途中闇堕ちしますが、愛しの護衛騎士は何度でもわたしを愛します

りつ

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皇帝ギュスターヴ

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 慣れない長旅を終え、ノワール帝国の宮殿に無事到着したリュシエンヌは休む暇も与えられず、皇帝陛下のもとまで案内されることとなった。

 帝国の建物は、セレスト公国と違い、何もかも豪華絢爛で、圧倒的存在感を放っていた。天井には驚くほど精緻な文様が刻まれているか、帝国神話の登場人物が神々しく描かれており、どこを見渡しても歴史と威厳を感じさせる造りに、本当に神が住まう宮殿へ足を踏み入れてしまった気がした。

 不安で心もとなく、今までずっとそばにいてくれた存在をつい探してしまいそうになる。

(だめ。彼はもういないのよ。わたし一人で上手くやらなくては)

 リュシエンヌは強く自分にそう言い聞かせ、しっかりと前を向いて歩いた。

 天井までの高い扉を侍従に開けられ、中へ入るよう促される。真っ赤な絨毯が敷かれた先、周囲よりも高い壇上にその男はいた。

「おまえがセレスト公国の姫か」

 リュシエンヌは皇帝の前まで進み出ると、腰を折り、頭を微かに下げる。

「はい。リュシエンヌ・クリスタ・セレストと申します」
「遠いところ、わざわざご苦労であった」

 顔を上げよ、と鷹揚な口調で命じられ、従う。

(この男が皇帝ギュスターヴ……)

 猛禽類を思わせる金色の瞳に壇上から見下ろされ、リュシエンヌは身体が震えそうになるのを必死で抑えていた。

 ギュスターヴ・リューク・ノワール。二十八歳で、十以上の国を支配下に治めるノワール帝国の若き皇帝。

 スッと通った鼻筋に薄い唇、全体的に彫の深い顔立ちは怖いほど整っており、全身に纏う酷薄な印象をいっそう際立たせていた。長い黒髪を結うこともなく背中に垂らし、肘掛けに頬杖をつき、値踏みするようにリュシエンヌを見ている。

(この人がわたしの国を……お父様たちを……)

 血の通った人間でありながら、リュシエンヌの目には恐ろしい化け物に映った。
 彼女の怯えにギュスターヴも目敏く気づいたようだ。

「まるで生贄に捧げられる子羊のようだな」

 皇帝の嘲笑に周囲の人間がくすくすと笑いを零した。リュシエンヌは冷水を浴びせられたような心地で固まったが、何とか笑みを取り繕った。

「陛下。此度は結婚を打診していただき、大変名誉な地位を戴けること、恐悦至極に存じます。至らぬ点も多々あるかと存じますが、誠心誠意陛下に尽くすことを帝国神イザークに誓います」

 両手を組み、神に誓うようにリュシエンヌはギュスターヴに約束した。

 伴侶となる相手に対しては仰々しい言葉だったが、リュシエンヌの心からの言葉であった。

 以前の悲劇を回避したいという思いもある。だが、夫婦となるからには、信頼を築き、共に歩んでいきたい。それが前回の人生で、夫となったランスロットに教えられたことだからだ。

「……つまらぬな」
「え?」

 リュシエンヌが顔を上げると、ギュスターヴはぞっとするほど冷たい目をしていた。その思いもよらぬ返しに頭が真っ白になると、ギュスターヴはもう興味を失ったようだ。下がるよう命じた。

 リュシエンヌに拒む権利はなく、御付の者に囲まれて謁見の間を後にした。

     ◇

 結婚式は帝都の大聖堂で行われた。皇族から名門貴族、聖職者、高級将官、商人と、リュシエンヌの知らない人間がずらりと着席し、遠慮のない視線を皇帝の花嫁へと注いだ。

「あれが皇妃となるのか?」
「一体陛下はあの方のどこを気に入ったのだろうな」
「後宮にいる女性たちの方がずっと美しいではないか」

 帝国からすれば弱小国家に部類されるセレスト公国出身のリュシエンヌは、旨味のない花嫁だった。醜女だろうと、まだ大国から姫君を歓迎した方がマシだった。

「女神アリアーヌの血筋を引いていると言うが、陛下がそんな神話を当てにするはずがない」
「そうですとも。陛下こそが神であり、女神の力を借りずとも十分帝国は繁栄している」

