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承諾
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「姫様。少し休まれてはいかがですか」
ランスロットの言葉にリュシエンヌは顔を上げた。窓から差し込む光はだいぶ傾き、昼からすでに夕方になっていることを悟った。
「もう夕食の時間?」
「いえ、まだですが……朝からかじりつくように勉強なさっているではありませんか」
ここのところずっとそうだと零され、リュシエンヌは確かにと思った。
「歌や踊りも練習しないといけないわね。お父様たちに先生を紹介してくれるよう、頼まないと」
「……一体どうしたのです?」
何が? とリュシエンヌは首を傾げた。
「公女として、相応しい教養を身につけようとしているだけよ。何か変かしら?」
「変ではありません。ですが……」
もどかしそうにランスロットはリュシエンヌを見つめる。
「朝から晩まで、時間が許す限り何かを学ぼうとしている。以前はもっと、余裕を持って本も読んでいらした。それが急に必死になられて……陛下たちも心配していらっしゃいます」
寝食も忘れて没頭する娘の様子に、それまでのリュシエンヌを知っている両親やランスロットたちは心配を覚えたようだ。
「それに礼儀作法も学び直したいと、今も教師を紹介してほしいなど……以前の姫様からは考えられません」
リュシエンヌは昔から人付き合いが苦手だった。教師に教えを乞うのもできるだけ避け、独力で学ぶやり方を好んだ。
そんな彼女が自ら人と関わろうとしている。しかも踊りや歌など、得意ではない分野で。
ランスロットたちが驚き、心配するのも無理はない。
「姫様。やはりあの日から様子がおかしいです」
泣いた時の取り乱しぶりは、ランスロットの心に深く刻まれたようだ。
「何か事情があるのではないですか? もしおありならば、どうか打ち明けてください。何か力になれるかもしれません」
主人の憂いを払おうと、ランスロットは真摯に訴えかける。
(……ありがとう。ランスロット)
しかしリュシエンヌは彼の優しさに応えるわけにはいかなかった。
「ランスロットったら、深刻に考え過ぎだわ」
すべてを打ち明けてしまえば、きっと彼はリュシエンヌを逃がそうとしてくれる。貴女の責任ではないと否定し、自分が何とかすると申し出るだろう。
「わたしももう十六歳。あと二年で成人する。大人の仲間入りをするのよ? セレスト公国の公女として、大人の女性として、恥ずかしくないよう振る舞わなきゃ。だから今いろいろと頑張っているの」
これはリュシエンヌの問題だ。自分にしかできない。
(もう二度と、あなたを巻き込みたくない……)
「……本当に、それだけですか?」
「ええ、本当よ。信じてくれないの?」
リュシエンヌがひどいわと微笑と共に責めても、ランスロットは見極めるように見つめ、やがてふっと肩の力を抜いた。
「そうですね。姫様も、もう十六になられる……。疑ってしまい、失礼いたしました」
「そうよ。わたしだっていつまでも子どものままじゃないのだから。これからは少し厳しく接してちょうだい」
そう言えば、「へぇ?」とランスロットは片眉を上げた。
「では姫様。周囲の者に心配させないよう、食事はきちんと召し上がるように。それから侍女の報告では夜遅くまで灯りがついているようなので、睡眠時間ももう少し増やして、それから……」
「それから?」
「いえ……いつもならこのへんで『そんなにたくさん言わないで!』と文句を言われそうだなと思いまして」
「ランスロット。言ったでしょう? わたしは立派な淑女になりたいの。だからあなたの生活指導も、きちんと受け入れるわ。他にも改善するべきところがあるのなら、遠慮しないで言って」
本気で助言を求めるリュシエンヌにランスロットは目を丸くした後、どこか寂しそうな表情を浮かべた。彼がその時何を思ったのか、リュシエンヌにはわからなかった。
