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女神アリアーヌの力
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リュシエンヌはゆっくりと目を開いた。
(ここは……)
頬に硬い感触が当たる。また濡れていた。涙を流していたからだ。
ぼんやりとした頭で、リュシエンヌは身体を起こす。どうやら自分は床で寝ていたらしい。
(わたし、いったい……)
周りを見渡せば壁を埋め尽くす程の本棚があり、床にも本がうず高く積み上げられている。その本の下には青と白で見事な文様を描きだした絨毯が敷かれている。リュシエンヌが気に入っていたもの。部屋の匂いも懐かしく、ひどく落ち着く。
「姫様? もう。またここにいらしたんですか」
そう。よく通っていた。一日の大半を過ごしていた。城の図書室。
そしてこの声は――
「たまには外へ出て気分転換なさったらどうですか?」
こちらへ歩み寄ってくる。背が高く、肩幅や腕もがっしりしている。
「まぁ、どうせ姫様は俺の言うことは聞いてくれないでしょうが」
親しみを感じさせる気安い口調。
「姫様。返事もなさってくれないのですか」
片方の太い眉がくいっと上がり、緑の瞳が訝しむように細められる。
彼の脚は動いている。胸や腹に穴は開いていない。血がついていない清潔な騎士の隊服だ。
「姫様?」
目の前に座り込み、自分を見つめる眼差し。
『はやく、逃げてください……遠くへ……』
『ひめさま……、はや、く……』
(あぁ……)
リュシエンヌの目にみるみるうちに涙が溜まると、ランスロットの目が見開かれた。
「姫様。どこか具合でも――」
ランスロットの心配する声を遮り、リュシエンヌは体当たりするように彼に抱き着き、声を上げて泣き始めた。戸惑う身体にしがみつき、その温もりを感じ取り、噛みしめる。
(生きている! ランスロットが生きている!)
何が起きたのか、そんなことは考えられなかった。ただ剣を刺されて目の前で死んでいった彼が生きている光景にリュシエンヌは歓喜した。失ったものが我が手に戻り、悪夢から解放された安堵に泣いて喜ぶ以外の表現ができなかった。
――たとえこれが夢でもよかった。精神が壊れた先に見せた悪夢でも、リュシエンヌはランスロットに会いたかった。愛する人に、もう一度会いたかった。
◇
子どものように泣きじゃくるリュシエンヌにランスロットは戸惑いつつ、途中からは抱きしめて彼女の感情を全て吐露させた。
「――少し、落ち着かれましたか」
鼻をすするリュシエンヌの背を優しく叩きながら、ランスロットが問いかけてくる。
泣き過ぎて頭がズキズキと痛み、ぼんやりしていたが、ふと子どもの頃にこんなふうにランスロットに慰められたことがあったなと思い出したところで、ゆっくりと彼から身体を離した。
「ええ……。ごめんなさい……」
我ながらひどい声だった。そして醜態を晒した。
目が覚めてただ混乱するままにランスロットの姿を目にした。現実かどうか実感が湧かなかったが、散々泣いた結果生じる心地よい疲労や、ズキズキと痛む頭の重さが、この世界が存在する確かな証に思えた。
(でも……)
「姫様?」
リュシエンヌはランスロットの胸に耳を押し当て、彼の心臓の鼓動に耳を澄ました。少し速くなったが、規則正しく動いている。
(きちんと聴こえるわ……。ランスロットは、生きているのね……)
その事実にまたリュシエンヌは涙ぐむ。
「姫様。本当に一体どうしたというのです」
今までじっと辛抱してリュシエンヌを慰めていたランスロットが、もう我慢できないと顔を上げさせ、説明を求めた。
(ああ、彼の顔をもう一度見られるだなんて……)
胸がいっぱいになって、ただぽろぽろと涙を流すリュシエンヌの姿にランスロットは困り果てたようだった。
