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18. 届かぬ願い
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「だから何だ。マリアンヌを追い出して、イレーナを大切にしろと言うのか?」
本当は、とダヴィドの口は止まらなかった。
「お前の方こそ、イレーナを我が物にしたいんじゃないのか? 私が相手をしろと命じたのをお前は断りもしなかった。身体を奪おうとした自分の方が、心を奪われてしまった。イレーナに同情にして、私が彼女の夫であることを憎んだ。だから私にマリアンヌを押しつけ、イレーナと離縁させ、そうして、お前が彼女を慰めるのだ。そういう企みだろう!」
自分の腹の中に溜まっていた不満を全て吐きだし、ダヴィドは肩で息をした。目を見開くシエルの表情に、言ってやったという満足感。けれど呼吸が整い、頭が冷えれば、後は惨めさだけが残った。こんなのはただの八つ当たりだ。
「……なんとか言ったらどうなんだ」
「あなたの言う通り、私はイレーナ様を愛しています。あなたが彼女と離縁するならば、私が彼女を幸せにしたい」
静かに、だが熱のこもった口調でシエルはそう言った。
「はっ、認めるのか」
「ですが、ダヴィド様がイレーナ様を選ぶというのならば、私はそれに従います」
「どういうことだ」
この問いを今日何度彼にしたことだろう。シエルは一体自分に何が言いたいのだ。
「あなたはどちらか一人を選ぶべきなのです。そして選ばなかった方とは、きっぱり別れを告げるべきだ」
「……だが、どちらを選んでも、二人を傷つける」
ダヴィド様、とシエルが諭すように続けた。
「たしかにどちらにも癒えぬ傷を与えるでしょう。ですがそれも込めて、あなたは選ばなければならない。そうして選ばれなかった者の恨みや憎しみも、選ばれた方に残った苦しみや悲しみも、すべて受け止めるべきなのです」
私は、とシエルの形のよい眉が苦しそうに歪んだ。
「お二人を見ていてとても辛いのです。子どもを産んだマリアンヌ様はいつあなたの心がイレーナ様に奪われてしまうのではないかと常に不安がっている。そしてイレーナ様も……」
イレーナのことを語る時、シエルはことさら悲しそうな表情をした。彼がそんな顔をするのはイレーナに想いを寄せているからだとダヴィドは落ち着いたはずの心がまた波立つのを感じた。
「イレーナは強い女だ。なにせ私にマリアンヌの子どもを養子にしろと言ったくらいだからな。私のことなど、彼女は愛していない」
自分を拒絶する姿を思い出し、ダヴィドは眉をしかめた。そして同時に傷つく自分もいた。どれほど心を砕いたところで、彼女は決して自分を受け入れてはくれない。ならばマリアンヌという愛人の一人を残したところで、何も問題ない気がした。
しかしシエルの目は厳しかった。
「今は毅然とした態度を貫けるでしょう。ですが時が経てば、ノエル様が大きくなれば、変わらずにいられるでしょうか」
「……」
わからない。イレーナは変わるだろうか。ダヴィドには、いつまでも彼女は変わらない気がした。
「変わらないように見えても、傷つかないとは限りません」
ダヴィドの考えを否定するようにシエルが付け加える。彼は自分の代わりにずっとイレーナのそばにいた。自分の知らないイレーナの一面を知っている。だからこそ、そんなことが言えるのだ。
「たとえイレーナ様がお強くても、マリアンヌ様の方はどうでしょうか。変わらぬと言えるでしょうか。あなたの愛を欲しようとすれば、あの方はイレーナ様に危害を加えようとなさるかもしれない」
「マリアンヌがそんな恐ろしい真似をするとでも言うのか」
彼女のことを何も知らないくせに。
「事実彼女はイレーナ様のお屋敷の方へ出向いたこともあります。一度あったことは、必ず二度、三度繰り返されるでしょう」
「そんなの、わからない」
「ダヴィド様。どうかこれ以上お二人を苦しませないでください」
そこまで言うとシエルは立ち上がり、ダヴィドに向かって深々と頭を下げた。
「お願いします。どうか、どうかイレーナ様を大事になさってください」