 表立って不満を口にすればギュスターヴの怒りを買いかねないので、囁くようにして人々は言い交わす。しかしリュシエンヌの耳にはしっかりと届いており、針の筵に座らされているような心地であった。

(陛下はどうしてわたしを娶ったのかしら……)

 彼らが疑問に思うのはもっともだ。

 挙式までの間、すれ違う女性たちから度々敵意の混じった眼差しを向けられたり、わざわざ挨拶がしたいと部屋へ出向いていかに自分が皇帝のことを知っているか、含みを持たせた会話を一方的に投げかけられたりした。

 女性たちの容姿はみな、リュシエンヌより美しく、華があった。

 そんな彼女たちを押しのけ、リュシエンヌを皇妃として召し上げるのだ。

 気の迷いと受け取られても仕方がないと思った。

(きっと、すぐに飽きられる……)

 まだほんの数回顔を合わせただけだが、彼の立場や性格的に、自分のみを愛することはないだろうと十分察せられた。

 悲しくないと言えば嘘になる。だがどこかで安堵している自分もいる。

 ランスロット以上に愛することはない。
 彼以上に自分を愛してくれる人はない。

 心のどこかで、そう思っているのだ。

(こんなこと考えてはいけないのに……)

 結婚する以上、夫に身を捧げなければならない。

 頭ではわかっていても、心が追いつかない。

 リュシエンヌの今の孤独な環境がそんな気持ちに拍車をかけていた。

(陛下がわたしのことを気に入ってくださらなくても、結婚することでセレスト公国へ攻め入る理由はなくなった。メルヴェイユ国とも、今まで通りの関係を築いていける)

 そうだ。最悪の結末は回避できたのだ。

 安心していいはずだが、リュシエンヌの心は晴れなかった。それはまだ大聖堂へ花婿であるギュスターヴが姿を見せないことも要因していた。

「陛下はまだいらっしゃらないのか」
「今使いの者に様子を見に行かせておりますが……」

 本来ならば花婿が花嫁を迎える立場だというのに、花嫁の方が待たされている。

「まさかこの結婚が嫌になったのでは?」
「他の女性がいいと? しかしこれは国同士の取り決めだ」
「セレスト公国など、小さな国に過ぎません」
「そうだそうだ。結婚自体間違いであったのだ」

 人々は好き勝手憶測する。リュシエンヌの心を不安にさせる言葉を次々と口にする。

(どうして来ないの?)

 一人心細く立つリュシエンヌに寄り添う者は誰もいない。

 その時、扉を開けて入ってくる者がいた。ギュスターヴの身の回りの世話をする侍従長である。騒がしさが消え、みなが彼に注目した。

「皇帝陛下は挙式を欠席なさるそうです。誓いは代わりの者が果たすように、とのことで」

 人々の視線が一斉に花嫁へと向けられた。彼女の呆然とした顔を見るために。

     ◇

「陛下はその日、気に入った後宮の女のもとで過ごしていたそうです」
「女の方がどうか行かないでくれと泣き縋ったとか」
「花嫁を放っての情交はさぞ興奮なさったでしょうな」

 リュシエンヌにはその話がどこまで本当かはわからなかった。

 しかし挙式の夜も、その次の日もずっと、ギュスターヴはリュシエンヌのもとへは訪れなかったことを考えると、きっと本当なのだろうと思うようになった。

(わたしの態度が、陛下の気に障ったのかしら……)

