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食えない御仁

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 リュシエンヌたちの馬車はセレスト公国の国境を越え、深い森の中に隠されるように建っている屋敷へと止まった。

「これは、リュシエンヌ様」

 馬車を出たところちょうど、黒色の髪を後ろで一つに括って垂らし、すらりとした長身の男性が気品のある笑みを浮かべて出迎えてくれた。

 ギュスターヴの弟、ボードゥアンである。

「さぁ。中へどうぞ」

 改めて見ても、彼は兄とは違い、どこか気配を消すような静かな雰囲気を纏っている。
 しかし切れ長の瞳には相手が自分の駒となるかどうか冷静に判断する残忍さも含んでいるように見え、ギュスターヴとの血の繋がりを感じさせた。

「ボードゥアン殿下。本日は遠いところからお越しいただきましてありがとうございます。本来ならばこちらからお迎えしなければならないのに、逆の立場になってしまったこと、深くお詫び申し上げます」
「私としましても、大切な文通相手である貴女にお祝いの言葉を伝えたかったので、ちょうどよい機会でした。それに私はたまたま友人の紹介で、こちらの別荘で療養している所、偶然貴女がお出でになった。謝る必要はありません」

「文通相手」や「偶然」という箇所にアクセントを置きながらボードゥアンはうっすらと微笑んだ。

 リュシエンヌは相手に値踏みされているような感覚を覚えながらも、毅然とした様子で笑みを返す。

「ありがとうございます。ボードゥアン殿下に祝福のお言葉をいただけて、わたしもとても嬉しく思います」
「それはよかった。ところで、そちらの方がご夫君で?」

 ボードゥアンはリュシエンヌの隣にいるランスロットへと目を向ける。

「ええ。夫のランスロット・デュランです」

 リュシエンヌに紹介され、ランスロットが腰を折って挨拶する。

「お初にお目にかかります。ランスロット・デュランと申します。ノワール帝国の皇子殿下にお会いできて至極光栄に存じます」
「そう言っていただけると私も嬉しい。だが不安ではありませんか。愛する奥方が密かに男と文を交わしていたと知って」
「おっしゃる通り、最初聞いた時はとても驚きました」

 リュシエンヌは馬車の中で、結婚前からボードゥアンと手紙を通して知り合いであったことをランスロットに打ち明けていた。

「ですが、私の妻は決して私以外の男性に心を許すような女性ではありません。きっと何かしらの理由があったのだろうと考えております」

 ランスロットは一切リュシエンヌを責めなかった。ただひどく心配はされた。相手は皇帝の弟だ。一歩間違えば、国の問題に発展した可能性もある。

『ボードゥアン殿下がどのような方かは存じ上げませんが、姫様を危ない目に遭わせる可能性だって十分あるんですよ』

 自分ではなくとも、信頼のおける相手にもっと早い段階で相談することはできなかったのかと言われた。

「リュシエンヌ様を信頼されているのですね」
「はい」

 迷いのないランスロットの返答に、ボードゥアンは先ほどよりも少し雰囲気を和らげた気がする。

「リュシエンヌ様。ランスロット殿。失礼な物言いをしてしまって申し訳ない。お二人の仲はこちらに伝わるほど仲睦まじいと聞いていたので、少しからかってみたくなったのです」

(少し、かしら……)

「そう怒らないでほしい」
「いえ、別に怒っているわけではないのですが……」
「もう一年になるでしょうか? 親交のある貴族を通じて手紙が届き――その相手がセレスト公国の姫君が差出人だと知った時、一体何事かと思いました」

 リュシエンヌは気まずい思いで謝罪と弁解する。

「大変不躾で申し訳なかったと反省しております。けれどどうしても、友人であるベアトリス様をお救いしたかったのでございます」

 ベアトリスの病気を治療したのは、ノワール帝国の医者であった。

 リュシエンヌは二度目の人生で、帝国が薬学や医学に関する書物を豊富に揃えていることを知っていた。帝国は強国であることを自負しているものの、決して固定観念に囚われず、最新の技術や新たな知識の発見を学ぼうという意識が高かった。

 ゆえに医者も様々な国の医療分野を学ぶことが許され、他の国よりも治療法が確立されていた。
 だから彼らならば、ベアトリスの身体も治せるかもしれない。

 リュシエンヌはそう思い、ボードゥアンに帝国の医者を紹介してくれるよう頼もうとした。
 だがもともと縁がなかったので、いきなり手紙を送ってはいろいろ差し障りがあるだろうと、きちんと段取りを設け、慎重に距離を縮めることを考えた。

 まず彼と付き合いのある貴族か有力者を帝国外に探し、信頼のおける人間だと見極めた上で手紙を届けてもらうことにした。リュシエンヌの必死の嘆願のおかげか、あるいは知人の説得が効いたのか、ボードゥアンから帝国の医者を寄越すという返信が届いた。

「本当に、ありがとうございます」
「お役に立てて光栄です。しかし、貴女は見かけによらず度胸がおありなのですね。それほど友人思いと言いましょうか」
「……白状しますと、決してそれだけではございません」