「どこか具合でも悪いのですか。どうか教えてください。何も言ってくれなければ、俺は貴女を救えない」
「わたし……」
リュシエンヌは躊躇った後、ゆっくりと首を振り、「何でもないの」と答えた。
「ただ、怖い夢を見てしまったから」
「夢?」
「ええ……。あなたやお父様たちを失ってしまう夢……。とても生々しくて、まるで現実のことのように思えたから……だから、泣いてしまったの」
真偽を図るかのように、じっとランスロットが見つめてくる。
「本当に、夢の内容で泣かれたのですか? ……何か他に、貴女を苦しめる出来事があったのでは?」
「……ううん。何も、ないわ」
ランスロットはなおも納得がいかなそうに見つめてくる。リュシエンヌは少し笑って言った。
「わたしのそばには、ずっとあなたがいる。ずっと……あなたが守ってくれていた。それなのに一体いつ傷つく暇があるというの?」
ランスロットは押し黙り、しばらくしてようやく、「そうですね」と答えた。
「姫様のそばには俺がずっといますものね」
「そうよ。わたしのそばにはずっとあなたがいたもの」
リュシエンヌの明るくしようとする振る舞いが伝わったのか、ランスロットもいつか見た時のような無邪気な笑みを作る。
「そうですね。ですがまだまだ隙があったようです。これからは姫様が本を読んでいてうっかり寝る暇もないほど、おそばにいようと思います」
「それは少し、息が詰まるかしら」
「辛辣な姫様」
いつもの気安いやり取りに、リュシエンヌは心の中で安堵する。
「さぁ、姫様。そろそろ昼餉の時間です。朝もあまり召し上がっていないのですから、しっかりと食べてください。お腹がいっぱいになって眠れば、今度は幸せな夢が見れるはずです」
リュシエンヌは「わかったわ」と言いながら本を閉じようとする。
開かれていたページに目を落とし、手を止めた。
そこには聖職者が着るような衣装を纏った女性が、両手を掲げ、何かを受け取ろうとする挿絵が描かれていた。
――女神の血を引いた人間たちには、不思議な力が授けられた。
――時を戻す力も、あるかもしれない。
「姫様?」
リュシエンヌはとっさに本を閉じ、微笑んだ。
「早く行きましょう。お腹が空いてしまったわ」
◇
リュシエンヌはまだ、ランスロットと結婚していなかった。
探り探りで過ごす日々の中で、自分はまだ十六歳だということを知った。
両親は健在で、フェランも変わらず元気だ。帝国やメルヴェイユ国の兵が侵攻してくることもなく、いつまでも続くと思われる平穏で、平和な日常の毎日。
(あれはすべて、わたしの夢だったのかしら……)
あまりにも穏やかで、リュシエンヌはランスロットに告げたように、悪夢を見ただけかと思ってしまう。しかし――
『姫様。これからは主としてだけでなく、俺の妻として、貴女を守り、愛を捧げることを誓います。俺が夫となることを許してくれますか?』
『俺の心も身体も、姫様のものです』
『俺は貴女と一緒なら、どこだっていい。――どこにも行かなくていいんだ』
次々と脳裏にランスロットの姿が思い浮かぶ。甘い言葉が響く。
あれもすべて夢だったというのか。素直になれないランスロットへの気持ちが、夢の中で実現したのか。
(ちがう)
『メルヴェイユ国の兵たちが……父上たちの身柄を引き渡せと言っているんです』
『大丈夫。ランスロットがあなたのことを何があっても守ってくれるわ』
『姉上にはランスロットと共に安全な場所へ避難してほしいのです』
あれは夢ではない。
『はやく、逃げてください……遠くへ……』
『ひめさま……、はや、く……』
本当に起きた出来事だ。
リュシエンヌの直感がそう告げていた。
自分は一度何もかも失いかけ、どういうわけか時を遡り、人生をやり直そうとしている。
なぜこんな奇跡にも等しい出来事が起きたのか。
リュシエンヌには一つだけ、思い当たることがあった。
(わたしが……女神さまの血を引いているから?)