◇
その後もリュシエンヌは真面目に勉学に取り組み、苦手な歌や踊りなども積極的に教えを乞うた。人と会話する時、話が途切れないこと、また相手を退屈させず、不快にさせないための社交術も身につけようと、茶会や舞踏会にも参加した。
最初は慣れないためあまり上手くいかず、また緊張のため毎回ひどく疲れたが、「もう行かない」と投げ出すことはしなかった。失敗や反省を次に活かそうと、根気よく改善点を模索し、交流に参加し続けた。
両親だけでなく弟のフェランも、リュシエンヌの積極的な姿に心配して、「姉上。無理をしていませんか?」と声をかけてくる始末だ。
彼らはみな、無理をしなくていい、リュシエンヌのペースでやればいいと励ましたり、以前の状態に戻ることをそれとなく勧めたが、彼女は決して耳を傾けなかった。むしろそうした態度を取られるたび、自分が今までどれほど甘やかされてきたのかを突きつけられた気がした。
(前の人生で、わたしはただお父様たちが築いてくれた頑丈な囲いの中で安穏と暮らすだけだった。自分が公女で、すべきことを理解していなかった)
だからあんな悲劇を生み出してしまったのだとリュシエンヌは自分を責め、決して同じ過ちは繰り返すまいと、いっそう自分に鞭を振るうのだった。そして――
「リュシー。おまえももう少しで十八歳になることはわかっているね?」
舞踏会もつつがなく終わり、初夏が訪れようとしていた頃。大公である父がリュシエンヌに改まった調子で切り出した。
「はい、お父様。二か月後の誕生日を迎えたら、わたしも成人したと見なされます」
リュシエンヌは以前と違い、はっきりとした口調で受け答えした。
父の隣にいる母は、どこか不安そうな、落ち着かない表情だ。
「実はな、ノワール帝国から結婚の打診がきているのだ」
――あぁ、とうとうこの時が来てしまった。
リュシエンヌは気づかれぬよう息を吐くと、父の目を真っ直ぐ見つめ返して告げた。
「はい、承知いたしました」
リュシエンヌの迷いもしない返答に、両親は揃って目を丸くして、互いに顔を見合わせた。やがて母が困惑した様子でこちらを見る。
「リュシー。あなた、ノワール帝国へ嫁いでもいいの?」
「はい、お母様。帝国へ嫁ぐことはとても名誉なことですし、セレスト公国にも利をもたらすでしょう」
「リュシエンヌ。おまえ自身の気持ちはどうなのだ」
父が真面目な顔で娘の真意を尋ねてくる。リュシエンヌは微笑んだ。
「わたしも、皇帝陛下の伴侶になれることを誇らしく思いますわ」
「……陛下は後宮を持っている。それでも、いいと言うのか?」
「ええ、構いません。わたしが、陛下のお心を繋ぎとめてみせます」
以前の自分ならば決して言わなかったことを、今回は何の躊躇いもなく口にできた。
「あなた。やっぱりお断りしましょう。ね、リュシー。あなたも無理をしなくていいのよ? お母様はあなたには本当に心から好きな殿方と結婚してほしいもの」
「お母様。気遣ってくださってありがとうございます。ですが、皇帝陛下もきっと素晴らしい方ですわ」
「……確かにそうかもしれないわ。でも、皇妃以外に女性を囲っているなど……どんな事情があれ、あなたの心を揺さぶるでしょう。苦労するとわかっている場所へわざわざ大事な娘を嫁がせるなど……親であるわたくしには許せません」
そうでしょう? と母は父に同意を求めた。
リュシエンヌを大事に思う父もまた、やはりこの縁談は断ろうと言い出すだろう。
その前に、リュシエンヌは口を開いた。
「お父様。お母様。きっと皇帝陛下は、何か考えがあってセレスト公国の公女であるわたしに結婚を申し込んだのだと思います。わたしやお父様たちには想像もつかない事情がきっと……。ですからそれを考慮せず、ただわたしの我儘だけでお断りすれば、陛下のお気持ちに水を差すことに繋がるのではないでしょうか」
病気で亡くなった前皇帝と違い、今の皇帝は苛烈な性格をしていると聞く。
