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真夜中の逃亡
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新婚旅行は結局、行かないことが決まった。
両親はひどく残念がったが、リュシエンヌの性格的にどこか仕方がないとも思ったようで、それ以上強く勧めることはしなかった。
リュシエンヌは申し訳なさと自分の意気地のなさで自己嫌悪に陥ったが、周りの優しさに甘え続け、社交界にも滅多に出席せず、最低限のことだけをこなしながら、ランスロットとの静かで、満ち足りた結婚生活を過ごしていた。
それは華やかさを好む人間からすれば、ひどく代わり映えのない、退屈な毎日であっただろう。
だがリュシエンヌにとっては、幸福な日々だった。ランスロットがそばにいてくれたから。彼さえ隣で笑ってくれれば、他には何もいらなかったから。
彼はリュシエンヌに誓ってくれた。そばにいると。
だからずっと、この幸せが続くと思っていた。
「――姫様。目を覚ましてください」
それは真夜中の出来事だった。
「ん……ランスロット?」
どこか緊張を孕んだ声に、リュシエンヌは眠い目を瞬かせ、起き上がる。何やら外が騒がしかった。
「何か、あったの?」
数時間前一緒に寝床に入ったはずの彼が、まだその時刻でないというのにすでに着替えていた。その表情は強張っている。
「詳しいことはまだ何も……。ですが、念のために着替えてください」
彼自身も、状況がよくわかっていないのか、様子を見てくると部屋を出て行ってしまった。リュシエンヌは入れ替わるように部屋へ入ってきた侍女に着替えを手伝われ、何が起きたのか尋ねてみたが、戸惑った表情でわからないと言われた。
(ランスロット……)
早く彼に帰ってきてほしい。そばにいてほしい。
祈るような気持ちで待ち続けるリュシエンヌのもとへ、ランスロットが戻ってきた。
安堵して駆け寄れば、冷たくなった掌で手を握られ、大公夫妻のいる宮殿へこれから向かうことを告げられた。
どうして、と詳細を尋ねる暇もなくリュシエンヌは両親のもとへ連れて行かれた。その際人目のつかぬ道を歩かされ、途中ですれ違う兵たちの顔がみなランスロットのように険しい顔をしていたのが嫌でも不安を掻き立てる。
とても嫌な予感がした。
「あぁ、リュシー……!」
無事だったのね、と言いたげな、どこか泣きそうな顔で母はリュシエンヌに手を伸ばしてくる。母のそばには弟のフェランがいた。父の姿はなかった。
「お母様、一体何が起きたのですか……」
しばし娘を抱きしめていた母は抱擁を解き、頬を撫でてくる。なんとか微笑を浮かべようとしているが、失敗してどこか痛々しく映った。
「リュシー。わたくしとあの人の愛しい子。何も心配することはないのよ」
「お母様。突然何を……何が起きたの?」
恐怖がじわじわと爪先から這い上がってくる。
母は美しい瞳に涙を溜め、言った。
「大丈夫。ランスロットがあなたのことを何があっても守ってくれるわ」
「お母様!」
「リュシエンヌ様」
ランスロットが宥めようとするが、この時ばかりはリュシエンヌも平静でいられなかった。
「何が起きたの? きちんと説明してくれないとわからないわ!」
「メルヴェイユ国の兵たちが……父上の身柄を引き渡せと言っているんです」
「え?」
フェランの説明を聞いても、リュシエンヌはすぐに状況が呑み込めなかった。メルヴェイユ国……セレスト公国と同じ小さな国で、隣り合う国として親交を深めていた。
その国が父の身柄を引き渡せと言っている?