セレスト公国の守護神。女神アリアーヌ。自身の子どもたちに不思議な力を授けたという。時を巻き戻す力がそれに該当するのではないか。
ずっとただの伝説で本当の話ではないと思っていたが、あの日――リュシエンヌが悪夢から目が覚めた時、ちょうど女神のことが記されている本のページが開かれていて、ただの偶然にしては出来過ぎな違和感を覚えた。
まるで何かを啓示しているように思えてならなかった。
リュシエンヌは知りたくないという気持ちを抱きながらも、このまま知らない振りをして生活し続けることもできず、図書室に足を運び、例の本を開いた。
それはリュシエンヌもまだ読んだことのない、セレスト公国の建国にまつわる歴史書だった。
セレスト公国はもともとノワール帝国の領土の一部であった。帝国の領土が拡大するにつれて、地方領主が力を持ち、一国の支配者として独立することを帝国から許された。
その際皇帝の娘がセレスト公国を治める領主――大公のもとへ降嫁することが決まった。あくまでも帝国の属国であることを示し、大公が帝国の意に沿わぬことをしないよう監視の役目も兼ねてだろう。
その後、皇帝が死に、嫁いだ娘の兄が新しい皇帝となった。
権力者が代われば、考えも変わる。
兄はもう一度セレスト公国を帝国の一部に組み込もうと、帝国の意のままに動く人間を公国に派遣した。しかしそんなことは認められないと大公が追い返すと、戦争を仕掛けた。
大量の兵を抱える帝国に、まだ国としてまもないセレスト公国が太刀打ちできるはずがない。
セレスト公国の滅亡は免れないかのように思えた。
しかし、奇跡が起きた。
大軍が押し寄せてこようとした日、突然大雨が降り、激しい雷が木々をなぎ倒し、帝国軍の侵攻を防いだのだ。人々は大公妃――帝国から嫁いできた皇女のおかげだと涙した。
彼女は兄の振る舞いに怒り、愛する夫と民たちを守るため、一晩中、食事もせず神に祈りを捧げていたという。
その祈りが神に届き、大地へ大雨を降らせ、怒りの雷を落とした。
(ではこれが、女神アリアーヌの正体?)
リュシエンヌが知っていた内容では、アリアーヌはあくまでも神であった。人間ではなかった。
(でも、帝国の人間……皇帝を神とするならば、皇女であった彼女が女神ということになるわよね。それで公国へ降嫁したから……皇族から貴族になって……神から人間になったと言える?)
以降も、帝国や蛮族から侵略されそうになった時、数々の奇跡が起こり、セレスト公国の平和は守れることとなったと記されている。
――これらの力はすべて、国を守り、愛する人を守るために女神が授けた力である。
(わたしが今ここにいるのは……あの悪夢から覚めて、今があるのも、国を守るため?)
『帝国が貴女を捕えようとするならば、どんなことをしてでも逃げて、生き延びるのです。それが、今の貴女に託された使命です』
ランスロットの言葉が蘇り、くらりと眩暈がしそうになった。
目を瞑り、顔を手で覆う。
(わたしが、セレスト公国を救うの? そんなの、無理よ。できない。そんな力、わたしにはない)
『ひめさま……、はや、く……』
だが、そうなればまたあの運命を繰り返すかもしれない。
また、大切な人たちを失ってしまう。ランスロットが殺されてしまう。
(そんなの、絶対に嫌……)
できるかできないか、ではない。やるしかないのだ。
(あの悲劇を避けるために、わたしにできることは……)
時が巻き戻った。ならば今度は、以前とは違う道を歩まなければならない。
リュシエンヌはどくどくと鳴る心臓の音を落ち着かせるように胸に手を当て、必死に正しい答えを導き出そうと頭を働かせた。
そもそも帝国がセレスト公国に攻め入る……兵を差し向けるきっかけとなったのは――
「姫様?」
その声に、リュシエンヌは振り返る。彼の顔を見て、答えが出た。
