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24. 天罰
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春がもう、すぐそこまで来ている。
澄み渡った空に、張りつめたような空気の冷たさ。イレーナはたくさんの墓標の中からその一つをじっと見つめていた。そんな彼女の隣にそっと寄り添う誰かの気配。
「まだどこか信じられないな」
「お父様が亡くなったこと?」
兄のリュシアンはああ、と頷いた。
墓石に刻まれた名前はイレーナとリュシアンの父の名だ。イレーナが伯爵のもとへ嫁いだ後に体調を崩していた父は、冬の厳しさに耐え切れず、春を迎える前にあの世に逝ってしまったのだ。大勢の人間と一緒に慌ただしい葬儀を終え、改めて兄妹二人でお参りしたいと今日この日、足を運んだのだった。
「あの人はなんだかんだで長生きするものだってずっと思ってたからさ」
「そうね。私も、まだ信じられないわ……」
二人の間に沈黙が降りる。イレーナもリュシアンも、無言で亡き父に語りかけた。
(お父様は私のことをどう思っていたのですか)
母に似た自分の存在は疎ましかったのだろうか。それともそんな感情すら湧かず、ただ貴族との繋がりを結びつける道具だったのだろうか。
父と親子らしい会話などほとんどしなかったイレーナには、最期まで父の考えていることはわからずじまいであった。
隣の兄をそっと横目でうかがう。兄もまた、自身の父親に対して複雑な思いを抱いているはずだ。いいや。実の母親から引き離され、跡継ぎとしてより厳しく育てられた兄ならば自分よりもずっと――
「そろそろ帰るか」
イレーナの視線に気づいたリュシアンが目を細めた。イレーナはこくりと頷き、その場を離れた。父の遺体が埋められている墓地は、リュシアンが治める領地内で、疲れた妹に兄は屋敷で休んでいくよう勧めた。
「何なら今日は俺の屋敷に泊まっていけばいい」
「ありがとう。でも――」
「あら」
前を歩いていた二人の前にちょうど数人の婦人と鉢合わせする。どこかで見た顔だと思えば、父の葬儀に出席していた貴族のご夫人方であった。
「どうも」
兄が親しみを込めて挨拶をする。整った容姿はこういう時非常に便利だ。一気に彼女たちの雰囲気が和らぐ。
「この度は大変でしたわね」
「今日は妹さんもご一緒に?」
「はい。改めて父と語り合いたいなと思いまして……」
「まぁ、そうでしたの」
夫人たちは、ややぶしつけとも言える視線でイレーナの顔を見てきた。
「それにしても、貴女も大変でしたわね。父親だけでなく、ご主人にも先立たれて」
「何でも、他に若い女性が亡くなられたのでしょう?」
「同じ敷地内で亡くなられるなんて、ねぇ?」
リュシアンの顔がわずかに曇ったが、イレーナは悲しげな表情を浮かべて視線を落とした。
「ええ。本当に。病というのは恐ろしいものですわ。大切な人を容赦なく奪ってしまうのですから……」
「そうね。本当に病でお亡くなりになられたのなら」
ゴホンとリュシアンが咳払いして、夫人に微笑んだ。
「失礼。この寒い冬空の中立ち話をしていたらお互い風邪をひいてしまうでしょう。そろそろこれで」
実にわざとらしいリュシアンの態度にも女性陣は動じず、もっと話したそうであった。そんな彼女たちに止めを刺すようにイレーナが引き継いだ。
「お兄様。大丈夫ですわ。亡くなった方々のことを根掘り葉掘り聞くような品のない真似をする方々がどうして風邪などひくでしょうか。まして病で亡くなられるなんて……」
「まっ、私たちはそんな」
顔を赤くする彼女たちに、リュシアンはにやりと笑いながら言った。
「ああ、それもそうだな。私が天国の番人だったら、そんな下品な方々、こちらから願い下げる」
「そろそろ、行きましょうか」
ばつが悪そうに、そそくさと去っていく背中を見送りながら、リュシアンはチッと舌打ちした。
「ったく、相変わらず口うるさい婆さんたちだな」
「お兄様」
「いいんだよ。あの人たち、昔俺のことも愛人の子だとか遠回しに嫌味を言ったんだ」
