19 / 116
19、一夜の恋
しおりを挟む
夜になった。だがイレーネはなかなか寝付けず、少し散歩でもしようと思って起き上がった。あまり褒められた行動ではなく、普段の自分ならば決してしないのだが、今日はなぜかそういう気分になった。
夜着の上からすっぽりと身体を覆うマントを羽織り、彼女はそっと自室から抜け出した。今夜は見張りも見当たらない。出立を前にして、恋人や家族のもとで過ごしているのだろう。
外は蝋燭がいらぬほど、月の光が明るかった。イレーネはもっとよく見たいと、中庭の方まで歩いていった。誰か人影が目に入ると、さっと大きな柱に隠れて、そこからひっそりと丸い月を見上げた。
今日の自分はおかしい。心が落ち着かない。昼間ディートハルトの姿を見たからだろうか。
「――イレーネ?」
いいや、違う。たぶん、自分は待っていた。彼と最後に、もう一度だけ会うことを。
「ユリウス様」
ユリウスは真っ直ぐこちらへ歩み寄ってくると、なぜここに、と静かな口調で問いかけた。若い娘がふらふらと夜更けに出歩いているので怒っているのかもしれない。
「眠れなくて」
だがイレーネは漠然とした期待を打ち明けることはせず、よくあるだろう言い訳を口にした。そしてユリウスの視線から逃げるように月を見上げた。
「そうか……。実は俺も、眠れなかった」
彼もまた、同じように月を見上げた。イレーネがちらりとその横顔を見ると、彼もこちらを向いた。二人は黙り込んで、互いの顔を見つめ合う。
ひどく張りつめた空気だ。きっとたくさんの感情が胸の中に渦巻いているはずなのに、言葉にできない。言ってしまえば、もう戻れない。そんな予感があった。
「……あの、わたしやっぱりそろそろ戻りますね。おやすみなさい」
イレーネは耐え切れなくなって、自ら背を向けた。逃げようとした。だが、今度はユリウスがイレーネを振り向かせた。そして、すぐそばに彼の顔があって、柔らかな感触が唇に押し当てられていた。
それが何なのか知ると、イレーネはびくりと身体を大きく震わせた。だめだと彼の胸を押しのけようとした。けれどユリウスの身体は大きくてびくともせず、むしろイレーネの抵抗を封じ込めるように抱きしめた。
「イレーネ……」
切なげに名前を呼ばれ、イレーネは頬がカッと熱くなった。そして抵抗よりも、もっと強い気持ちが心の奥底から湧き上がってきて、気づけばユリウスの口づけに応えていた。
ユリウスはイレーネの許しを得たとわかると、ますます夢中で自身の唇を押し当ててきた。薄く口が開けばこじ開けるようにして舌を捻じ込んで、イレーネがその舌を優しく招き入れれば、必死で絡ませて、よりきつく吸い上げた。
イレーネは何も考えられなかった。ユリウスの荒い呼吸や触れている唇の感触に頭の芯が痺れ、言葉にできない悦びを感じていた。泣きそうな心地になった。
二人は息を弾ませながら唇を離した。ユリウスの瞳をイレーネは逸らさずに見つめ、彼がまた顔を近づけてくると目を閉じて受け入れる。それを何度か繰り返した後、ユリウスがイレーネの頭を抱え込むようにして抱きしめてきた。肩口に頬が当たり、耳元に掠れた声が届く。
神に懺悔する言葉だ。そしてイレーネへの気持ちが告げられた。
ユリウスの所属する白の騎士団は神のために戦う戦士で――修道士の集まりだ。団に入団する条件は婚約をしていないこと、既婚者ではないことが挙げられる。そして生涯貞潔を誓わなければならない。
ユリウスがイレーネにしたことも、告げた言葉も、すべて許されないことだった。
それでも彼は、苦しそうな表情をしながらも、イレーネを離そうとしなかった。彼女が少しでも身じろぎすれば、ますますきつく抱擁した。
少しでもイレーネを感じていたいというように。
(ユリウス様……)
イレーネは躊躇いながらも、ユリウスの背中に手を回した。そうすると彼は強く抱きしめ返してくれて、やがて顔を上げてまた噛みつくように唇を奪って貪ってきた。
この時間が永遠に続けばいい。
イレーネも、おそらくユリウスも同じことを思っただろうが、理性が彼らを現実へ引き戻した。
もし、ユリウスが修道士でなければ、イレーネがディートハルトの婚約者でなければ、二人が地獄に堕ちてもいいと思うほど貪欲な性格をしていれば、口づけ以上の行為に踏み切っただろう。
だが結局彼らはどちらも真面目で、善良な人間だった。本能よりも理性が勝る生き物だった。
イレーネの耳元で、何度もぎこちない愛の言葉を告げるのがユリウスの精いっぱいだった。イレーネも、それでいいと思った。これだけで自分は一生分の幸せを得て、満たされた。そう思えたのだ。
二人はもう一度きつく抱きしめ合うと、ゆっくりと身体を離し、ユリウスは名残惜しそうに去っていくイレーネをその場で見送った。彼女は何度も振り返そうになって、とうとう途中で彼の方を見てしまった。