「どうして……」
「事情は、わかりません。ですが、決して温厚な雰囲気ではない様子で……もしかすると危険がこの城にも及ぶかもしれないので、姉上にはランスロットと共に安全な場所へ避難してほしいのです」
リュシエンヌは首を振って、状況を理解することを拒んだ。
「嫌よ……そんなの。この城が危険だなんて……もしもの時なんて……お母様とフェランは? その言い方じゃ、まるでここに残るみたいだわ。そんなの、だめよ。お父様も呼んで、一緒に逃げましょう。ね、早く……」
いつもは上手く回らない口が、今はすらすらと言葉を吐き出す。
そんな姉を痛ましげな表情でフェランが見つめる。それでも姉を勇気づけるように、言葉を重ねた。
「もしもの時です。恐らく何もありませんから、大丈夫ですよ」
「そうよ、リュシー。もし仮に何かあったとしても、お母様たちも必ず後であなたたちを追いかけるわ。ね? だから言うことを聞いてちょうだい」
「嫌よ、お母様、わたしもここに――」
「姫様。行きましょう」
このままでは埒が明かないと思ったのか、ランスロットが無理矢理でもリュシエンヌを連れていこうとした。
「いや! ランスロット離して! お母様! フェラン!」
「リュシー。大丈夫よ」
きっとランスロットがあなたのことを守ってくれるわ。
母の言葉を最後に、リュシエンヌは手を引かれ、ランスロットと、侍女と護衛の騎士を加えて、城の隠し通路を通って外へと出た。用意してあった馬車に乗せられ、城の裏口から脱出する。
(どうしてメルヴェイユ国はお父様の身柄を……お父様はもう、彼らのもとへいるの……?)
混乱したまま、真っ暗な夜の道を走る。カーテンを少し開けて城の方を見れば、暗闇の中、不気味な赤い光が揺らめいて見えた。
(あれは……メルヴェイユの兵なの? 本当に、お父様の身柄を引き取りに来たというの?)
父が一体何をしたというのだ。こんなやり方ではまるで強迫だ。
呆然とするリュシエンヌにこれ以上残酷な光景を見せまいと、ランスロットが素早くカーテンを閉める。彼女は彼の方へ身体を向け、胸元のマントをくしゃりと掴んだ。
「ランスロット、今すぐ引き返して。お母様やフェランがいるわ。お父様だってまだあの城にいる」
「……」
「お願い、ランスロット……!」
涙で視界が滲んだまま、ランスロットに懇願する。彼はいつだってリュシエンヌの願いを拒まなかった。だから苦しそうな顔をしても、きっと聞き入れてくる。
「……申し訳ありませんがそれはできません」
「っ……どうして!」
胸を叩いて抗議すれば、彼に抱きすくめられた。
「貴女を失いたくはないからです」
リュシエンヌは声を殺して、泣き続けた。
あまりにも突然の出来事で、心が追いつかなかった。
両親はひどく残念がったが、リュシエンヌの性格的にどこか仕方がないとも思ったようで、それ以上強く勧めることはしなかった。
リュシエンヌは申し訳なさと自分の意気地のなさで自己嫌悪に陥ったが、周りの優しさに甘え続け、社交界にも滅多に出席せず、最低限のことだけをこなしながら、ランスロットとの静かで、満ち足りた結婚生活を過ごしていた。
それは華やかさを好む人間からすれば、ひどく代わり映えのない、退屈な毎日であっただろう。
だがリュシエンヌにとっては、幸福な日々だった。ランスロットがそばにいてくれたから。彼さえ隣で笑ってくれれば、他には何もいらなかったから。
彼はリュシエンヌに誓ってくれた。そばにいると。
だからずっと、この幸せが続くと思っていた。
「――姫様。目を覚ましてください」
それは真夜中の出来事だった。
「ん……ランスロット?」
どこか緊張を孕んだ声に、リュシエンヌは眠い目を瞬かせ、起き上がる。何やら外が騒がしかった。
「何か、あったの?」
数時間前一緒に寝床に入ったはずの彼が、まだその時刻でないというのにすでに着替えていた。その表情は強張っている。
「詳しいことはまだ何も……。ですが、念のために着替えてください」
彼自身も、状況がよくわかっていないのか、様子を見てくると部屋を出て行ってしまった。リュシエンヌは入れ替わるように部屋へ入ってきた侍女に着替えを手伝われ、何が起きたのか尋ねてみたが、戸惑った表情でわからないと言われた。
(ランスロット……)
早く彼に帰ってきてほしい。そばにいてほしい。
祈るような気持ちで待ち続けるリュシエンヌのもとへ、ランスロットが戻ってきた。
安堵して駆け寄れば、冷たくなった掌で手を握られ、大公夫妻のいる宮殿へこれから向かうことを告げられた。
どうして、と詳細を尋ねる暇もなくリュシエンヌは両親のもとへ連れて行かれた。その際人目のつかぬ道を歩かされ、途中ですれ違う兵たちの顔がみなランスロットのように険しい顔をしていたのが嫌でも不安を掻き立てる。
とても嫌な予感がした。
「あぁ、リュシー……!」
無事だったのね、と言いたげな、どこか泣きそうな顔で母はリュシエンヌに手を伸ばしてくる。母のそばには弟のフェランがいた。父の姿はなかった。
「お母様、一体何が起きたのですか……」
しばし娘を抱きしめていた母は抱擁を解き、頬を撫でてくる。なんとか微笑を浮かべようとしているが、失敗してどこか痛々しく映った。
「リュシー。わたくしとあの人の愛しい子。何も心配することはないのよ」
「お母様。突然何を……何が起きたの?」
恐怖がじわじわと爪先から這い上がってくる。
母は美しい瞳に涙を溜め、言った。
「大丈夫。ランスロットがあなたのことを何があっても守ってくれるわ」
「お母様!」
「リュシエンヌ様」
ランスロットが宥めようとするが、この時ばかりはリュシエンヌも平静でいられなかった。
「何が起きたの? きちんと説明してくれないとわからないわ!」
「メルヴェイユ国の兵たちが……父上の身柄を引き渡せと言っているんです」
「え?」
フェランの説明を聞いても、リュシエンヌはすぐに状況が呑み込めなかった。メルヴェイユ国……セレスト公国と同じ小さな国で、隣り合う国として親交を深めていた。
その国が父の身柄を引き渡せと言っている?
「どうして……」
「事情は、わかりません。ですが、決して温厚な雰囲気ではない様子で……もしかすると危険がこの城にも及ぶかもしれないので、姉上にはランスロットと共に安全な場所へ避難してほしいのです」
リュシエンヌは首を振って、状況を理解することを拒んだ。
「嫌よ……そんなの。この城が危険だなんて……もしもの時なんて……お母様とフェランは? その言い方じゃ、まるでここに残るみたいだわ。そんなの、だめよ。お父様も呼んで、一緒に逃げましょう。ね、早く……」
いつもは上手く回らない口が、今はすらすらと言葉を吐き出す。
そんな姉を痛ましげな表情でフェランが見つめる。それでも姉を勇気づけるように、言葉を重ねた。
「もしもの時です。恐らく何もありませんから、大丈夫ですよ」
「そうよ、リュシー。もし仮に何かあったとしても、お母様たちも必ず後であなたたちを追いかけるわ。ね? だから言うことを聞いてちょうだい」
「嫌よ、お母様、わたしもここに――」
「姫様。行きましょう」
このままでは埒が明かないと思ったのか、ランスロットが無理矢理でもリュシエンヌを連れていこうとした。
「いや! ランスロット離して! お母様! フェラン!」
「リュシー。大丈夫よ」
きっとランスロットがあなたのことを守ってくれるわ。
母の言葉を最後に、リュシエンヌは手を引かれ、ランスロットと、侍女と護衛の騎士を加えて、城の隠し通路を通って外へと出た。用意してあった馬車に乗せられ、城の裏口から脱出する。
(どうしてメルヴェイユ国はお父様の身柄を……お父様はもう、彼らのもとへいるの……?)
混乱したまま、真っ暗な夜の道を走る。カーテンを少し開けて城の方を見れば、暗闇の中、不気味な赤い光が揺らめいて見えた。
(あれは……メルヴェイユの兵なの? 本当に、お父様の身柄を引き取りに来たというの?)
父が一体何をしたというのだ。こんなやり方ではまるで強迫だ。
呆然とするリュシエンヌにこれ以上残酷な光景を見せまいと、ランスロットが素早くカーテンを閉める。彼女は彼の方へ身体を向け、胸元のマントをくしゃりと掴んだ。
「ランスロット、今すぐ引き返して。お母様やフェランがいるわ。お父様だってまだあの城にいる」
「……」
「お願い、ランスロット……!」
涙で視界が滲んだまま、ランスロットに懇願する。彼はいつだってリュシエンヌの願いを拒まなかった。だから苦しそうな顔をしても、きっと聞き入れてくる。
「……申し訳ありませんがそれはできません」
「っ……どうして!」
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