わたしを捨てたはずの婚約者様からは逃げられない。

りつ

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4、騎士

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「イレーネ。悪いけど、これグリゼルダ様のところまで持っていてくれる?」

 大量の衣類を洗濯メイドに渡し終えた帰り、イレーネは同僚の侍女に呼びとめられる。イレーネは特に不満も述べず、素直に彼女から何冊にも重ねられた本を受け取った。

「ありがと。助かるわ。あ、私は他の人に用事を任されたって上手く言っておいてくれる?」
「はい」

 詮索もせず従順に頷いたイレーネに、彼女はふっと微笑む。

「ほんとあなたって大人しいのね。最初はディートハルト様のこねで入ってきた我儘なご令嬢かと思ったけど……全然違うもの。真面目で物分かりも良くて、優しい。みんなすごく感謝しているし、助かっているわ」
「恐れ入ります」
「そういう堅苦しいところも、身分を弁えているって感じがしていいと思うわ」

 じゃあね、と彼女は言いたいことだけ言うと足早に去ってしまった。

(感謝している、か……)

 きっと彼女は恋人に会いに行くのだろう。

 表情でわかった。仕事を放り出して、少しでも長く愛する人のそばにいたい。他の侍女もだいたい似たり寄ったりだ。

 ディートハルトの婚約者になり、彼の勧めで城の女官として働き始めたイレーネは、宮廷が決して華やかで秩序の保たれた場所ではないのだと知った。人の欲望が渦巻く、恐ろしい場所である。

(早く、姫様のもとへ帰ろう)

 イレーネが仕えている相手は、この国の第三王女、グリゼルダである。他の王子や王女に王妃の血が流れているのが疑わしいなか、彼女はれっきとした国王と王妃の娘であった。誇り高く、王族らしい考えの持ち主である。博識でもあり、この本も王女が所望したものであった。

 一冊一冊が厚みがあり、イレーネが読んでもきっと理解できないだろう。そんなことを考えていると、不意にドンと何かにぶつかった。どうにか自身の身体は支えることができたが、代わりに本を床へ数冊落としてしまう。

「失礼!」

 若い青年の声が未だ高く積み上げられた本の向こう側から聴こえてくる。

「急いでいたものだから、怪我はなかっただろうか」

 向きを変えてようやく現れた姿、全身白を基調とした服装に、イレーネは恐縮する。

「いいえ。こちらこそ前が見えずに申し訳ありませんでした」

 背中まである黒髪を後ろで一つに縛り、整った顔立ちをした男性は白の騎士団という神に仕える修道士でもあり、戦士でもあった。

 国王直属の騎士団とは違い、彼らは基本神のために動く。ただ国王の求めが、自分たちの意思、神の教えに背くものでなければ、力を貸す集団でもあった。

「本当に騎士様になんという無礼を……申し訳ありません」
「そう畏まらないでくれ。そもそも私が脇目もふらず歩いていたのが悪い」

 気にしないでくれ、と青年が緑の瞳を細めて快活に言い放ったのが、イレーネには意外であった。

 城に滞在する騎士はみな自分たちの職業に誇りを持っており、それゆえ傲慢な所が多々あった。世俗を捨て神の道に生きる騎士ならば、なおのことイレーネたちのような庶民を疎んじていると思っていたが、どうやら違うらしい。