惚れた女の夫。そして苦しめた相手。憎い相手だろうに、シエルはいとも簡単に首を垂れている。ダヴィドはふと、自分だったら彼と同じことができるだろうかと思った。
マリアンヌは自分のためにすべてを捨てて一緒にいる道を選んでくれた。
けれどダヴィドは貴族という身分を捨てることはできなかった。築き上げてきた地位を失い、平民として生きていく自信もなかったし、何よりそんなところまで堕ちる自分を受け入れることができなかった。
つまり愛する女のために、プライドまで捨てることができなかったのだ。
「……お前は、イレーナを愛していないのか」
ぴくりとシエルの身体が震えた。彼は顔を上げ、正面からダヴィドを見据えた。
「愛しています」
「では私の手から奪い去ってやろうとは思わないのか」
「それは私の願望です。彼女の幸せだとは限りません」
そうだろうか。イレーナも望んでいるのではないか。
「私はイレーナ様に幸せになってほしいのです。辛い過去を背負っている彼女に、そんなことはもう必要ないと、楽になってほしいのです」
シエルの顔は必死だった。切実に自分に訴えかけていた。愛するということは、ダヴィドにとって身も心も手に入れて自分のものにすることだと思っていた。だが目の前の青年を見ていると、違うような気がしてきた。彼はただ相手の幸せだけを考えている。それが自分の幸せだというように。
だからこそイレーナも……。
「話はそれだけか」
「ダヴィド様!」
話は聞き飽きたと言わんばかりにダヴィドは立ち上がった。
「どこへ行くというのですか」
「イレーナのもとへ」
マリアンヌと同じことを尋ねる男に、当てつけのようにして言ってやる。案の定、シエルの顔は悲痛に歪んだ。それを見てやっとダヴィドの心は自信を取り戻した。
そうだ。何を落ち込む必要がある。どうして自分が苦しまなければならない。マリアンヌもイレーナも、自分のものだ。どちらを愛そうと、彼女たちは受け入れなければならない。涙を流して拒絶したイレーナも、今度こそすべて奪ってしまおう。
そう思った、罰だろうか。
「――大変です! マリアンヌ様が!」
部屋を出て行こうとしたダヴィドに、真っ青になった使用人が飛び込んできた。
本当は、とダヴィドの口は止まらなかった。
「お前の方こそ、イレーナを我が物にしたいんじゃないのか? 私が相手をしろと命じたのをお前は断りもしなかった。身体を奪おうとした自分の方が、心を奪われてしまった。イレーナに同情にして、私が彼女の夫であることを憎んだ。だから私にマリアンヌを押しつけ、イレーナと離縁させ、そうして、お前が彼女を慰めるのだ。そういう企みだろう!」
自分の腹の中に溜まっていた不満を全て吐きだし、ダヴィドは肩で息をした。目を見開くシエルの表情に、言ってやったという満足感。けれど呼吸が整い、頭が冷えれば、後は惨めさだけが残った。こんなのはただの八つ当たりだ。
「……なんとか言ったらどうなんだ」
「あなたの言う通り、私はイレーナ様を愛しています。あなたが彼女と離縁するならば、私が彼女を幸せにしたい」
静かに、だが熱のこもった口調でシエルはそう言った。
「はっ、認めるのか」
「ですが、ダヴィド様がイレーナ様を選ぶというのならば、私はそれに従います」
「どういうことだ」
この問いを今日何度彼にしたことだろう。シエルは一体自分に何が言いたいのだ。
「あなたはどちらか一人を選ぶべきなのです。そして選ばなかった方とは、きっぱり別れを告げるべきだ」
「……だが、どちらを選んでも、二人を傷つける」
ダヴィド様、とシエルが諭すように続けた。
「たしかにどちらにも癒えぬ傷を与えるでしょう。ですがそれも込めて、あなたは選ばなければならない。そうして選ばれなかった者の恨みや憎しみも、選ばれた方に残った苦しみや悲しみも、すべて受け止めるべきなのです」
私は、とシエルの形のよい眉が苦しそうに歪んだ。
「お二人を見ていてとても辛いのです。子どもを産んだマリアンヌ様はいつあなたの心がイレーナ様に奪われてしまうのではないかと常に不安がっている。そしてイレーナ様も……」
