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23. 結末
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気づいたらイレーナはマリアンヌの柔らかな皮膚に思いっきり爪を立てていた。予想外の痛みにマリアンヌの力が緩み、その隙を逃さなかったように後ろからぐいと誰かに引き剥がされた。
「イレーナ様! ご無事ですか!」
(シエル……)
息急き切って駆け込んできたシエルがマリアンヌの両脇に手を差し込み、イレーナから引き離したのだ。イレーナは咳き込みながら必死で酸素を吸った。頭がくらくらして、目がかすむようだった。
「いやあああ。その女を殺すの。そうすれば、そうすればダヴィド様はわたしのところへ戻ってくるわ!」
マリアンヌは甲高い叫び声を上げながらもがいたが、しょせんは女の力。あっけなくシエルに床に押さえつけられてしまった。それでもジタバタと手足を動かし、ここから出してと暴れ出す彼女をシエルは冷たく見下ろしていた。彼のそんな表情を見るのはイレーナにとって初めてであった。
「イレーナ!」
ダヴィドが部屋へと飛び込んできて、床へと押さえつけられているマリアンヌの姿に目を見開く。
「マリアンヌ!」
「ダヴィド様! 助けて!」
涙を流して許しを請うマリアンヌに、ダヴィドはすぐさま駆け寄った。
「シエル。今すぐ彼女からどくんだ」
「なりません。この女はイレーナ様に危害を加えようとしました」
「いいからどけっ」
ダヴィドがシエルを突き飛ばす。そのまま床に倒れ伏したマリアンヌを優しく抱き起こす。マリアンヌの目が爛々と輝き、ダヴィドの胸へと縋りついた。
その様子をイレーナはただぼんやりと眺めていた。夫であるダヴィドはこんな時でも愛人のマリアンヌを信じ、彼女を助けた。それならばどうして彼女を傷つける行動をしてきたのか――
「イレーナ様、お怪我はありませんか」
「シエル……」
いつの間にかシエルがイレーナのすぐ目の前にいた。空色の瞳は不安いっぱいに揺れていて、イレーナは見つめ返すことしかできない。
「どこか、痛いのですか?」
うまく、感情が露わにできない。今しがた殺されそうになって、半ば放心状態に陥っていた。それでもシエルの今にも泣きそうな顔に、自分の手を握りしめる手の温もりに、ああ、自分は生きているのだと、ようやくイレーナは実感することができた。と同時にぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「私は、大丈夫。あなたが助けてくれたから……」
「本当にご無事で、何よりです」
堪えきれないようにシエルがイレーナを抱き寄せた。震えている彼にイレーナは大丈夫だと伝えたくて、恐る恐る背中に手を回した。
そんな二人の様子を、マリアンヌを抱きしめたダヴィドがじっと見ていることには気づかなかった。
「奥様! ご無事ですか!?」
「旦那様! これは一体……」
続々と部屋に人が集まってくる。慌てふためいた声で自分に呼びかける声もあったが、イレーナの耳には聞こえなかった。ただマリアンヌとダヴィドのことだけが、気になった。
「……マリアンヌ、これは一体どういうことなんだ? なぜきみがイレーナの部屋にいるんだ?」
「ダヴィド様。わたし、そこの女に呼び出されたんです。ダヴィド様のことを愛しているから、ノエルと一緒にこの屋敷から出て行ってもらいたいと、そう、わたしを脅したんですの」
マリアンヌは目を潤ませ、ダヴィドの胸元に頬をすりつけた。
「わたしはただあなたのそばにいたいだけなのに。それすらも、イレーナ様はお許しにならないのです」
「マリアンヌ……」
ああ、マリアンヌは知らないのだ。ダヴィドがイレーナに告げた言葉を。残酷な選択を。この場にいる誰もが知っているのに、マリアンヌだけが知らないのだ。
「イレーナを、傷つけようとしたのか?」
予想とは違った言葉に、マリアンヌがばっと顔を上げた。
「違いますわ! わたしがあの女に傷つけられようとしたんです!」
「ではなぜきみはシエルに押さえつけられていた?」
「それは……」
はぁ、とダヴィドがため息をついて立ち上がった。それがまるでマリアンヌを切り捨てるように見えたのか、彼女ははっとしたように彼の足へと縋りついた。
「許してダヴィド様! わたしはあなたのためを思ってあの女を殺そうとしたんです! あなたがわたしを愛するために必要だったことなんです!」
「……必要だったから、自分の息子まで手にかけようとしたのか?」
ダヴィドの問いに、マリアンヌはきょとんとした顔で聞き返した。
「どうしてそんな顔をなさるの? あの子がいなくなっても、また産めばいいだけですわ」
部屋の中が凍りついたように静まり返る。
『せっかくあの子を産んだのに! 何の役にも立たなかった!』
マリアンヌにとって、ノエルすらダヴィドの愛を手に入れる道具だったのだ。その事実に、イレーナやシエル、その場にいた使用人たち、そしてダヴィドすらも、言葉を失った。
「――マリアンヌ。すまない。もう、きみとはやっていけない」
「なにを、おっしゃっているの?」
「ノエルも、きみには預けられない。私が責任を持って育てよう」
「待って、ダヴィド様。わたしを愛して」
手を伸ばすマリアンヌを振り払うかのように、ダヴィドは残酷に告げた。
「私はきみを愛していない」
ひゅっとマリアンヌが息を呑み、やがて力を失ったようにだらんと手首が下された。
「そう……もう、わたしを愛してはくれないのですね……」
マリアンヌの手が、おもむろにスカートの中へと伸ばされる。何だろう、と思っていると、きらりと光る刃物が服の下から出てきた。
「でしたらもう、生きる意味はありませんわ」
あ、とイレーナはマリアンヌが下からダヴィドの腹を刃物で突き刺す瞬間を、まるで一枚の絵のように見ていた。そしてそれは、イレーナの母が父を殺すようにも見えたのだった。
きゃあという悲鳴。旦那様! と駆け寄る使用人たち。イレーナが見たのはそこまでだった。シエルに頭を引き寄せられ、マリアンヌが己の喉をかっ切る最期は、目にすることはなかった。
「イレーナ様! ご無事ですか!」
(シエル……)
息急き切って駆け込んできたシエルがマリアンヌの両脇に手を差し込み、イレーナから引き離したのだ。イレーナは咳き込みながら必死で酸素を吸った。頭がくらくらして、目がかすむようだった。
「いやあああ。その女を殺すの。そうすれば、そうすればダヴィド様はわたしのところへ戻ってくるわ!」
マリアンヌは甲高い叫び声を上げながらもがいたが、しょせんは女の力。あっけなくシエルに床に押さえつけられてしまった。それでもジタバタと手足を動かし、ここから出してと暴れ出す彼女をシエルは冷たく見下ろしていた。彼のそんな表情を見るのはイレーナにとって初めてであった。
「イレーナ!」
ダヴィドが部屋へと飛び込んできて、床へと押さえつけられているマリアンヌの姿に目を見開く。
「マリアンヌ!」
「ダヴィド様! 助けて!」
涙を流して許しを請うマリアンヌに、ダヴィドはすぐさま駆け寄った。
「シエル。今すぐ彼女からどくんだ」
「なりません。この女はイレーナ様に危害を加えようとしました」
「いいからどけっ」
ダヴィドがシエルを突き飛ばす。そのまま床に倒れ伏したマリアンヌを優しく抱き起こす。マリアンヌの目が爛々と輝き、ダヴィドの胸へと縋りついた。
その様子をイレーナはただぼんやりと眺めていた。夫であるダヴィドはこんな時でも愛人のマリアンヌを信じ、彼女を助けた。それならばどうして彼女を傷つける行動をしてきたのか――
「イレーナ様、お怪我はありませんか」
「シエル……」
いつの間にかシエルがイレーナのすぐ目の前にいた。空色の瞳は不安いっぱいに揺れていて、イレーナは見つめ返すことしかできない。
「どこか、痛いのですか?」
うまく、感情が露わにできない。今しがた殺されそうになって、半ば放心状態に陥っていた。それでもシエルの今にも泣きそうな顔に、自分の手を握りしめる手の温もりに、ああ、自分は生きているのだと、ようやくイレーナは実感することができた。と同時にぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「私は、大丈夫。あなたが助けてくれたから……」
「本当にご無事で、何よりです」
堪えきれないようにシエルがイレーナを抱き寄せた。震えている彼にイレーナは大丈夫だと伝えたくて、恐る恐る背中に手を回した。
そんな二人の様子を、マリアンヌを抱きしめたダヴィドがじっと見ていることには気づかなかった。
「奥様! ご無事ですか!?」
「旦那様! これは一体……」
続々と部屋に人が集まってくる。慌てふためいた声で自分に呼びかける声もあったが、イレーナの耳には聞こえなかった。ただマリアンヌとダヴィドのことだけが、気になった。
「……マリアンヌ、これは一体どういうことなんだ? なぜきみがイレーナの部屋にいるんだ?」
「ダヴィド様。わたし、そこの女に呼び出されたんです。ダヴィド様のことを愛しているから、ノエルと一緒にこの屋敷から出て行ってもらいたいと、そう、わたしを脅したんですの」
マリアンヌは目を潤ませ、ダヴィドの胸元に頬をすりつけた。
「わたしはただあなたのそばにいたいだけなのに。それすらも、イレーナ様はお許しにならないのです」
「マリアンヌ……」
ああ、マリアンヌは知らないのだ。ダヴィドがイレーナに告げた言葉を。残酷な選択を。この場にいる誰もが知っているのに、マリアンヌだけが知らないのだ。
「イレーナを、傷つけようとしたのか?」
予想とは違った言葉に、マリアンヌがばっと顔を上げた。
「違いますわ! わたしがあの女に傷つけられようとしたんです!」
「ではなぜきみはシエルに押さえつけられていた?」
「それは……」
はぁ、とダヴィドがため息をついて立ち上がった。それがまるでマリアンヌを切り捨てるように見えたのか、彼女ははっとしたように彼の足へと縋りついた。
「許してダヴィド様! わたしはあなたのためを思ってあの女を殺そうとしたんです! あなたがわたしを愛するために必要だったことなんです!」
「……必要だったから、自分の息子まで手にかけようとしたのか?」
ダヴィドの問いに、マリアンヌはきょとんとした顔で聞き返した。
「どうしてそんな顔をなさるの? あの子がいなくなっても、また産めばいいだけですわ」
部屋の中が凍りついたように静まり返る。
『せっかくあの子を産んだのに! 何の役にも立たなかった!』
マリアンヌにとって、ノエルすらダヴィドの愛を手に入れる道具だったのだ。その事実に、イレーナやシエル、その場にいた使用人たち、そしてダヴィドすらも、言葉を失った。
「――マリアンヌ。すまない。もう、きみとはやっていけない」
「なにを、おっしゃっているの?」
「ノエルも、きみには預けられない。私が責任を持って育てよう」
「待って、ダヴィド様。わたしを愛して」
手を伸ばすマリアンヌを振り払うかのように、ダヴィドは残酷に告げた。
「私はきみを愛していない」
ひゅっとマリアンヌが息を呑み、やがて力を失ったようにだらんと手首が下された。
「そう……もう、わたしを愛してはくれないのですね……」
マリアンヌの手が、おもむろにスカートの中へと伸ばされる。何だろう、と思っていると、きらりと光る刃物が服の下から出てきた。
「でしたらもう、生きる意味はありませんわ」
あ、とイレーナはマリアンヌが下からダヴィドの腹を刃物で突き刺す瞬間を、まるで一枚の絵のように見ていた。そしてそれは、イレーナの母が父を殺すようにも見えたのだった。
きゃあという悲鳴。旦那様! と駆け寄る使用人たち。イレーナが見たのはそこまでだった。シエルに頭を引き寄せられ、マリアンヌが己の喉をかっ切る最期は、目にすることはなかった。
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