下手すれば、セレスト公国に危険に晒される事態を招くかもしれない。
リュシエンヌがそう訴えれば、両親も重く口を閉ざした。
(そうよ。皇帝の性格を考えれば、当然だったわ)
どうしてあの時、もっと早く思い至らなかったのだろう。どうしてあの時、自分のことばかり考えてしまったのだろう。
後悔が押し寄せ、リュシエンヌは唇を噛みしめる。
(今度こそ絶対に……)
「お父様。ですから、わたしは公女として、ノワール帝国へ嫁ぎます」
「リュシエンヌ……」
娘の固い決意に、両親はもう何も言えなかった。
「……わかった。この縁談を勧めよう。……すまない」
最後の呟きはリュシエンヌではなく、扉の向こうにいる人物へ向けられたものかもしれなかった。
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ランスロットたちが驚き、心配するのも無理はない。
「姫様。やはりあの日から様子がおかしいです」
泣いた時の取り乱しぶりは、ランスロットの心に深く刻まれたようだ。
「何か事情があるのではないですか? もしおありならば、どうか打ち明けてください。何か力になれるかもしれません」
主人の憂いを払おうと、ランスロットは真摯に訴えかける。
(……ありがとう。ランスロット)
しかしリュシエンヌは彼の優しさに応えるわけにはいかなかった。
「ランスロットったら、深刻に考え過ぎだわ」
すべてを打ち明けてしまえば、きっと彼はリュシエンヌを逃がそうとしてくれる。貴女の責任ではないと否定し、自分が何とかすると申し出るだろう。
「わたしももう十六歳。あと二年で成人する。大人の仲間入りをするのよ? セレスト公国の公女として、大人の女性として、恥ずかしくないよう振る舞わなきゃ。だから今いろいろと頑張っているの」
これはリュシエンヌの問題だ。自分にしかできない。
(もう二度と、あなたを巻き込みたくない……)
「……本当に、それだけですか?」
「ええ、本当よ。信じてくれないの?」
リュシエンヌがひどいわと微笑と共に責めても、ランスロットは見極めるように見つめ、やがてふっと肩の力を抜いた。
「そうですね。姫様も、もう十六になられる……。疑ってしまい、失礼いたしました」
「そうよ。わたしだっていつまでも子どものままじゃないのだから。これからは少し厳しく接してちょうだい」
そう言えば、「へぇ?」とランスロットは片眉を上げた。
「では姫様。周囲の者に心配させないよう、食事はきちんと召し上がるように。それから侍女の報告では夜遅くまで灯りがついているようなので、睡眠時間ももう少し増やして、それから……」
「それから?」
「いえ……いつもならこのへんで『そんなにたくさん言わないで!』と文句を言われそうだなと思いまして」
「ランスロット。言ったでしょう? わたしは立派な淑女になりたいの。だからあなたの生活指導も、きちんと受け入れるわ。他にも改善するべきところがあるのなら、遠慮しないで言って」
本気で助言を求めるリュシエンヌにランスロットは目を丸くした後、どこか寂しそうな表情を浮かべた。彼がその時何を思ったのか、リュシエンヌにはわからなかった。
◇
その後もリュシエンヌは真面目に勉学に取り組み、苦手な歌や踊りなども積極的に教えを乞うた。人と会話する時、話が途切れないこと、また相手を退屈させず、不快にさせないための社交術も身につけようと、茶会や舞踏会にも参加した。
最初は慣れないためあまり上手くいかず、また緊張のため毎回ひどく疲れたが、「もう行かない」と投げ出すことはしなかった。失敗や反省を次に活かそうと、根気よく改善点を模索し、交流に参加し続けた。
両親だけでなく弟のフェランも、リュシエンヌの積極的な姿に心配して、「姉上。無理をしていませんか?」と声をかけてくる始末だ。