(ノワール帝国からの求婚を断って、ランスロットと結婚したから……)
つまりこの人生で、リュシエンヌはランスロットの手を取ってはいけないのだ。
(ここは……)
頬に硬い感触が当たる。また濡れていた。涙を流していたからだ。
ぼんやりとした頭で、リュシエンヌは身体を起こす。どうやら自分は床で寝ていたらしい。
(わたし、いったい……)
周りを見渡せば壁を埋め尽くす程の本棚があり、床にも本がうず高く積み上げられている。その本の下には青と白で見事な文様を描きだした絨毯が敷かれている。リュシエンヌが気に入っていたもの。部屋の匂いも懐かしく、ひどく落ち着く。
「姫様? もう。またここにいらしたんですか」
そう。よく通っていた。一日の大半を過ごしていた。城の図書室。
そしてこの声は――
「たまには外へ出て気分転換なさったらどうですか?」
こちらへ歩み寄ってくる。背が高く、肩幅や腕もがっしりしている。
「まぁ、どうせ姫様は俺の言うことは聞いてくれないでしょうが」
親しみを感じさせる気安い口調。
「姫様。返事もなさってくれないのですか」
片方の太い眉がくいっと上がり、緑の瞳が訝しむように細められる。
彼の脚は動いている。胸や腹に穴は開いていない。血がついていない清潔な騎士の隊服だ。
「姫様?」
目の前に座り込み、自分を見つめる眼差し。
『はやく、逃げてください……遠くへ……』
『ひめさま……、はや、く……』
(あぁ……)
リュシエンヌの目にみるみるうちに涙が溜まると、ランスロットの目が見開かれた。
「姫様。どこか具合でも――」
ランスロットの心配する声を遮り、リュシエンヌは体当たりするように彼に抱き着き、声を上げて泣き始めた。戸惑う身体にしがみつき、その温もりを感じ取り、噛みしめる。
(生きている! ランスロットが生きている!)
何が起きたのか、そんなことは考えられなかった。ただ剣を刺されて目の前で死んでいった彼が生きている光景にリュシエンヌは歓喜した。失ったものが我が手に戻り、悪夢から解放された安堵に泣いて喜ぶ以外の表現ができなかった。
――たとえこれが夢でもよかった。精神が壊れた先に見せた悪夢でも、リュシエンヌはランスロットに会いたかった。愛する人に、もう一度会いたかった。
◇
子どものように泣きじゃくるリュシエンヌにランスロットは戸惑いつつ、途中からは抱きしめて彼女の感情を全て吐露させた。
「――少し、落ち着かれましたか」
鼻をすするリュシエンヌの背を優しく叩きながら、ランスロットが問いかけてくる。
泣き過ぎて頭がズキズキと痛み、ぼんやりしていたが、ふと子どもの頃にこんなふうにランスロットに慰められたことがあったなと思い出したところで、ゆっくりと彼から身体を離した。
「ええ……。ごめんなさい……」
我ながらひどい声だった。そして醜態を晒した。
目が覚めてただ混乱するままにランスロットの姿を目にした。現実かどうか実感が湧かなかったが、散々泣いた結果生じる心地よい疲労や、ズキズキと痛む頭の重さが、この世界が存在する確かな証に思えた。
(でも……)
「姫様?」
リュシエンヌはランスロットの胸に耳を押し当て、彼の心臓の鼓動に耳を澄ました。少し速くなったが、規則正しく動いている。
(きちんと聴こえるわ……。ランスロットは、生きているのね……)
その事実にまたリュシエンヌは涙ぐむ。
「姫様。本当に一体どうしたというのです」
今までじっと辛抱してリュシエンヌを慰めていたランスロットが、もう我慢できないと顔を上げさせ、説明を求めた。
(ああ、彼の顔をもう一度見られるだなんて……)
胸がいっぱいになって、ただぽろぽろと涙を流すリュシエンヌの姿にランスロットは困り果てたようだった。
「どこか具合でも悪いのですか。どうか教えてください。何も言ってくれなければ、俺は貴女を救えない」