 ベアトリスを助けたい、という思いは本当だ。……いや、それもどこか打算がある。彼女を救えば、娘を大事に思うメルヴェイユ国王に恩を売ることができる。実際、国王は何かあった時、力を貸してくれると言ってくれた。

 そして今こうしてボードゥアンに会っているのも……。

「あなたとお近づきになりたい、という考えもあったのです」

 ランスロットが心配した眼差しを向けてくるが、リュシエンヌはボードゥアンを真っ直ぐ見つめた。彼は感情の読めぬ表情でしばらく沈黙していたが、やがてふっと相好を崩した。それは一瞬であったが、リュシエンヌは目を丸くする。

「失礼。リュシエンヌ様はずいぶんと正直なのですね。嘘がつけないお人だ。ご夫君はさぞ苦労なさっていることでしょう」
「あの、殿下。わたしは何か失礼なことを言ってしまいましたか?」
「いいえ。何も。貴女は相手を利用することにどこか罪悪感を覚え、正直に打ち明けることで相手の心を動かそうとしている、とても真っ直ぐな人だ。私には持てない性質なので、珍しくも、危うくも映ったのです」

 興味深げにこちらを見るボードゥアンの視線に、リュシエンヌは戸惑った。

「貴人というのは……特に政に関わる者ならば、何かしら秘密の一つや二つ、抱えているものです。そして何の目的もなく相手に接触することは、まずしません。つまりもし私が貴女の立場であるならば、罪悪感など微塵も抱かないでしょうね」

 嘘偽りない言葉だろう。三度目の人生で、彼はランスロットを利用し、皇帝の座に就いたのだから。

「それで、私とお近づきたいになりたいとは、どういう意図が含まれているのでしょうか。手紙をいただいた時は、てっきり妃の座を狙っているのかとも思いましたが……今のランスロット殿とのご様子を見れば違うのは明白です」

 表情一つ変えずさらりと述べるので心臓に悪い。だがリュシエンヌはここが勝負所だとお腹にグッと力を込めた。

「私はギュスターヴ陛下のご意向に備えて、ボードゥアン様との繋がりを得ておきたかったのです」

 リュシエンヌに上手い駆け引きはできない。自分よりすでに多くの修羅場を潜り抜けてきたボードゥアンの前で下手な芝居もきっと通じない。

 ならばここは、正々堂々と自分の考えを伝えよう。

「兄上のご意向、とは? 貴女は兄上とは面識がないはずでは?」
「はい。直接お会いしたことはございません。……ですが、噂でどういった方かは存じ上げております」

 言葉を発する一言一句がボードゥアンに審議されている。

「自分の目で直接見たわけではないのに、噂を信じるのですか?」
「……わたしたちの結婚の報告を貴国へ使者を通じてお伝えしたのですが、お返事がございませんでした。陛下がお忙しい方だとは十分存じ上げておりますが……嫌な予感がして、不安でたまらなくなったのでございます」
「それで手紙ではなく、こうして直接私と会うことを申し出たのですね」
「はい」

 なるほど、とボードゥアンが小さく呟く。
 ……とりあえずこちらの言い分を信じてくれたのだろうか。

「普段ならば勘や予感といった曖昧な言葉は信じませんが……今回に至っては、貴女が正しいかもしれない」

 先ほどまでの雰囲気をガラリと変え、鋭い一瞥を投げかけるようにボードゥアンはリュシエンヌを見て告げた。

「実は貴女がランスロット殿と婚約式を挙げ、その仲の良さが帝国にまで伝わってきた頃。我が兄が、貴女を皇妃に迎えたいとおっしゃった」

 隣に座るランスロットが小さく息を呑むのがわかった。

「幸い、父がまだ生きていたことと、貴女方のあまりの仲の良さに、引き離せば厄介な問題が生じるだろうと、その話はなくなりました」

 その言葉に安心することはできなかった。なぜなら彼らの父親はすでに亡くなっており、今はギュスターヴが皇帝となっているからだ。

「兄は恐らく今でも、貴女を妻にすることを望んでいるでしょう」

 リュシエンヌの胸の内を肯定するようにボードゥアンは酷薄にも聞こえる声で告げた。

「それは……陛下がおっしゃったのですか」
「いいえ。ですが兄は有力貴族からの見合いの話を断っています。一時は後宮制度を復活させるなんて話もしていましたが、結局やめましたしね」
「えっ」

 あの爛れた宮殿を築かなったことにリュシエンヌは驚いた。

「それだけ兄は貴女に並々ならぬ執着を抱いている証とも言えます」

 まだ彼は自分のことを諦めていない。恐怖に囚われ、俯くリュシエンヌの手を、ランスロットがそっと握りしめた。彼の方を見れば、挑むような力強い眼差しでボードゥアンへ問いかけた。