イレーナのことを語る時、シエルはことさら悲しそうな表情をした。彼がそんな顔をするのはイレーナに想いを寄せているからだとダヴィドは落ち着いたはずの心がまた波立つのを感じた。
「イレーナは強い女だ。なにせ私にマリアンヌの子どもを養子にしろと言ったくらいだからな。私のことなど、彼女は愛していない」
自分を拒絶する姿を思い出し、ダヴィドは眉をしかめた。そして同時に傷つく自分もいた。どれほど心を砕いたところで、彼女は決して自分を受け入れてはくれない。ならばマリアンヌという愛人の一人を残したところで、何も問題ない気がした。
しかしシエルの目は厳しかった。
「今は毅然とした態度を貫けるでしょう。ですが時が経てば、ノエル様が大きくなれば、変わらずにいられるでしょうか」
「……」
わからない。イレーナは変わるだろうか。ダヴィドには、いつまでも彼女は変わらない気がした。
「変わらないように見えても、傷つかないとは限りません」
ダヴィドの考えを否定するようにシエルが付け加える。彼は自分の代わりにずっとイレーナのそばにいた。自分の知らないイレーナの一面を知っている。だからこそ、そんなことが言えるのだ。
「たとえイレーナ様がお強くても、マリアンヌ様の方はどうでしょうか。変わらぬと言えるでしょうか。あなたの愛を欲しようとすれば、あの方はイレーナ様に危害を加えようとなさるかもしれない」
「マリアンヌがそんな恐ろしい真似をするとでも言うのか」
彼女のことを何も知らないくせに。
「事実彼女はイレーナ様のお屋敷の方へ出向いたこともあります。一度あったことは、必ず二度、三度繰り返されるでしょう」
「そんなの、わからない」
「ダヴィド様。どうかこれ以上お二人を苦しませないでください」
そこまで言うとシエルは立ち上がり、ダヴィドに向かって深々と頭を下げた。
「お願いします。どうか、どうかイレーナ様を大事になさってください」
惚れた女の夫。そして苦しめた相手。憎い相手だろうに、シエルはいとも簡単に首を垂れている。ダヴィドはふと、自分だったら彼と同じことができるだろうかと思った。
マリアンヌは自分のためにすべてを捨てて一緒にいる道を選んでくれた。
けれどダヴィドは貴族という身分を捨てることはできなかった。築き上げてきた地位を失い、平民として生きていく自信もなかったし、何よりそんなところまで堕ちる自分を受け入れることができなかった。
つまり愛する女のために、プライドまで捨てることができなかったのだ。
「……お前は、イレーナを愛していないのか」
ぴくりとシエルの身体が震えた。彼は顔を上げ、正面からダヴィドを見据えた。
「愛しています」
「では私の手から奪い去ってやろうとは思わないのか」
「それは私の願望です。彼女の幸せだとは限りません」
そうだろうか。イレーナも望んでいるのではないか。
「私はイレーナ様に幸せになってほしいのです。辛い過去を背負っている彼女に、そんなことはもう必要ないと、楽になってほしいのです」
シエルの顔は必死だった。切実に自分に訴えかけていた。愛するということは、ダヴィドにとって身も心も手に入れて自分のものにすることだと思っていた。だが目の前の青年を見ていると、違うような気がしてきた。彼はただ相手の幸せだけを考えている。それが自分の幸せだというように。
だからこそイレーナも……。
「話はそれだけか」
「ダヴィド様!」
話は聞き飽きたと言わんばかりにダヴィドは立ち上がった。
「どこへ行くというのですか」
「イレーナのもとへ」
マリアンヌと同じことを尋ねる男に、当てつけのようにして言ってやる。案の定、シエルの顔は悲痛に歪んだ。それを見てやっとダヴィドの心は自信を取り戻した。
そうだ。何を落ち込む必要がある。どうして自分が苦しまなければならない。マリアンヌもイレーナも、自分のものだ。どちらを愛そうと、彼女たちは受け入れなければならない。涙を流して拒絶したイレーナも、今度こそすべて奪ってしまおう。
そう思った、罰だろうか。
「――大変です! マリアンヌ様が!」
部屋を出て行こうとしたダヴィドに、真っ青になった使用人が飛び込んできた。
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