「わたし……」
リュシエンヌは躊躇った後、ゆっくりと首を振り、「何でもないの」と答えた。
「ただ、怖い夢を見てしまったから」
「夢?」
「ええ……。あなたやお父様たちを失ってしまう夢……。とても生々しくて、まるで現実のことのように思えたから……だから、泣いてしまったの」
真偽を図るかのように、じっとランスロットが見つめてくる。
「本当に、夢の内容で泣かれたのですか? ……何か他に、貴女を苦しめる出来事があったのでは?」
「……ううん。何も、ないわ」
ランスロットはなおも納得がいかなそうに見つめてくる。リュシエンヌは少し笑って言った。
「わたしのそばには、ずっとあなたがいる。ずっと……あなたが守ってくれていた。それなのに一体いつ傷つく暇があるというの?」
ランスロットは押し黙り、しばらくしてようやく、「そうですね」と答えた。
「姫様のそばには俺がずっといますものね」
「そうよ。わたしのそばにはずっとあなたがいたもの」
リュシエンヌの明るくしようとする振る舞いが伝わったのか、ランスロットもいつか見た時のような無邪気な笑みを作る。
「そうですね。ですがまだまだ隙があったようです。これからは姫様が本を読んでいてうっかり寝る暇もないほど、おそばにいようと思います」
「それは少し、息が詰まるかしら」
「辛辣な姫様」
いつもの気安いやり取りに、リュシエンヌは心の中で安堵する。
「さぁ、姫様。そろそろ昼餉の時間です。朝もあまり召し上がっていないのですから、しっかりと食べてください。お腹がいっぱいになって眠れば、今度は幸せな夢が見れるはずです」
リュシエンヌは「わかったわ」と言いながら本を閉じようとする。
開かれていたページに目を落とし、手を止めた。
そこには聖職者が着るような衣装を纏った女性が、両手を掲げ、何かを受け取ろうとする挿絵が描かれていた。
――女神の血を引いた人間たちには、不思議な力が授けられた。
――時を戻す力も、あるかもしれない。
「姫様?」
リュシエンヌはとっさに本を閉じ、微笑んだ。
「早く行きましょう。お腹が空いてしまったわ」
◇
リュシエンヌはまだ、ランスロットと結婚していなかった。
探り探りで過ごす日々の中で、自分はまだ十六歳だということを知った。
両親は健在で、フェランも変わらず元気だ。帝国やメルヴェイユ国の兵が侵攻してくることもなく、いつまでも続くと思われる平穏で、平和な日常の毎日。
(あれはすべて、わたしの夢だったのかしら……)
あまりにも穏やかで、リュシエンヌはランスロットに告げたように、悪夢を見ただけかと思ってしまう。しかし――
『姫様。これからは主としてだけでなく、俺の妻として、貴女を守り、愛を捧げることを誓います。俺が夫となることを許してくれますか?』
『俺の心も身体も、姫様のものです』
『俺は貴女と一緒なら、どこだっていい。――どこにも行かなくていいんだ』
次々と脳裏にランスロットの姿が思い浮かぶ。甘い言葉が響く。
あれもすべて夢だったというのか。素直になれないランスロットへの気持ちが、夢の中で実現したのか。
(ちがう)
『メルヴェイユ国の兵たちが……父上たちの身柄を引き渡せと言っているんです』
『大丈夫。ランスロットがあなたのことを何があっても守ってくれるわ』
『姉上にはランスロットと共に安全な場所へ避難してほしいのです』
あれは夢ではない。
『はやく、逃げてください……遠くへ……』
『ひめさま……、はや、く……』
本当に起きた出来事だ。
リュシエンヌの直感がそう告げていた。
自分は一度何もかも失いかけ、どういうわけか時を遡り、人生をやり直そうとしている。
なぜこんな奇跡にも等しい出来事が起きたのか。
リュシエンヌには一つだけ、思い当たることがあった。
(わたしが……女神さまの血を引いているから?)