「殿下は、そんな陛下のことをどう考えていらっしゃるのでしょうか」

 リュシエンヌに視線を固定していたボードゥアンの双眼がゆっくりとランスロットへと向けられる。

「私は正直、兄の女性関係に首を突っ込むつもりはありません。下から支えられる程度の歪みならば、問題ないとみなします」

(ああ、そうか……)

 リュシエンヌは何だか妙に腑に落ちた。

(この人は帝国が破綻さえしなければ、苦しんでいる人たちのことは気にしない方なんだわ……)

 ギュスターヴによって傷つけられ、壊れていく人間も最低限の犠牲だと見なす。

「私を、酷い男だと思いますか」
「正直、残酷だとは思います。……けれど、それも守るための一つのやり方なのでしょう」

 帝国は広大な国だ。大勢の人間が集まっている。一人一人が強固な意思を持ち、貫くために躊躇いなく牙を剥く。そんな権力が集中する宮廷で一度死んだリュシエンヌは、ボードゥアンの言葉を全否定することは難しかった。

「ですが、殿下が今ここにいらっしゃるということは、このままギュスターヴ陛下を野放しにしておくのはまずいと判断なされたのでしょう?」
「ずいぶん歯に衣着せぬ物言いをしますね、ランスロット殿」
「失礼いたしました。なにせ愛する妻が余所の男――しかも皇帝陛下に今でも想われていると知って、心穏やかではいられないもので」
「その感情が男女のそれかはまだわかりませんよ」
「いいえ。同じ女性を愛する者として、それしかないと断言できますよ」
「ランスロット」

 話が脱線している、と彼の膝を軽く叩けば、不満そうな目で返された。

「おっしゃる通り、兄の暴走で非常に面倒なことが起こるかもしれません。帝国の崩壊は、大陸一体の消滅に繋がりかねませんからね。今のうちにできることはしておきたい」
「では、もしもの時は、協力して問題に対処するということですね」
「その前に、一つ尋ねたい。私が貴女に……貴女の国のために力を貸すことになった場合、貴女は見返りに何をくれますか」

 リュシエンヌは一呼吸おいて答えた。 

「もし、ボードゥアン殿下がお兄様の治世を見過ごすことができず、ご自身がその跡を継ぐと決めた時……その時は、殿下が次の皇帝になるお手伝いを、わたしにできる範囲でいたします」
「私が貴女を妃として迎えたいと申し上げても?」
「えっ」

 目を見開くリュシエンヌに、ボードゥアンは初めて声を立てて笑った。

 初めて見るその表情に、リュシエンヌは呆気に取られた。
 ふとランスロットの方を見ると……こちらもなぜか笑顔である。しかし逆に怒っているように見えるのは気のせいだろうか……。

 ボードゥアンはひとしきり笑うと、失礼と一言謝り、また感情の読めぬ表情に戻った。

「ランスロット殿から貴女を奪うとなると、さらに大変そうだ。安心してください。ただ貴女の覚悟を問うてみたかっただけです」
「……殿下も、冗談を言ったりするのですね」
「おや。冗談ではありませんよ。貴女の容姿は女神に似ているそうですし、いろいろ利用できると考えただけです」

 リュシエンヌは二度目の人生で、ボードゥアンと神殿で会った時のことを思い出す。

「殿下は神話さえ、帝国を守る武器になさるのですね」
「他の神々であったら、私もそこまでこだわりません。女神アリアーヌはノワール帝国の神であるイザークの妹ですから。他の神と違い、特別なのです。彼らはとても仲の良い兄妹だったそうですよ。一説では、兄のイザークはアリアーヌを一人の女性として愛していたと言われています」

 リュシエンヌが複雑そうな表情をすると、ボードゥアンは神話にはよくある話だと補足し、こう続けた。

「兄妹という対の存在が夫婦となることは完璧を意味し、国を治めることで多くの繁栄がもたらされる。そういった考えで信奉する者は決して少なくはありません。面白くないと思う貴族も当然いますけれどね」
「……神話はあくまでも神話ですわ。現実とは違います。わたしの夫はランスロットで、彼以外を愛するつもりはありません」

 リュシエンヌがきっぱりそう告げると、わかっているというようにボードゥアンは頷いた。

「しかしイザークがアリアーヌへ愛憎交じりの想いを抱いたように、我が兄も貴女の身を欲している。まるで神話の再現のように思いませんか」

(そう言えばギュスターヴ様は二度目の人生で、わたしが女神アリアーヌの血を引いているから引き取ったとおっしゃった……)

 まさか……と一瞬脳裏に過った考えに恐怖を覚える前に、ランスロットが「たとえそうなっても」と口を挟んだ。

「リュシエンヌ様のことは俺がお守りいたしますよ。彼女は俺の――俺だけの妻ですから」

 ね? と言うようにランスロットがリュシエンヌに笑いかける。恐怖を振り払う快活な笑みだった。おかげでリュシエンヌも自然と笑みを浮かべ、強く頷いた。

「ええ。たとえ陛下がわたしを望んでも、抗います。女神アリアーヌが愛する人への愛を貫いたように」

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