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幼馴染

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「お嬢様……」

 使用人たちの気遣うような視線が、ただ私に注がれていた。それに耐えきれなかったのか、それとも何の未練もなく出て行った彼を追いかけたかったのか、気づけば私も家を飛び出していた。

 冷たい雨だった。着ている服や髪を容赦なく濡らし、体温を奪っていく。走って、走って、ただ走り続けた。どうしてこんなことになったんだろう、と自問する。

 今日は彼が私の家へ来て、一緒に食事をする予定だった。好きな本の話をして、彼の話をねだって、少しでもお互いの気持ちが近づいたらいいなと、とても楽しみにしていたのに――

 父や母に、なんて言えばいいのだろう……。

 いや、もうすでに伝わっているかもしれない。私のはしゃぎように、我が事のように喜んでくれた両親。きっととても怒り、悲しむことだろう。私たちの責任だ、とすら言い出すかもしれない。そんなことない。私のせいだと訂正しなければならない。逃げてはだめだ。現実を直視しなければならない。

 けれど私の足は引き返すことはなく、息が切れるまで走り続けている。そして大変なことになったと思いながらも帰る気になれず、気づけば黙って道の真ん中に突っ立っていた。

 悲しいとか、そういう気持ちはなかった。ただとても疲れたという疲労感のみが肩に重くのしかかっていた。

 これからどうすればいいのだろう……。

「何をしているんだ。こんなところで」

 空から降る雨粒が、そっと途切れた。顔を上げると、怒った表情で傘を差し出す男性の姿。

「グレイ」

 燃えるような赤い髪に射貫くような鋭い目。精悍な顔立ちをした青年は、私の幼馴染であった。小さい頃は私よりも背が低かったのに、今は見上げないと目線が合わない。

「どうしてここに?」

 それはこちらの台詞だとグレイはきりりとした眉を歪ませた。そうするだけで妙に迫力があり、気弱な人間ならば訳もなく謝りたくなるだろう。だが幼い頃からの付き合いで、泣き顔すら知っている私はただ怒っているなと思うだけだった。

「お前が屋敷を飛び出したと聞いて探していたんだ」
「……ごめんなさい」

 彼から別れを告げられて、飛び出すように出てきたのだ。屋敷の使用人たちはみな大騒ぎだろう。

「とにかく、すぐに帰るぞ」

 グレイはやや強引に私の腕を引っ張った。

「あなたは……」

 傘が傾き、雨が顔にかかる。

「あなたは婚約のこと、聞いたの?」

 彼が私を捨てたことを。

「……ああ。最低な男だな」

 吐き捨てるようにグレイは言った。

「お前と結婚するって決まったんなら、腹をくくるべきだったんだ。他に好きな女がいるなら、もっと早く伝えればよかった」
「正直に伝えてしまったら、私がお父様に告げ口するとでも思ったのかも」
「お前はそんなことする人間じゃないだろう!」

 グレイの怒鳴り声は、雨の音に負けないくらい大きかった。私は驚き、心配するように彼の目を見つめた。ギラギラして、私よりもよほど腹に据えかねているようだった。

 不思議なもので、相手が自分よりも怒っていると冷静にならなくてはと頭が冷えてくる。

「グレイ。何もそんなに怒鳴らなくても」
「逆になんでお前はそんなに平気そうなんだ!」

 これには少し腹が立った。

「平気じゃないわ。だからこんな雨の中一人で居たんじゃない」
「なんで一人でいるんだ」
「なんでって……」

 くそっ、とグレイはもどかしそうに赤い髪をかき混ぜた。

「どうして俺に何一つ言ってくれなかったんだ!」

 彼は激しい口調で次々と言葉を重ねた。

「どうしてそんな酷い男とさっさと別れなかった? 侮辱とも言える態度をとられたと相談してくれなかった? お前にとって、俺はそんなちっぽけな存在だったのか?」

 私だって今日彼に婚約をなかったことにして欲しいと言われたのだ。相談も何もないだろう。

 という文句が頭に浮かんだが、それよりもまず、彼が傷ついているように見えて、私はどうしてと思った。だってそうじゃないか。彼には何の関係もないことだ。幼馴染ではあるが、赤の他人であることには間違いない。

 それなのにまるで自分が傷ついたような顔をして……。

 慰めたいような、あるいはただ彼の言葉を否定したいだけなのか、私は笑みを浮かべて答えた。

「こんなこと、ちっともたいしたことじゃないわ」

 そうよ。初めから期待しなければ、全く傷つく必要なんかなかった。

 自分は選ぶ立場ではない。いつだって選ばれる立場なのだ。最初からマイナスだと仮定していれば、傷つくこともなかった。屋敷のみんなや家族、彼にも迷惑をかけることはなかった。

「ごめんなさい、グレイ」
「俺は謝罪を要求しているわけではない」

 いいから帰るぞ、と彼は軽々と私を抱き上げると、豪快な足取りで歩いて行く。抵抗したところで無駄だと思ったので、私はおとなしく彼に身体を預けた。

 ひどく、疲れた。

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