そうだったのか。ならばもっと嫌味を言ってやればよかったなとイレーナは後悔した。彼女たちのような人間と遭遇しないためにわざわざ朝早く足を運んだのだが、それもご老人には通じなかったようだ。
「とにかく帰ろう」
リュシアンはうんざりしたようにため息をつき、墓地内を出て、待たせていた馬車に乗り込んだ。
「一度屋敷に帰るが、それでいいか?」
「ええ」
ガタガタと揺れる馬車の振動に身を委ねながら、イレーナは外へ目を向けた。母が亡くなった時も訪れた墓地。今はそこに父の亡骸も埋められている。あの世で今頃、父は母と会っているのだろうか。いや、そもそも父は母と同じ場所へ逝けたのか――
「天罰って本当に下るんだな」
藪から棒に言い出した兄の言葉にイレーナは目を丸くする。
「どういうこと?」
「父上の世話をしていた女性がいただろう?」
リュシアンの母であった女性が屋敷から追い出された後、父は妹たちの家庭教師をしていた女性に目をつけた。若くて美しい女性。貴族であるが、実家に仕送りをしていた家庭環境。彼女は父に逆らえなかった。
三人目の妻として彼女を娶った父は、自分のそばにおいて甲斐甲斐しく世話をさせた。その様子は貴族の妻というよりまるで主人に仕えるメイドのようで、あまり見ていて気分のいい光景ではなかった。
「彼女……もう屋敷にはいないわよね?」
交流はほとんどなかったが、一応父の新しい妻であり、イレーナの母にあたる人だ。そんな彼女の姿が、イレーナがこちらへ帰ってきた時には忽然と消えていた。夫の死に際にいない妻。普通なら大騒ぎするところだ。だがリュシアンも屋敷の使用人たちもどこか落ち着いていた。
まるで彼女など、最初から存在していなかったように。
「それがどうもずいぶんと前から父の目を盗んで、元婚約者との逢瀬に勤しんでいたようでな」
「まぁ……」
もともと父とはずいぶんと年が離れていた。同い年くらいの若くて健全な男性に惹かれるのは、それもかつての想い人ならば、仕方のないことに思えた。
「それで、お父様はどうなさったの?」
なんとなく、想像がつく話だ。
「その現場をある日偶然父上は目にしてしまった。今まで可愛がってきた女性に不貞を働かれ、その怒りと屈辱で心臓に多大なる負荷をかけてしまった。それが今年の冬頃の話だ」
「お父様が急に倒れた頃ね」
そしてダヴィドとマリアンヌが亡くなった頃でもある。
「まあ、それだけならまだよかったかもしれないが……なんとその男との間に子どもまで身ごもったらしい」
よくある話だが、身内の話、それも自分の父親の話だけにイレーナは眉を寄せた。父はおそらく、それが止めとなったのだろう。
「それが、天罰?」
「そう。因果応報。自分がしてきたこととまったく同じことを死ぬ間際にされたんだ」
イレーナはダヴィドがマリアンヌによって刺された時のことを思い出していた。あの時の姿、まるでイレーナの母が父を刺すようにも見えたのだ。現実では、愛する女性の裏切りを突き付けられた。
「じゃあ、彼女がもう屋敷にいないのは……」
「ああ。その婚約相手と駆け落ちしたからな」
「駆け落ち……」
ふっ、と兄は笑った。
「まぁ、父上以外はみな知っていたがな。無理矢理父上のお手つきにされた彼女を不憫に思って、わざと逃亡の手助けをしていた。当分の暮らしには困らない額の小切手も、餞別にくれてやったさ」
「そう……」
父は愛する人に裏切られ、見捨てられた。息子も使用人も彼女の裏切りを知っていて、その手助けをした。可哀想、と思わない自分は親不孝者だろう。だが今まで母にしてきたことを思えば、同情する気にはとてもなれなかった。
「父上が亡くなる時、息を引き取るまですごく苦しそうだった。いっそ早く死んだ方が楽になれるってくらい顔を歪めてさ……俺はその姿を見て、ああ、人間てのは最期にこうしてきちんと報いを受けるものなんだなって……なんか妙に納得したんだ」
そうかもしれない、とイレーナは思った。
ダヴィドもマリアンヌという愛する人がいながら、彼女を傷つけ、裏切ってしまった。絶望したマリアンヌがダヴィドを刃物で突き刺したのは、当然の結末だったのかもしれない。