彼はイレーネを切なげな目で見ていた。でも、ふっと微笑んで、手を振った。まるでまた会おうというように。イレーネはそれを見て、自然と笑みを浮かべていた。
(これでいいんだわ……)
ユリウスとはきっとまた会える。そして最初に会った時と同じように自分に笑いかけてくれる。
その時はもう、自分たちは今日のことをなかったことにして、ただの知り合いとして話すことになるだろう。だがそれでいいのだ。
ひどく穏やかな心地でイレーネは自室へ戻った。きっと今日は眠れない。ユリウスのことばかり考えてしまうだろう。今も。
――だから、部屋に明かりがついていたことにも、何とも思わなかった。自分がつけてそのままにしたのだと思った。
「遅かったな」
ディートハルトが待っているなんて夢にも思わなかった。
夜着の上からすっぽりと身体を覆うマントを羽織り、彼女はそっと自室から抜け出した。今夜は見張りも見当たらない。出立を前にして、恋人や家族のもとで過ごしているのだろう。
外は蝋燭がいらぬほど、月の光が明るかった。イレーネはもっとよく見たいと、中庭の方まで歩いていった。誰か人影が目に入ると、さっと大きな柱に隠れて、そこからひっそりと丸い月を見上げた。
今日の自分はおかしい。心が落ち着かない。昼間ディートハルトの姿を見たからだろうか。
「――イレーネ?」
いいや、違う。たぶん、自分は待っていた。彼と最後に、もう一度だけ会うことを。
「ユリウス様」
ユリウスは真っ直ぐこちらへ歩み寄ってくると、なぜここに、と静かな口調で問いかけた。若い娘がふらふらと夜更けに出歩いているので怒っているのかもしれない。
「眠れなくて」
だがイレーネは漠然とした期待を打ち明けることはせず、よくあるだろう言い訳を口にした。そしてユリウスの視線から逃げるように月を見上げた。
「そうか……。実は俺も、眠れなかった」
彼もまた、同じように月を見上げた。イレーネがちらりとその横顔を見ると、彼もこちらを向いた。二人は黙り込んで、互いの顔を見つめ合う。
ひどく張りつめた空気だ。きっとたくさんの感情が胸の中に渦巻いているはずなのに、言葉にできない。言ってしまえば、もう戻れない。そんな予感があった。
「……あの、わたしやっぱりそろそろ戻りますね。おやすみなさい」
イレーネは耐え切れなくなって、自ら背を向けた。逃げようとした。だが、今度はユリウスがイレーネを振り向かせた。そして、すぐそばに彼の顔があって、柔らかな感触が唇に押し当てられていた。
それが何なのか知ると、イレーネはびくりと身体を大きく震わせた。だめだと彼の胸を押しのけようとした。けれどユリウスの身体は大きくてびくともせず、むしろイレーネの抵抗を封じ込めるように抱きしめた。
「イレーネ……」
切なげに名前を呼ばれ、イレーネは頬がカッと熱くなった。そして抵抗よりも、もっと強い気持ちが心の奥底から湧き上がってきて、気づけばユリウスの口づけに応えていた。
ユリウスはイレーネの許しを得たとわかると、ますます夢中で自身の唇を押し当ててきた。薄く口が開けばこじ開けるようにして舌を捻じ込んで、イレーネがその舌を優しく招き入れれば、必死で絡ませて、よりきつく吸い上げた。
イレーネは何も考えられなかった。ユリウスの荒い呼吸や触れている唇の感触に頭の芯が痺れ、言葉にできない悦びを感じていた。泣きそうな心地になった。
二人は息を弾ませながら唇を離した。ユリウスの瞳をイレーネは逸らさずに見つめ、彼がまた顔を近づけてくると目を閉じて受け入れる。それを何度か繰り返した後、ユリウスがイレーネの頭を抱え込むようにして抱きしめてきた。肩口に頬が当たり、耳元に掠れた声が届く。
神に懺悔する言葉だ。そしてイレーネへの気持ちが告げられた。
ユリウスの所属する白の騎士団は神のために戦う戦士で――修道士の集まりだ。団に入団する条件は婚約をしていないこと、既婚者ではないことが挙げられる。そして生涯貞潔を誓わなければならない。
ユリウスがイレーネにしたことも、告げた言葉も、すべて許されないことだった。
それでも彼は、苦しそうな表情をしながらも、イレーネを離そうとしなかった。彼女が少しでも身じろぎすれば、ますますきつく抱擁した。
少しでもイレーネを感じていたいというように。
(ユリウス様……)
イレーネは躊躇いながらも、ユリウスの背中に手を回した。そうすると彼は強く抱きしめ返してくれて、やがて顔を上げてまた噛みつくように唇を奪って貪ってきた。
この時間が永遠に続けばいい。
イレーネも、おそらくユリウスも同じことを思っただろうが、理性が彼らを現実へ引き戻した。
もし、ユリウスが修道士でなければ、イレーネがディートハルトの婚約者でなければ、二人が地獄に堕ちてもいいと思うほど貪欲な性格をしていれば、口づけ以上の行為に踏み切っただろう。
だが結局彼らはどちらも真面目で、善良な人間だった。本能よりも理性が勝る生き物だった。
