旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ

文字の大きさ
上 下
22 / 29

22. 子どもみたいな人

しおりを挟む
「マリアンヌ様……」

 イレーナがマリアンヌを初めて見た時、彼女は子どものようにあどけなく、可憐な人だった。金色の髪は艶があり、肌はしみ一つない白さで、唇はふっくらと赤く色づいていた。

 けれど今のマリアンヌの髪はぼさぼさで、肌も吹き出物ができて荒れており、唇はかさついているのか色がなく、眠れていないのか目の下にはくまができていた。

 あまりにも変わり果てたマリアンヌの姿に、イレーナは言葉を失う。

「ふふ。なにをそんなに驚いていらっしゃるの?」
「マリアンヌ様。どうしてここに……」
「ダヴィド様を、取り返しにきたの」

 彼はどこにいるの? とマリアンヌは覚束ない足取りで部屋の中を見渡した。その様子があまりにも危うくて、イレーナはがたりと椅子から立ち上がった。その物音にマリアンヌがこちらへと視線を向ける。

「なにを、怯えていらっしゃるの?」

 マリアンヌの笑みに、イレーナはぞくりとした。美しくて、けれどどこか狂っている、女の笑み。それをかつて自分は見たことがある。

「お母様……」

 そう、イレーナの母親とそっくりの笑みをマリアンヌは今浮かべていた。

 あの日、部屋の中は滅茶苦茶だった。叩きつけたように割れたティーカップ。絨毯にこぼれてしまった紅茶。クッションに突き刺さったフォーク。そして、母の泣き叫ぶ姿。

『裏切り者! ぜんぶあの女のせいよ!』

 あの日、イレーナは決して母の部屋へ行ってはいけないとメイドや婆や、そして兄にきつく言われていた。だがイレーナは約束を守らなかった。三人目の妹を産んで体調を崩した母に一目でもいいから会いたかった。会って何を言おうとしていたのか。イレーナは思い出せない。思い出してはいけなかった。

「まぁ、イレーナ様ったらおかしいわ。わたしのことをお母様だなんて」

 ふふ、と笑うマリアンヌの顔が幼い記憶を呼び起こす。

(やめて)

「ダヴィド様が来ないの。毎日、毎日、わたしのことを愛していると言ってくれていたのに。あなただけだと、愛してくれたのに」

 マリアンヌがゆっくりとこちらへ近づいてくる。

(来ないで)

 あの時と同じだ。イレーナの母も我が子の存在に気づくと、ゆっくりと近寄ってきた。とっておきのことを思いついたと微笑みながら。

「ねえ、ダヴィド様に抱いてもらったの? 愛してもらったの?」

 そんなことしていない。必死で首を振るイレーナの姿も、マリアンヌには目に入っていないようだった。虚ろな目は、どこか遠くの方を見ている。

 きっとそこにはダヴィドを奪った、悪女のような女の姿が映っている。

「子どもまでできたのに。本当に幸せだったのに。それともあの人は、わたしに子どもを産ませたかっただけ? 産んだら自分の子にしていいとおっしゃってくれたのに。あなたを妻にしてあげるとおっしゃったのに。あれはすべて嘘だったの? あなたにできたから、あの子はもういらないの?」

 そう言ってゆっくりと彼女はイレーナの腹部を指差した。まるでそこにダヴィドの子どもを宿しているかのように。もちろん彼の子どもなんていない。生まれてもいない。それは誰もが知っている。マリアンヌ以外。

「マリアンヌ様、あなたは勘違いなさっているわ。ダヴィド様は私を愛していない。私と彼との間に子どもなんていません」

 マリアンヌは少し首をかしげ、口角を上げた。

「ではこれから愛しあうのね」
「ちが――」
「いいえ、違わないわ。あの人はもうわたしを愛していない。あなたを見ている。わたしはこんなにもあの人を愛しているのに。ねえどうして? そんなの、許されないわ」

『今日もあの人は来なかった。どうして、どうして、どうして……!』

 聞きたくない声が聞こえた。誰かが泣いていた。白い手が、伸ばされる。

「やめて! 来ないで!」
「あなたがいなくなれば、ダヴィド様はきっとまた戻ってきてくださるわ。また、わたしを愛してくれるの」

 ひゅっ、とイレーナは息をのむ。飛びかかってきたマリアンヌに首を握りしめられ、息の根を止めようとするその光景。

『お前がいなくなれば、きっとあの人は戻ってきてくれるわ』

 それはイレーナの母が幼い自分を殺そうとした姿とまったく同じだった。

(ああ、お母様……)

 イレーナの目に涙が浮かぶ。母が怖かった。自分を殺そうとした母が信じられなかった。信じたくなかった。どうしてと言いたかった。どうして自分を見てくれないのか。子を殺してまで男に愛されたかったのか。

 幼いイレーナの疑問に母が答えることはなかった。使用人たちに羽交い締めにされ、そのままどこかへ連れて行かれた。そして自ら毒を煽って死んでしまった。だからイレーナの母の最期の姿は、己を殺そうとした姿だった。ちょうど今と同じように。

 呆然としたイレーナを、兄のリュシアンが抱きしめてくれた。ごめんな、と泣いて謝る兄に、イレーナは涙さえ出なかった。母に殺されそうになった。その事実はイレーナを子どものまま、置き去りにした。縛り付けたのだ。

(私はただ、愛されたかっただけなのに)

 生まれた赤ん坊がまた女の子でも、兄のリュシアンが跡継ぎだと言われても、自分が頑張るからどうか心配しないで、笑ってほしいと、ただそう伝えたかっただけなのに。

(今度こそ、私は死ぬんだわ。最愛の男に愛されなかった、お母様と同じ女に)

 そう思うとマリアンヌがまるで母の生まれ変わりのように思えた。いや、母の怨念かもしれない。

 自分の首を絞めようとするマリアンヌの手首には白い包帯が巻かれていた。彼女は死のうとした。それでも死ねなくて、生きている。生きている限り、苦しみが続く。苦しませている原因は、イレーナだ。

(私が死んだら、お母様の願いも叶えられるわ)

 イレーナはもういいやと思った。早くこの苦しみから解放されたい。誰かに恨まれてまで生きている意味なんて――

「イレーナ様!」

 凛とした声にイレーナの消えようとした意識が浮上する。遠くから聞こえる、切羽詰まったような男の声。

「せっかくあの子を産んだのに! 何の役にも立たなかった!」

 あなたは悪くないと、イレーナを許してくれた人。こんな自分を好きだと言ってくれた人の声。

「ち、がう……」

 ぎりぎりと渾身の力で首を絞めるマリアンヌの手首をイレーナは握った。彼女の目が見開く。

「子どもは……あなたたちの道具なんかじゃ、ないっ……!」

 まだ、自分は死にたくない。彼の笑った顔が見たい。彼の声でもう一度、自分の名を呼んで欲しい。

 生きたい、と強く思った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】婚約破棄され毒杯処分された悪役令嬢は影から王子の愛と後悔を見届ける

堀 和三盆
恋愛
「クアリフィカ・アートルム公爵令嬢! 貴様との婚約は破棄する」  王太子との結婚を半年後に控え、卒業パーティーで婚約を破棄されてしまったクアリフィカ。目の前でクアリフィカの婚約者に寄り添い、歪んだ嗤いを浮かべているのは異母妹のルシクラージュだ。  クアリフィカは既に王妃教育を終えているため、このタイミングでの婚約破棄は未来を奪われるも同然。こうなるとクアリフィカにとれる選択肢は多くない。  せめてこれまで努力してきた王妃教育の成果を見てもらいたくて。  キレイな姿を婚約者の記憶にとどめてほしくて。  クアリフィカは荒れ狂う感情をしっかりと覆い隠し、この場で最後の公務に臨む。  卒業パーティー会場に響き渡る悲鳴。  目にした惨状にバタバタと倒れるパーティー参加者達。  淑女の鑑とまで言われたクアリフィカの最期の姿は、良くも悪くも多くの者の記憶に刻まれることになる。  そうして――王太子とルシクラージュの、後悔と懺悔の日々が始まった。

妹がいなくなった

アズやっこ
恋愛
妹が突然家から居なくなった。 メイドが慌ててバタバタと騒いでいる。 お父様とお母様の泣き声が聞こえる。 「うるさくて寝ていられないわ」 妹は我が家の宝。 お父様とお母様は妹しか見えない。ドレスも宝石も妹にだけ買い与える。 妹を探しに出掛けたけど…。見つかるかしら?

婚約者から婚約破棄をされて喜んだのに、どうも様子がおかしい

恋愛
婚約者には初恋の人がいる。 王太子リエトの婚約者ベルティーナ=アンナローロ公爵令嬢は、呼び出された先で婚約破棄を告げられた。婚約者の隣には、家族や婚約者が常に可愛いと口にする従妹がいて。次の婚約者は従妹になると。 待ちに待った婚約破棄を喜んでいると思われる訳にもいかず、冷静に、でも笑顔は忘れずに二人の幸せを願ってあっさりと従者と部屋を出た。 婚約破棄をされた件で父に勘当されるか、何処かの貴族の後妻にされるか待っていても一向に婚約破棄の話をされない。また、婚約破棄をしたのに何故か王太子から呼び出しの声が掛かる。 従者を連れてさっさと家を出たいべルティーナと従者のせいで拗らせまくったリエトの話。 ※なろうさんにも公開しています。 ※短編→長編に変更しました(2023.7.19)

初夜に大暴言を吐かれた伯爵夫人は、微笑みと共に我が道を行く ―旦那様、今更擦り寄られても困ります―

望月 或
恋愛
「お前の噂を聞いたぞ。毎夜町に出て男を求め、毎回違う男と朝までふしだらな行為に明け暮れているそうだな? その上糸目を付けず服や装飾品を買い漁り、多大な借金を背負っているとか……。そんな醜悪な女が俺の妻だとは非常に不愉快極まりない! 今後俺に話し掛けるな! 俺に一切関与するな! 同じ空気を吸ってるだけでとんでもなく不快だ……!!」 【王命】で決められた婚姻をし、ハイド・ランジニカ伯爵とオリービア・フレイグラント子爵令嬢の初夜は、彼のその暴言で始まった。 そして、それに返したオリービアの一言は、 「あらあら、まぁ」 の六文字だった。  屋敷に住まわせている、ハイドの愛人と噂されるユーカリや、その取巻きの使用人達の嫌がらせも何のその、オリービアは微笑みを絶やさず自分の道を突き進んでいく。 ユーカリだけを信じ心酔していたハイドだったが、オリービアが屋敷に来てから徐々に変化が表れ始めて…… ※作者独自の世界観満載です。違和感を感じたら、「あぁ、こういう世界なんだな」と思って頂けたら有難いです……。

拝啓、婚約者様。ごきげんよう。そしてさようなら

みおな
恋愛
 子爵令嬢のクロエ・ルーベンスは今日も《おひとり様》で夜会に参加する。 公爵家を継ぐ予定の婚約者がいながら、だ。  クロエの婚約者、クライヴ・コンラッド公爵令息は、婚約が決まった時から一度も婚約者としての義務を果たしていない。  クライヴは、ずっと義妹のファンティーヌを優先するからだ。 「ファンティーヌが熱を出したから、出かけられない」 「ファンティーヌが行きたいと言っているから、エスコートは出来ない」 「ファンティーヌが」 「ファンティーヌが」  だからクロエは、学園卒業式のパーティーで顔を合わせたクライヴに、にっこりと微笑んで伝える。 「私のことはお気になさらず」

好きでした、さようなら

豆狸
恋愛
「……すまない」 初夜の床で、彼は言いました。 「君ではない。私が欲しかった辺境伯令嬢のアンリエット殿は君ではなかったんだ」 悲しげに俯く姿を見て、私の心は二度目の死を迎えたのです。 なろう様でも公開中です。

【完結】好きでもない私とは婚約解消してください

里音
恋愛
騎士団にいる彼はとても一途で誠実な人物だ。初恋で恋人だった幼なじみが家のために他家へ嫁いで行ってもまだ彼女を思い新たな恋人を作ることをしないと有名だ。私も憧れていた1人だった。 そんな彼との婚約が成立した。それは彼の行動で私が傷を負ったからだ。傷は残らないのに責任感からの婚約ではあるが、彼はプロポーズをしてくれた。その瞬間憧れが好きになっていた。 婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。

私はあなたの正妻にはなりません。どうぞ愛する人とお幸せに。

火野村志紀
恋愛
王家の血を引くラクール公爵家。両家の取り決めにより、男爵令嬢のアリシアは、ラクール公爵子息のダミアンと婚約した。 しかし、この国では一夫多妻制が認められている。ある伯爵令嬢に一目惚れしたダミアンは、彼女とも結婚すると言い出した。公爵の忠告に聞く耳を持たず、ダミアンは伯爵令嬢を正妻として迎える。そしてアリシアは、側室という扱いを受けることになった。 数年後、公爵が病で亡くなり、生前書き残していた遺言書が開封された。そこに書かれていたのは、ダミアンにとって信じられない内容だった。

処理中です...