「だからイレーナ。伯爵のことも、自分を責める必要はないからな」
澄み渡った空に、張りつめたような空気の冷たさ。イレーナはたくさんの墓標の中からその一つをじっと見つめていた。そんな彼女の隣にそっと寄り添う誰かの気配。
「まだどこか信じられないな」
「お父様が亡くなったこと?」
兄のリュシアンはああ、と頷いた。
墓石に刻まれた名前はイレーナとリュシアンの父の名だ。イレーナが伯爵のもとへ嫁いだ後に体調を崩していた父は、冬の厳しさに耐え切れず、春を迎える前にあの世に逝ってしまったのだ。大勢の人間と一緒に慌ただしい葬儀を終え、改めて兄妹二人でお参りしたいと今日この日、足を運んだのだった。
「あの人はなんだかんだで長生きするものだってずっと思ってたからさ」
「そうね。私も、まだ信じられないわ……」
二人の間に沈黙が降りる。イレーナもリュシアンも、無言で亡き父に語りかけた。
(お父様は私のことをどう思っていたのですか)
母に似た自分の存在は疎ましかったのだろうか。それともそんな感情すら湧かず、ただ貴族との繋がりを結びつける道具だったのだろうか。
父と親子らしい会話などほとんどしなかったイレーナには、最期まで父の考えていることはわからずじまいであった。
隣の兄をそっと横目でうかがう。兄もまた、自身の父親に対して複雑な思いを抱いているはずだ。いいや。実の母親から引き離され、跡継ぎとしてより厳しく育てられた兄ならば自分よりもずっと――
「そろそろ帰るか」
イレーナの視線に気づいたリュシアンが目を細めた。イレーナはこくりと頷き、その場を離れた。父の遺体が埋められている墓地は、リュシアンが治める領地内で、疲れた妹に兄は屋敷で休んでいくよう勧めた。
「何なら今日は俺の屋敷に泊まっていけばいい」
「ありがとう。でも――」
「あら」
前を歩いていた二人の前にちょうど数人の婦人と鉢合わせする。どこかで見た顔だと思えば、父の葬儀に出席していた貴族のご夫人方であった。
「どうも」
兄が親しみを込めて挨拶をする。整った容姿はこういう時非常に便利だ。一気に彼女たちの雰囲気が和らぐ。
「この度は大変でしたわね」
「今日は妹さんもご一緒に?」
「はい。改めて父と語り合いたいなと思いまして……」
「まぁ、そうでしたの」
夫人たちは、ややぶしつけとも言える視線でイレーナの顔を見てきた。
「それにしても、貴女も大変でしたわね。父親だけでなく、ご主人にも先立たれて」
「何でも、他に若い女性が亡くなられたのでしょう?」
「同じ敷地内で亡くなられるなんて、ねぇ?」
リュシアンの顔がわずかに曇ったが、イレーナは悲しげな表情を浮かべて視線を落とした。
「ええ。本当に。病というのは恐ろしいものですわ。大切な人を容赦なく奪ってしまうのですから……」
「そうね。本当に病でお亡くなりになられたのなら」
ゴホンとリュシアンが咳払いして、夫人に微笑んだ。
「失礼。この寒い冬空の中立ち話をしていたらお互い風邪をひいてしまうでしょう。そろそろこれで」
実にわざとらしいリュシアンの態度にも女性陣は動じず、もっと話したそうであった。そんな彼女たちに止めを刺すようにイレーナが引き継いだ。
「お兄様。大丈夫ですわ。亡くなった方々のことを根掘り葉掘り聞くような品のない真似をする方々がどうして風邪などひくでしょうか。まして病で亡くなられるなんて……」
「まっ、私たちはそんな」
顔を赤くする彼女たちに、リュシアンはにやりと笑いながら言った。
「ああ、それもそうだな。私が天国の番人だったら、そんな下品な方々、こちらから願い下げる」
「そろそろ、行きましょうか」
ばつが悪そうに、そそくさと去っていく背中を見送りながら、リュシアンはチッと舌打ちした。
「ったく、相変わらず口うるさい婆さんたちだな」
「お兄様」
「いいんだよ。あの人たち、昔俺のことも愛人の子だとか遠回しに嫌味を言ったんだ」
そうだったのか。ならばもっと嫌味を言ってやればよかったなとイレーナは後悔した。彼女たちのような人間と遭遇しないためにわざわざ朝早く足を運んだのだが、それもご老人には通じなかったようだ。