イレーネの耳元で、何度もぎこちない愛の言葉を告げるのがユリウスの精いっぱいだった。イレーネも、それでいいと思った。これだけで自分は一生分の幸せを得て、満たされた。そう思えたのだ。
二人はもう一度きつく抱きしめ合うと、ゆっくりと身体を離し、ユリウスは名残惜しそうに去っていくイレーネをその場で見送った。彼女は何度も振り返そうになって、とうとう途中で彼の方を見てしまった。
彼はイレーネを切なげな目で見ていた。でも、ふっと微笑んで、手を振った。まるでまた会おうというように。イレーネはそれを見て、自然と笑みを浮かべていた。
(これでいいんだわ……)
ユリウスとはきっとまた会える。そして最初に会った時と同じように自分に笑いかけてくれる。
その時はもう、自分たちは今日のことをなかったことにして、ただの知り合いとして話すことになるだろう。だがそれでいいのだ。
ひどく穏やかな心地でイレーネは自室へ戻った。きっと今日は眠れない。ユリウスのことばかり考えてしまうだろう。今も。
――だから、部屋に明かりがついていたことにも、何とも思わなかった。自分がつけてそのままにしたのだと思った。
「遅かったな」
ディートハルトが待っているなんて夢にも思わなかった。
199
お気に入りに追加
4,937
あなたにおすすめの小説
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

姉の婚約者であるはずの第一王子に「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」と言われました。
ふまさ
恋愛
「お前はとても優秀だそうだから、婚約者にしてやってもいい」
ある日の休日。家族に疎まれ、蔑まれながら育ったマイラに、第一王子であり、姉の婚約者であるはずのヘイデンがそう告げた。その隣で、姉のパメラが偉そうにふんぞりかえる。
「ぞんぶんに感謝してよ、マイラ。あたしがヘイデン殿下に口添えしたんだから!」
一方的に条件を押し付けられ、望まぬまま、第一王子の婚約者となったマイラは、それでもつかの間の安らぎを手に入れ、歓喜する。
だって。
──これ以上の幸せがあるなんて、知らなかったから。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
婚約者を想うのをやめました
かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。
「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」
最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。
*書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。
不遇な王妃は国王の愛を望まない
ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝ある時、クラウン王国の国王カルロスの元に、自ら命を絶った王妃アリーヤの訃報が届く。王妃アリーヤを冷遇しておきながら嘆く国王カルロスに皆は不思議がる。なにせ国王カルロスは幼馴染の側妃ベリンダを寵愛し、政略結婚の為に他国アメジスト王国から輿入れした不遇の王女アリーヤには見向きもしない。はたから見れば哀れな王妃アリーヤだが、実は他に愛する人がいる王妃アリーヤにもその方が都合が良いとも。彼女が真に望むのは愛する人と共に居られる些細な幸せ。ある時、自国に囚われの身である愛する人の訃報を受け取る王妃アリーヤは絶望に駆られるも……。主人公の舞台は途中から変わります。
※設定などは独自の世界観で、あくまでもご都合主義。断罪あり。ハピエン🩷
※稚拙ながらも投稿初日からHOTランキング(2024.11.21)に入れて頂き、ありがとうございます🙂 今回初めて最高ランキング5位(11/23)✨ まさに感無量です🥲

【完結】愛したあなたは本当に愛する人と幸せになって下さい
高瀬船
恋愛
伯爵家のティアーリア・クランディアは公爵家嫡男、クライヴ・ディー・アウサンドラと婚約秒読みの段階であった。
だが、ティアーリアはある日クライヴと彼の従者二人が話している所に出くわし、聞いてしまう。
クライヴが本当に婚約したかったのはティアーリアの妹のラティリナであったと。
ショックを受けるティアーリアだったが、愛する彼の為自分は身を引く事を決意した。
【誤字脱字のご報告ありがとうございます!小っ恥ずかしい誤字のご報告ありがとうございます!個別にご返信出来ておらず申し訳ございません( •́ •̀ )】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる