旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ

文字の大きさ
上 下
28 / 29

28. 幸せ

しおりを挟む
「シエルがお兄様に言っていたことだけど……」

 帰り道、茜色に染まっていく景色に目をやりながらイレーナは目の前に座るシエルに話しかけた。

「どれのことですか」
「図太くないと、愛する人は守れないって言葉」
「あ、すみません。失礼でしたか?」
「ううん。違うの。本当に、そうだなって思って」

 今まで守るとは、ずっと身体を張って相手を危険から遠ざけることだと思っていた。もちろんそれも間違いではないだろう。

 でもそれだけじゃなくて、声に出して自分の考えを述べたり、力ある人間に手を貸してもらえるよう言葉で説得することも含まれるのだ。そこに遠慮とか、みっともないとか、外聞を気にしていたら守れるものも守れない。

「力のない人間は特にそうだなと思ったの」

 イレーナやマリアンヌのような女性は男性に頼らざるを得ないのが現実だ。不遇な状況下でも相手に逆らわず、流されるままだったら悲惨な末路が待っているだけだ。

「行き過ぎはよくありませんけどね」
「ええ。難しい所ね……」

 でも、と思う。

「あの子を守るためには、強くならなくちゃ」

 そんなイレーナをじっと見つめるシエルの視線に、以前もこんなことがあったなと思い出す。あの時の彼には婚約者がいて、イレーナはその人だけを愛してほしいと彼に頼んだ。その男が今は――

「私はイレーナ様に頼まれれば、どんなことでもしますよ」
「ほんとう?」
「はい」

 なら……とイレーナは先ほどからずっと思っていたことを口にする。

「これからは敬語ではなく、普通に話してちょうだい」
「え」
「あと名前も様づけではなく、イレーナと呼び捨てで。あなたはこれから私の夫になるのだから」

 ね? とイレーナが微笑むと、シエルの顔はたちまち赤くなった。それを隠すように手を当てるのも、またいい。

「ふふ……」
「イレーナ様。揶揄うのはよしてください」
「ほら。言ったそばから」

 やり直し、とイレーナは先生のように、けれど先生としてはあってはならない甘く優しい声でシエルを叱った。彼の耳はそれに呼応するかのように赤くなっていく。

「シエル。ほら、もう一度」
「っ……卑怯です!」
「あら。また間違えましたね」

 いけない子、とイレーナがわざとらしく肩を竦めると、とうとうシエルにぐいっと腕を引っ張られ、彼の腕の中に閉じ込められてしまった。

(少し、揶揄いすぎたかしら)

 でもシエルの反応が可愛すぎるから悪いのだ。好きな子をいじめたくなる人間の気持ちがわかった気がする。なんてことを考えていると、ふっとイレーナの耳元に息が吹きかけられた。思わずぴくりと身体を揺らしてしまう。

「シエル?」
「――イレーナ」

 これまで自分のことを名前で呼ぶ人間はいた。家族はもちろん、夫であったダヴィドも。だがシエルに呼ばれると、どうしてこんなにも特別に聴こえるのだろうか。

 頬が熱くなるのを感じながら、イレーナは努めて冷静に何かしらと返した。あくまでも自然に。恥ずかしがる必要なんてこれっぽっちもない。だってイレーナはシエルの妻だ。名前で呼ばれるくらい――

「イレーナ」

 もう一度、シエルは繰り返した。イレーナはまたもやびくっと震えた。背筋がぞくりとする。寒いのではなく、熱くて甘い痺れが駆けのぼってくる感じがした。

「イレーナ」
「も、もういいわ」

 離れようとするイレーナを引き寄せ、顔をこちらに向けさせるシエルに逆らうことはできなかった。空色の瞳がほんのすぐ近くで自分を見つめていた。

「どうして離れようとするんだい? あなたは私の奥さんだろう?」

(奥さん!)

 何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、愛する人に面と向かって言われてイレーナの心臓は嬉しさやら恥ずかしさやらで破裂しそうであった。

「イレーナ。私の妻。愛する人だ」

 妻の様子に夫はますます笑みを深め、甘い言葉を囁く。もうだめ、とイレーナはついに顔を覆った。

「あの、シエル。ごめんなさい。私が揶揄いすぎたわ」

 たしかにいきなり口調を変えるのは非常に危ない。これでは心臓がいくつあっても、足りない。

「少しずつ、少しずつにしましょう」
「ではイレーナ、と呼ぶのは許してくださいますか?」

 こくこくと頷く。だから早く、この近すぎる距離をどうにかしてほしい。すでに口づけまでしておきながら、イレーナはシエルとの甘い空気に耐えられなかった。

「イレーナ」

(まだ続けるの!?)

 これ以上は無理だ! とイレーナが耐え切れず目を瞑ると、くすくすと笑う声がした。恐る恐る目を開けると、シエルが必死に笑いをかみ殺していた。

「シエル!」
「す、すみません。あまりにもイレーナが可愛いもので……」

 もう、とイレーナは怒ったものの、すぐにまあいいかとシエルに身を預けた。肩口に顔を埋め、シエルがそばにいるんだということを感じる。

「イレーナ?」
「シエル。私、嬉しい……」

 こんなふうに気軽に言い合えるなんて、シエルを好きだと自覚した時には夢にも思わなかった。ダヴィドの妻である限り、シエルへの想いはずっと秘めておかなければならないものだった。けれど今は、その必要もない。

「シエル。私、あなたが好き」

 ずっとずっと言いたかったことをようやく伝えられる。顔を上げたイレーナは泣きそうで、シエルもまたくしゃりと顔を歪ませた。

「もっと、言ってください」
「好き」
「もっと」
「大好き」

 もっと伝えたかったけれど、シエルがイレーナの口を塞いでしまったので、それ以上言うことはできなかった。

 行動は言葉よりもずっと素直だ。彼の好きだという気持ちがイレーナの心を満たしていき、きっとこれを幸せというのだろうと思った。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妹がいなくなった

アズやっこ
恋愛
妹が突然家から居なくなった。 メイドが慌ててバタバタと騒いでいる。 お父様とお母様の泣き声が聞こえる。 「うるさくて寝ていられないわ」 妹は我が家の宝。 お父様とお母様は妹しか見えない。ドレスも宝石も妹にだけ買い与える。 妹を探しに出掛けたけど…。見つかるかしら?

拝啓、婚約者様。ごきげんよう。そしてさようなら

みおな
恋愛
 子爵令嬢のクロエ・ルーベンスは今日も《おひとり様》で夜会に参加する。 公爵家を継ぐ予定の婚約者がいながら、だ。  クロエの婚約者、クライヴ・コンラッド公爵令息は、婚約が決まった時から一度も婚約者としての義務を果たしていない。  クライヴは、ずっと義妹のファンティーヌを優先するからだ。 「ファンティーヌが熱を出したから、出かけられない」 「ファンティーヌが行きたいと言っているから、エスコートは出来ない」 「ファンティーヌが」 「ファンティーヌが」  だからクロエは、学園卒業式のパーティーで顔を合わせたクライヴに、にっこりと微笑んで伝える。 「私のことはお気になさらず」