 謝ろうとしても、ギュスターヴはリュシエンヌとの接触を拒み、たまに顔を見合わせても、こちらの言葉を無視し、いないものとして接した。

「――まぁ、なんてこと!」

 言葉を失うリュシエンヌの代わりに、祖国から共に来ていた侍女が悲鳴を上げる。

 厳重に保管されていたリュシエンヌの花嫁衣装がずたずたに引き裂かれ、部屋の前に捨てられていたのだ。純白は泥水で染め上げられて、まるで穢された後を思わせる布切れに変わり果てていた。

 リュシエンヌをよく思わない人間――ギュスターヴの愛人たちの仕業であろう。

(どうしてこんなことを……)

 リュシエンヌは呆然とした様子で腰を屈め、衣装の残骸を手にした。

 これを作ってくれたのは、セレスト公国の者たちだ。彼らはみな、リュシエンヌが遠く離れた帝国でも幸せになれるよう、祈りを込めて婚礼衣装を作り上げた。それをこんなふうにずたずたにするとは……。

「まぁ、皇妃殿下。そのような汚らしいものを手にしてどうなされたのです?」

 顔を上げると、自分を嗤う姿がいくつもあった。華やかで、自信に満ちあふれた表情でリュシエンヌの打ちひしがれている姿を愉しんでいる。

「みすぼらしい故国の衣装で図々しくも陛下の隣を望むから天罰が下ったのです」
「それともわざとご自分でそのようになされて、陛下の同情を誘うお考えかしら?」
「まぁ、卑しい。陛下にお相手されなくて当然だわ」

 あまりの言いように侍女が言い返すが、鼻で笑われるだけであった。「まぁ怖い」とわざとらしく言い捨てると、どこかへ行ってしまった。

 残されたリュシエンヌを、遠巻きに見ていた人間が憐憫と好奇心の混じった眼差しを向けてくる。興味はあるものの、誰も声をかけてリュシエンヌに関わろうとはしなかった。

「……部屋へ戻りましょう」

 リュシエンヌは布切れとなった婚礼衣装を抱え、逃げるように部屋へ入った。

(どんどん状況が悪くなってる……)

 ギュスターヴのリュシエンヌへの接し方に、最初は腫れ物に触れるかのような周囲の態度も、次第に攻撃性を帯びて接してくるようになった。

 挨拶を無視され、些細な失敗を仲間同士で嘲笑する。敬うべき相手だと忘れ、馴れ馴れしい態度で礼を欠く。そしていよいよ、目に見える形での嫌がらせを実行してきた。

(わたしは、どうすればいいの……)

 リュシエンヌは今まで誰かに蔑ろにされたことなどなかった。顔も見たくないと拒絶の態度を取られたことは一度もなく、この状況がよくないと思いつつ、どう対処するべきかわからなかった。

「姫様。お父上のアナトール陛下にこの現状をお伝えして、訴えてもらいましょう」

 従属国とはいえ、リュシエンヌは一国の姫である。
 手酷く扱っていい相手では決してなかった。

 ギュスターヴがリュシエンヌをぞんざいに扱ってもいいと思っているならば、それはセレスト公国そのものを見下し、どうとでもなると思っている証拠だ。

 侍女の言う通り、リュシエンヌは父に今の状況を伝えるべきなのだろう。

 だが――

「……いいえ。お父様たちには上手くやっていると伝えましょう」
「どうしてです、姫様」
「お父様たちを心配させたくないもの。それに……」

 自分の言葉でギュスターヴの怒りを買うことを、以前と同じ戦争へ発展することをリュシエンヌは一番に恐れた。

「ですがこのままでは……」
「わたしから、陛下にお話してみるわ。それでだめだったらお父様たちにも力を貸してもらうから……。だから今はまだ何も言わないで」

 リュシエンヌの懇願に、侍女も渋々納得してくれたので、ほっとする。

 このままではいけない。だが嫌がらせ程度で済むならば耐えるべきだとこの時のリュシエンヌは思っていた。

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