、むしろイレーネの抵抗を封じ込めるように抱きしめた。

「イレーネ……」

 切なげに名前を呼ばれ、イレーネは頬がカッと熱くなった。そして抵抗よりも、もっと強い気持ちが心の奥底から湧き上がってきて、気づけばユリウスの口づけに応えていた。

 ユリウスはイレーネの許しを得たとわかると、ますます夢中で自身の唇を押し当ててきた。薄く口が開けばこじ開けるようにして舌を捻じ込んで、イレーネがその舌を優しく招き入れれば、必死で絡ませて、よりきつく吸い上げた。

 イレーネは何も考えられなかった。ユリウスの荒い呼吸や触れている唇の感触に頭の芯が痺れ、言葉にできない悦びを感じていた。泣きそうな心地になった。

 二人は息を弾ませながら唇を離した。ユリウスの瞳をイレーネは逸らさずに見つめ、彼がまた顔を近づけてくると目を閉じて受け入れる。それを何度か繰り返した後、ユリウスがイレーネの頭を抱え込むようにして抱きしめてきた。肩口に頬が当たり、耳元に掠れた声が届く。

 神に懺悔する言葉だ。そしてイレーネへの気持ちが告げられた。

 ユリウスの所属する白の騎士団は神のために戦う戦士で――修道士の集まりだ。団に入団する条件は婚約をしていないこと、既婚者ではないことが挙げられる。そして生涯貞潔を誓わなければならない。

 ユリウスがイレーネにしたことも、告げた言葉も、すべて許されないことだった。

 それでも彼は、苦しそうな表情をしながらも、イレーネを離そうとしなかった。彼女が少しでも身じろぎすれば、ますますきつく抱擁した。

 少しでもイレーネを感じていたいというように。

(ユリウス様……)

 イレーネは躊躇いながらも、ユリウスの背中に手を回した。そうすると彼は強く抱きしめ返してくれて、やがて顔を上げてまた噛みつくように唇を奪って貪ってきた。

 この時間が永遠に続けばいい。

 イレーネも、おそらくユリウスも同じことを思っただろうが、理性が彼らを現実へ引き戻した。

 もし、ユリウスが修道士でなければ、イレーネがディートハルトの婚約者でなければ、二人が地獄に堕ちてもいいと思うほど貪欲な性格をしていれば、口づけ以上の行為に踏み切っただろう。

 だが結局彼らはどちらも真面目で、善良な人間だった。本能よりも理性が勝る生き物だった。

 イレーネの耳元で、何度もぎこちない愛の言葉を告げるのがユリウスの精いっぱいだった。イレーネも、それでいいと思った。これだけで自分は一生分の幸せを得て、満たされた。そう思えたのだ。

 二人はもう一度きつく抱きしめ合うと、ゆっくりと身体を離し、ユリウスは名残惜しそうに去っていくイレーネをその場で見送った。彼女は何度も振り返そうになって、とうとう途中で彼の方を見てしまった。

 彼はイレーネを切なげな目で見ていた。でも、ふっと微笑んで、手を振った。まるでまた会おうというように。イレーネはそれを見て、自然と笑みを浮かべていた。

(これでいいんだわ……)

 ユリウスとはきっとまた会える。そして最初に会った時と同じように自分に笑いかけてくれる。

 その時はもう、自分たちは今日のことをなかったことにして、ただの知り合いとして話すことになるだろう。だがそれでいいのだ。

 ひどく穏やかな心地でイレーネは自室へ戻った。きっと今日は眠れない。ユリウスのことばかり考えてしまうだろう。今も。

 ――だから、部屋に明かりがついていたことにも、何とも思わなかった。自分がつけてそのままにしたのだと思った。

「遅かったな」

 ディートハルトが待っているなんて夢にも思わなかった。

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