 質素な生活、敬虔な信仰心などから寛大な心を手に入れたのだろうか。それともこの青年がたまたまそうなのか。

 イレーネは何となく後者であろうと思いながら、青年がひょいと本を拾い上げる様を見て、慌ててはっとした。

「申し訳ありません。お手を煩わせてしまって……!」
「はは。先ほどから謝ってばかりだな」
「えっと、申し訳、」

 また謝罪しようとして、口を閉じる。声もなく青年が笑ったので頬が熱くなる。

「女性一人では、この本を運ぶのは大変だろう。私も運ぶのを手伝おう」
「そんな! ご迷惑ですわ」
「ぶつかったお詫びだ。さっ、目的地はどこだろうか」

 イレーネが持っていた本の半分もひょいと奪うと、青年は道案内を頼んだ。逆らえる雰囲気でもなく、彼女はこちらですと先を歩いた。

「それにしても、ずいぶんと難しい本を読むんだな」

 広い回廊を歩きながら、青年が感心した口調で言った。

「いいえ。わたしが読むのではなくて、王女殿下がお読みになるんですの」
「そうか。王女殿下が……とするときみは、王女殿下に仕える侍女ということか?」

 イレーネは控えめに頷いてみせた。

「そうか。すごいな」
「そんな……。騎士様の方が、素晴らしいですわ」
「なぜ?」

 問い返されるとは思わなかったので、少し戸惑う。

「貧しい人や病気で苦しんでおられる人々のために活動して、国王陛下のお力にもなろうと、わざわざ足を運んでくださったのでしょう?」

 青年はイレーネの言葉に微笑むと、そうでもないと答えた。

「苦しむ人々を助けるのは、順番が決まっている。怪我の重症度ではなく、その患者の家柄やどれほどの見返りが求められるか……とかな。陛下の力になるのも、日頃溜まった不満を戦で発散させたいだけだ。きみの考えるような、理想の騎士団とは程遠い」

 よく知りもせず素晴らしいなどと褒めた言葉を非難された気がして、イレーネは言葉に詰まった。

「あの、ごめんなさい」

 青年がハッとする。

「あっ、違うんだ。決してきみの意見を否定するつもりで言ったのではなく、素晴らしいと思ってくれる人の言葉を裏切っているような行動ばかりしている団への憤りというか、自分への不甲斐なさというか……とにかくきみは悪くない!」
「は、はい……」

 勢いよく捲し立てられ、イレーネは目を丸くしながら同意する。

「すまない。こういうところが部下に暑苦しいと言われるから気をつけているんだが」
「……騎士団のこと、とても大切に考えていらっしゃる証拠だと思います」

 思いもよらなかった、というように青年は目を瞬いた。

「そう、か?」
「はい。……それに、下に仕える身としては、上司が真面目に組織のことを考えてくださっているのは、とても安心できます」
「そういう、ものだろうか」
「はい」

 自分だけに利が得られるよう働かれると、結局下が割を食う羽目になる。冷静に現状を分析して変えたいと思っている人間がいることは、きっと将来良い方向に繋がる。……そう、イレーネは思いたかった。しかしすぐに自分なんかが言っても、あまり説得力はないだろうとも思い直す。

「あの、余計なことを言ってしまって、」
「ありがとう」

 ごめんなさい、と続けようとした言葉を遮り、青年が立ち止まってお礼を述べた。自分を見つめる緑の瞳にイレーネは動けなくなってしまう。

「きみのおかげで勇気が持てた。感謝する」
「いえ、そんな……。大げさですわ」
「そんなことない。自信を持ってくれ」

 さ、行こうとまた歩き始め、慌てて後を追う。

(変わった人……)

 自分のような小娘相手にもきちんと耳を傾け、何気ない一言で感謝するなんて……王宮ではあまりお目にかかれない人間だ。

(やっぱり神に仕える騎士様だから違うんだわ)

 そんなことを考えながら歩いていると、ふと前から見知った顔がやってくるのがわかり、イレーネは逃げ出したくなった。

 第一王子の秘密の恋人だと噂されている夫人と、彼女の手をエスコートしている騎士――ディートハルトの姿だった。

 夫人はイレーネが彼の婚約者だとわかっているのだろう。通りすぎる時、意味ありげに微笑んでみせた。ディートハルトの方はというと、イレーネの姿には気づいていたようだが、ちらりと見ただけで、素通りしていった。夫人の笑い声が、やけに後ろから響いて聴こえてくる。

「知り合いか?」

 イレーネの硬く強張った表情を見逃さなった青年がそっと尋ねてきた。

(ああ、この人はわたしが彼の婚約者であることを知らないんだわ)

 その気遣いの含んだ視線や声に、彼女は曖昧に微笑んではぐらかした。何となく、知らないままでいてほしいと思った。

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