完結 若い愛人がいる?それは良かったです。

音爽(ネソウ)
恋愛
妻が余命宣告を受けた、愛人を抱える夫は小躍りするのだが……

【完結】婚約破棄され毒杯処分された悪役令嬢は影から王子の愛と後悔を見届ける

堀 和三盆
恋愛
「クアリフィカ・アートルム公爵令嬢! 貴様との婚約は破棄する」  王太子との結婚を半年後に控え、卒業パーティーで婚約を破棄されてしまったクアリフィカ。目の前でクアリフィカの婚約者に寄り添い、歪んだ嗤いを浮かべているのは異母妹のルシクラージュだ。  クアリフィカは既に王妃教育を終えているため、このタイミングでの婚約破棄は未来を奪われるも同然。こうなるとクアリフィカにとれる選択肢は多くない。  せめてこれまで努力してきた王妃教育の成果を見てもらいたくて。  キレイな姿を婚約者の記憶にとどめてほしくて。  クアリフィカは荒れ狂う感情をしっかりと覆い隠し、この場で最後の公務に臨む。  卒業パーティー会場に響き渡る悲鳴。  目にした惨状にバタバタと倒れるパーティー参加者達。  淑女の鑑とまで言われたクアリフィカの最期の姿は、良くも悪くも多くの者の記憶に刻まれることになる。  そうして――王太子とルシクラージュの、後悔と懺悔の日々が始まった。

【完結】旦那様は、妻の私よりも平民の愛人を大事にしたいようです

よどら文鳥
恋愛
 貴族のことを全く理解していない旦那様は、愛人を紹介してきました。  どうやら愛人を第二夫人に招き入れたいそうです。  ですが、この国では一夫多妻制があるとはいえ、それは十分に養っていける環境下にある上、貴族同士でしか認められません。  旦那様は貴族とはいえ現状無職ですし、愛人は平民のようです。  現状を整理すると、旦那様と愛人は不倫行為をしているというわけです。  貴族の人間が不倫行為などすれば、この国での処罰は極刑の可能性もあります。  それすら理解せずに堂々と……。  仕方がありません。  旦那様の気持ちはすでに愛人の方に夢中ですし、その願い叶えられるように私も協力致しましょう。  ただし、平和的に叶えられるかは別です。  政略結婚なので、周りのことも考えると離婚は簡単にできません。ならばこれくらいの抵抗は……させていただきますよ?  ですが、周囲からの協力がありまして、離婚に持っていくこともできそうですね。  折角ですので離婚する前に、愛人と旦那様が私たちの作戦に追い詰められているところもじっくりとこの目で見ておこうかと思います。

〖完結〗旦那様には出て行っていただきます。どうか平民の愛人とお幸せに·····

藍川みいな
恋愛
「セリアさん、単刀直入に言いますね。ルーカス様と別れてください。」 ……これは一体、どういう事でしょう? いきなり現れたルーカスの愛人に、別れて欲しいと言われたセリア。 ルーカスはセリアと結婚し、スペクター侯爵家に婿入りしたが、セリアとの結婚前から愛人がいて、その愛人と侯爵家を乗っ取るつもりだと愛人は話した…… 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 全6話で完結になります。

いいえ、望んでいません

わらびもち
恋愛
「お前を愛することはない!」 結婚初日、お決まりの台詞を吐かれ、別邸へと押し込まれた新妻ジュリエッタ。 だが彼女はそんな扱いに傷つくこともない。 なぜなら彼女は―――

理想の女性を見つけた時には、運命の人を愛人にして白い結婚を宣言していました

ぺきぺき
恋愛
王家の次男として生まれたヨーゼフには幼い頃から決められていた婚約者がいた。兄の補佐として育てられ、兄の息子が立太子した後には臣籍降下し大公になるよていだった。 このヨーゼフ、優秀な頭脳を持ち、立派な大公となることが期待されていたが、幼い頃に見た絵本のお姫様を理想の女性として探し続けているという残念なところがあった。 そしてついに貴族学園で絵本のお姫様とそっくりな令嬢に出会う。 ーーーー 若気の至りでやらかしたことに苦しめられる主人公が最後になんとか幸せになる話。 作者別作品『二人のエリーと遅れてあらわれるヒーローたち』のスピンオフになっていますが、単体でも読めます。 完結まで執筆済み。毎日四話更新で4/24に完結予定。 第一章 無計画な婚約破棄 第二章 無計画な白い結婚 第三章 無計画な告白 第四章 無計画なプロポーズ 第五章 無計画な真実の愛 エピローグ

処理中です...