彼らはみな、無理をしなくていい、リュシエンヌのペースでやればいいと励ましたり、以前の状態に戻ることをそれとなく勧めたが、彼女は決して耳を傾けなかった。むしろそうした態度を取られるたび、自分が今までどれほど甘やかされてきたのかを突きつけられた気がした。
(前の人生で、わたしはただお父様たちが築いてくれた頑丈な囲いの中で安穏と暮らすだけだった。自分が公女で、すべきことを理解していなかった)
だからあんな悲劇を生み出してしまったのだとリュシエンヌは自分を責め、決して同じ過ちは繰り返すまいと、いっそう自分に鞭を振るうのだった。そして――
「リュシー。おまえももう少しで十八歳になることはわかっているね?」
舞踏会もつつがなく終わり、初夏が訪れようとしていた頃。大公である父がリュシエンヌに改まった調子で切り出した。
「はい、お父様。二か月後の誕生日を迎えたら、わたしも成人したと見なされます」
リュシエンヌは以前と違い、はっきりとした口調で受け答えした。
父の隣にいる母は、どこか不安そうな、落ち着かない表情だ。
「実はな、ノワール帝国から結婚の打診がきているのだ」
――あぁ、とうとうこの時が来てしまった。
リュシエンヌは気づかれぬよう息を吐くと、父の目を真っ直ぐ見つめ返して告げた。
「はい、承知いたしました」
リュシエンヌの迷いもしない返答に、両親は揃って目を丸くして、互いに顔を見合わせた。やがて母が困惑した様子でこちらを見る。
「リュシー。あなた、ノワール帝国へ嫁いでもいいの?」
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「リュシエンヌ。おまえ自身の気持ちはどうなのだ」
父が真面目な顔で娘の真意を尋ねてくる。リュシエンヌは微笑んだ。
「わたしも、皇帝陛下の伴侶になれることを誇らしく思いますわ」
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「ええ、構いません。わたしが、陛下のお心を繋ぎとめてみせます」
以前の自分ならば決して言わなかったことを、今回は何の躊躇いもなく口にできた。
「あなた。やっぱりお断りしましょう。ね、リュシー。あなたも無理をしなくていいのよ? お母様はあなたには本当に心から好きな殿方と結婚してほしいもの」
「お母様。気遣ってくださってありがとうございます。ですが、皇帝陛下もきっと素晴らしい方ですわ」
「……確かにそうかもしれないわ。でも、皇妃以外に女性を囲っているなど……どんな事情があれ、あなたの心を揺さぶるでしょう。苦労するとわかっている場所へわざわざ大事な娘を嫁がせるなど……親であるわたくしには許せません」
そうでしょう? と母は父に同意を求めた。
リュシエンヌを大事に思う父もまた、やはりこの縁談は断ろうと言い出すだろう。
その前に、リュシエンヌは口を開いた。
「お父様。お母様。きっと皇帝陛下は、何か考えがあってセレスト公国の公女であるわたしに結婚を申し込んだのだと思います。わたしやお父様たちには想像もつかない事情がきっと……。ですからそれを考慮せず、ただわたしの我儘だけでお断りすれば、陛下のお気持ちに水を差すことに繋がるのではないでしょうか」
病気で亡くなった前皇帝と違い、今の皇帝は苛烈な性格をしていると聞く。
下手すれば、セレスト公国に危険に晒される事態を招くかもしれない。
リュシエンヌがそう訴えれば、両親も重く口を閉ざした。
(そうよ。皇帝の性格を考えれば、当然だったわ)
どうしてあの時、もっと早く思い至らなかったのだろう。どうしてあの時、自分のことばかり考えてしまったのだろう。
後悔が押し寄せ、リュシエンヌは唇を噛みしめる。
(今度こそ絶対に……)
「お父様。ですから、わたしは公女として、ノワール帝国へ嫁ぎます」
「リュシエンヌ……」
娘の固い決意に、両親はもう何も言えなかった。
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