わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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14、風邪

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 医者からは風邪だと告げられた。疲労がたまっていたせいでしょう、とも。

 イレーネはまだ少女ともいえる下働きの娘にこのことを伝え、侍女頭から一日休む許可を得た。一日寝ていればすぐに治るだろうと思っていたが、なかなか引かず、グリゼルダにも話は伝わったようで、しばらく自宅で療養するようにと命じられた。

 仕事もせずに寝ているだけでは確かに邪魔だろうと、イレーネは王都の屋敷へとふらふらになりながら馬車に乗って帰宅したのだった。

 父は仕事で出かけており、イレーネは内心ほっとした。父がいればあれこれと聞かれるだろうし、今この体調で相手をするのは勘弁してほしかった。

 メイドに服を着替えさせられ、倒れ込むようにイレーネは寝台に横になった。やはり城よりも自分の部屋が一番落ち着く。気が緩んだのか、さらに熱が出て、イレーネは目が覚めてはまたすぐに眠ることを繰り返した。その間父がメイドを通してあれこれと聞きだそうとしたが、イレーネは何と答えたか覚えていなかった。

 一週間近く休んでいただろうか。

「お嬢様。お客様です」

 いつもは最低限のことしか話さず、用事が済めば一人にしてくれるメイドが、イレーネの顔をじっと覗き込んでそう告げた。

「……だれ?」
「ディートハルト様です」

 イレーネは驚いた。

「どうして、彼が……」
「お見舞いだそうです」
「そんな、困るわ。風邪がうつってしまうわ……」

 帰ってもらいたい。イレーネの遠回しな意見は却下され、メイドは部屋の扉を開けにいった。開けた先に、ディートハルトがいた。イレーネは閉口した。

 ディートハルトはメイドと入れ替わる形で中へ入ってくる。彼はまるで初めてイレーネの部屋に入ったというようにぐるりと室内を見渡した。いろんな国から取り寄せた、高価で珍しい物を屋敷のあちこちに飾り立てている父の趣味と比べれば、イレーネの部屋はずいぶんと質素で落ち着いた雰囲気に見えることだろう。

「大丈夫か」

 ディートハルトは観察を済ませると、すたすたとイレーネのもとまで歩み寄ってきて尋ねる。

(ほんとに、ディートハルトさまだわ……)

「イレーネ?」

 名前を呼ばれ、鈍い頭で起き上がろうとする。だがそれだけでもひどく億劫で、疲れてしまう。

「無理をするな」

 そう言って背中を支えられ、咳きこむ。

「水を飲むか?」
「いえ、大丈夫です……ディートハルト様。せっかく来ていただいて申し訳ないのですが、うつるといけないので、どうかもうお帰り下さい」

 ディートハルトは馬鹿にするように笑った。

「俺は滅多に風邪など引かないから大丈夫だ」
「でも……」
「それより、水は飲んだ方がいい」

 ディートハルトはこの話はこれで終いだというように立ち上がり、水差しから水を注いで持ってきた。寝台の縁に腰かけて、イレーネがきちんと飲む様を見ている。

(誰かに何か、言われたのかしら……)

 ひどく落ち着かなかった。

「あの、王宮の方は何も変わりませんか」
「ああ。きみの同僚がきみのことを心配していた」
「……他に、何かおっしゃっていませんでしたか?」

 一週間は長いだろう。その分仕事を代わってもらって、申し訳なく思う。早く良くなって埋め合わせしなければ……。

「日頃よく働いてもらっているから、この機会にゆっくり休むといいと言っていた」
「そう、ですか……」

 怒っていないようなら、よかった。ディートハルトの前だから、そう言っただけかもしれないけれど……。

 話はそこで途切れ、また気まずい雰囲気なるかと思いきや、先ほどのメイドが戻ってきた。両手に湯を含んだたらいを抱えている。

「汗をかいていられるだろうと思って、お持ちいたしました」
「ありがとう。……ディートハルトさま」

 身を清めるので、そろそろ退出を……とイレーネは視線で訴えた。しかし彼は「俺がやろう」とメイドからたらいを受け取ったので、イレーネは仰天した。

「別におかしなことではないだろう。婚約者なのだから、これくらいやっても」
「そんな。公爵家の方にこんなことさせられません」
「戦場では怪我人も病人も、等しく世話したことがある。気にするな」

 ここは戦場ではない。そう言葉にしても聞き入れてくれない傲慢さが感じられ、助けを求めるようにイレーネはメイドの方を見た。

 だが彼女はイレーネではなくディートハルトの「もう下がっていい」という命令に従い、礼儀正しく頭を下げて部屋を退出した。

(そんな……)

 イレーネは裏切られたようなショックを受ける。そして直感した。きっとおそらく彼女はわざとディートハルトがイレーネの身体を拭くように仕向けた。父の命令だ。

 ――ならば、逆らうことはできない。

「服は脱げるか?」

 ディートハルトも、わかっているのだろう。父が期待していることを果たすまでは部屋から出られないと。拒んだところで、父は別の手段を用意するだけだ。食事に薬を盛って処女を奪った日のように。

(ひどいわ……)

 イレーネは泣きそうな心地になりながらも、俯いて、泣くのを堪えた。諦めて、自ら衣服を重ね合わせているリボンをしゅるりと解いた。前を開き、するりと脱ぐと、肌が空気に触れてぞくりとする。

「これも、脱がすぞ」

 シュミーズの紐に手をかけ、上から下へとディートハルトはするすると下していく。素肌が露わになり、イレーネは寒さと羞恥から胸元を隠した。ディートハルトの視線を感じ、膝を引き寄せ、背中を向けた。

 彼は布を湯につけて絞ると、イレーネの肌を優しく拭いていく。汗をかいていたので普通なら気持ちよく感じられるのだろうが、今は敵に急所を晒しているようでひどく落ち着かなかった。

「こっちを向いてくれ」
「前は、自分で拭きます」

 ディートハルトは却下するかと思ったが、わかったと言って、布を渡してくる。内心安堵しつつ、やはり嫌々付き合わされているのだと居たたまれない心地になった。手早く済ませてしまおうと布を当て、よくわからないまま自身の身体を拭いた。

「終わったか?」
「はい」
「じゃあ次は下だな」

 驚いて彼の方を見れば、どうしたというように真顔な表情があった。

「あの、でも、」
「脚を伸ばして」
「ひゃっ」

 問答無用で上掛けを捲られ、曲げていた脚を伸ばされる。シュミーズもするりと剥ぎ取られ、ドロワースは履いていなかったので、一糸纏わぬ状態にされてしまった。

「ディ、ディートハルトさま」

 彼はどこまでも淡々とした表情でイレーネの身体を拭いていく。足の爪先から太股にかけて、いやらしさもなく、イレーネの汗ばんだ肌に触れて、布を押し当ててくる。

 別に拘束されているわけでもないのに、イレーネは寝台に磔にされたような心地でじっと所業に耐えた。

「――終わったぞ」
「あ、ありがとうございます」

 早く服を着よう。慣れないことをされたせいでひどく疲れてしまい、また熱が上がってきた気がする。素肌も晒していたせいかぞくぞくとした悪寒に襲われる。

「寒いか?」
「はい……」

 のろのろとした動きにディートハルトが手伝ってくれるのかと思ったが、彼はイレーネの身体を引き寄せ、抱きしめてきた。彼女は驚きで声すら出なかった。

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