「とにかく帰ろう」
リュシアンはうんざりしたようにため息をつき、墓地内を出て、待たせていた馬車に乗り込んだ。
「一度屋敷に帰るが、それでいいか?」
「ええ」
ガタガタと揺れる馬車の振動に身を委ねながら、イレーナは外へ目を向けた。母が亡くなった時も訪れた墓地。今はそこに父の亡骸も埋められている。あの世で今頃、父は母と会っているのだろうか。いや、そもそも父は母と同じ場所へ逝けたのか――
「天罰って本当に下るんだな」
藪から棒に言い出した兄の言葉にイレーナは目を丸くする。
「どういうこと?」
「父上の世話をしていた女性がいただろう?」
リュシアンの母であった女性が屋敷から追い出された後、父は妹たちの家庭教師をしていた女性に目をつけた。若くて美しい女性。貴族であるが、実家に仕送りをしていた家庭環境。彼女は父に逆らえなかった。
三人目の妻として彼女を娶った父は、自分のそばにおいて甲斐甲斐しく世話をさせた。その様子は貴族の妻というよりまるで主人に仕えるメイドのようで、あまり見ていて気分のいい光景ではなかった。
「彼女……もう屋敷にはいないわよね?」
交流はほとんどなかったが、一応父の新しい妻であり、イレーナの母にあたる人だ。そんな彼女の姿が、イレーナがこちらへ帰ってきた時には忽然と消えていた。夫の死に際にいない妻。普通なら大騒ぎするところだ。だがリュシアンも屋敷の使用人たちもどこか落ち着いていた。
まるで彼女など、最初から存在していなかったように。
「それがどうもずいぶんと前から父の目を盗んで、元婚約者との逢瀬に勤しんでいたようでな」
「まぁ……」
もともと父とはずいぶんと年が離れていた。同い年くらいの若くて健全な男性に惹かれるのは、それもかつての想い人ならば、仕方のないことに思えた。
「それで、お父様はどうなさったの?」
なんとなく、想像がつく話だ。
「その現場をある日偶然父上は目にしてしまった。今まで可愛がってきた女性に不貞を働かれ、その怒りと屈辱で心臓に多大なる負荷をかけてしまった。それが今年の冬頃の話だ」
「お父様が急に倒れた頃ね」
そしてダヴィドとマリアンヌが亡くなった頃でもある。
「まあ、それだけならまだよかったかもしれないが……なんとその男との間に子どもまで身ごもったらしい」
よくある話だが、身内の話、それも自分の父親の話だけにイレーナは眉を寄せた。父はおそらく、それが止めとなったのだろう。
「それが、天罰?」
「そう。因果応報。自分がしてきたこととまったく同じことを死ぬ間際にされたんだ」
イレーナはダヴィドがマリアンヌによって刺された時のことを思い出していた。あの時の姿、まるでイレーナの母が父を刺すようにも見えたのだ。現実では、愛する女性の裏切りを突き付けられた。
「じゃあ、彼女がもう屋敷にいないのは……」
「ああ。その婚約相手と駆け落ちしたからな」
「駆け落ち……」
ふっ、と兄は笑った。
「まぁ、父上以外はみな知っていたがな。無理矢理父上のお手つきにされた彼女を不憫に思って、わざと逃亡の手助けをしていた。当分の暮らしには困らない額の小切手も、餞別にくれてやったさ」
「そう……」
父は愛する人に裏切られ、見捨てられた。息子も使用人も彼女の裏切りを知っていて、その手助けをした。可哀想、と思わない自分は親不孝者だろう。だが今まで母にしてきたことを思えば、同情する気にはとてもなれなかった。
「父上が亡くなる時、息を引き取るまですごく苦しそうだった。いっそ早く死んだ方が楽になれるってくらい顔を歪めてさ……俺はその姿を見て、ああ、人間てのは最期にこうしてきちんと報いを受けるものなんだなって……なんか妙に納得したんだ」
そうかもしれない、とイレーナは思った。
ダヴィドもマリアンヌという愛する人がいながら、彼女を傷つけ、裏切ってしまった。絶望したマリアンヌがダヴィドを刃物で突き刺したのは、当然の結末だったのかもしれない。
「だからイレーナ。伯爵のことも、自分を責める必要はないからな」
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