セレスト公国の守護神。女神アリアーヌ。自身の子どもたちに不思議な力を授けたという。時を巻き戻す力がそれに該当するのではないか。
ずっとただの伝説で本当の話ではないと思っていたが、あの日――リュシエンヌが悪夢から目が覚めた時、ちょうど女神のことが記されている本のページが開かれていて、ただの偶然にしては出来過ぎな違和感を覚えた。
まるで何かを啓示しているように思えてならなかった。
リュシエンヌは知りたくないという気持ちを抱きながらも、このまま知らない振りをして生活し続けることもできず、図書室に足を運び、例の本を開いた。
それはリュシエンヌもまだ読んだことのない、セレスト公国の建国にまつわる歴史書だった。
セレスト公国はもともとノワール帝国の領土の一部であった。帝国の領土が拡大するにつれて、地方領主が力を持ち、一国の支配者として独立することを帝国から許された。
その際皇帝の娘がセレスト公国を治める領主――大公のもとへ降嫁することが決まった。あくまでも帝国の属国であることを示し、大公が帝国の意に沿わぬことをしないよう監視の役目も兼ねてだろう。
その後、皇帝が死に、嫁いだ娘の兄が新しい皇帝となった。
権力者が代われば、考えも変わる。
兄はもう一度セレスト公国を帝国の一部に組み込もうと、帝国の意のままに動く人間を公国に派遣した。しかしそんなことは認められないと大公が追い返すと、戦争を仕掛けた。
大量の兵を抱える帝国に、まだ国としてまもないセレスト公国が太刀打ちできるはずがない。
セレスト公国の滅亡は免れないかのように思えた。
しかし、奇跡が起きた。
大軍が押し寄せてこようとした日、突然大雨が降り、激しい雷が木々をなぎ倒し、帝国軍の侵攻を防いだのだ。人々は大公妃――帝国から嫁いできた皇女のおかげだと涙した。
彼女は兄の振る舞いに怒り、愛する夫と民たちを守るため、一晩中、食事もせず神に祈りを捧げていたという。
その祈りが神に届き、大地へ大雨を降らせ、怒りの雷を落とした。
(ではこれが、女神アリアーヌの正体?)
リュシエンヌが知っていた内容では、アリアーヌはあくまでも神であった。人間ではなかった。
(でも、帝国の人間……皇帝を神とするならば、皇女であった彼女が女神ということになるわよね。それで公国へ降嫁したから……皇族から貴族になって……神から人間になったと言える?)
以降も、帝国や蛮族から侵略されそうになった時、数々の奇跡が起こり、セレスト公国の平和は守れることとなったと記されている。
――これらの力はすべて、国を守り、愛する人を守るために女神が授けた力である。
(わたしが今ここにいるのは……あの悪夢から覚めて、今があるのも、国を守るため?)
『帝国が貴女を捕えようとするならば、どんなことをしてでも逃げて、生き延びるのです。それが、今の貴女に託された使命です』
ランスロットの言葉が蘇り、くらりと眩暈がしそうになった。
目を瞑り、顔を手で覆う。
(わたしが、セレスト公国を救うの? そんなの、無理よ。できない。そんな力、わたしにはない)
『ひめさま……、はや、く……』
だが、そうなればまたあの運命を繰り返すかもしれない。
また、大切な人たちを失ってしまう。ランスロットが殺されてしまう。
(そんなの、絶対に嫌……)
できるかできないか、ではない。やるしかないのだ。
(あの悲劇を避けるために、わたしにできることは……)
時が巻き戻った。ならば今度は、以前とは違う道を歩まなければならない。
リュシエンヌはどくどくと鳴る心臓の音を落ち着かせるように胸に手を当て、必死に正しい答えを導き出そうと頭を働かせた。
そもそも帝国がセレスト公国に攻め入る……兵を差し向けるきっかけとなったのは――
「姫様?」
その声に、リュシエンヌは振り返る。彼の顔を見て、答えが出た。
(ノワール帝国からの求婚を断って、ランスロットと結婚したから……)
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