旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ

文字の大きさ
上 下
18 / 29

18. 届かぬ願い

しおりを挟む
「だから何だ。マリアンヌを追い出して、イレーナを大切にしろと言うのか?」

 本当は、とダヴィドの口は止まらなかった。

「お前の方こそ、イレーナを我が物にしたいんじゃないのか? 私が相手をしろと命じたのをお前は断りもしなかった。身体を奪おうとした自分の方が、心を奪われてしまった。イレーナに同情にして、私が彼女の夫であることを憎んだ。だから私にマリアンヌを押しつけ、イレーナと離縁させ、そうして、お前が彼女を慰めるのだ。そういう企みだろう!」

 自分の腹の中に溜まっていた不満を全て吐きだし、ダヴィドは肩で息をした。目を見開くシエルの表情に、言ってやったという満足感。けれど呼吸が整い、頭が冷えれば、後は惨めさだけが残った。こんなのはただの八つ当たりだ。

「……なんとか言ったらどうなんだ」
「あなたの言う通り、私はイレーナ様を愛しています。あなたが彼女と離縁するならば、私が彼女を幸せにしたい」

 静かに、だが熱のこもった口調でシエルはそう言った。

「はっ、認めるのか」
「ですが、ダヴィド様がイレーナ様を選ぶというのならば、私はそれに従います」
「どういうことだ」

 この問いを今日何度彼にしたことだろう。シエルは一体自分に何が言いたいのだ。

「あなたはどちらか一人を選ぶべきなのです。そして選ばなかった方とは、きっぱり別れを告げるべきだ」
「……だが、どちらを選んでも、二人を傷つける」

 ダヴィド様、とシエルが諭すように続けた。

「たしかにどちらにも癒えぬ傷を与えるでしょう。ですがそれも込めて、あなたは選ばなければならない。そうして選ばれなかった者の恨みや憎しみも、選ばれた方に残った苦しみや悲しみも、すべて受け止めるべきなのです」

 私は、とシエルの形のよい眉が苦しそうに歪んだ。

「お二人を見ていてとても辛いのです。子どもを産んだマリアンヌ様はいつあなたの心がイレーナ様に奪われてしまうのではないかと常に不安がっている。そしてイレーナ様も……」

 イレーナのことを語る時、シエルはことさら悲しそうな表情をした。彼がそんな顔をするのはイレーナに想いを寄せているからだとダヴィドは落ち着いたはずの心がまた波立つのを感じた。

「イレーナは強い女だ。なにせ私にマリアンヌの子どもを養子にしろと言ったくらいだからな。私のことなど、彼女は愛していない」

 自分を拒絶する姿を思い出し、ダヴィドは眉をしかめた。そして同時に傷つく自分もいた。どれほど心を砕いたところで、彼女は決して自分を受け入れてはくれない。ならばマリアンヌという愛人の一人を残したところで、何も問題ない気がした。

 しかしシエルの目は厳しかった。

「今は毅然とした態度を貫けるでしょう。ですが時が経てば、ノエル様が大きくなれば、変わらずにいられるでしょうか」
「……」

 わからない。イレーナは変わるだろうか。ダヴィドには、いつまでも彼女は変わらない気がした。

「変わらないように見えても、傷つかないとは限りません」

 ダヴィドの考えを否定するようにシエルが付け加える。彼は自分の代わりにずっとイレーナのそばにいた。自分の知らないイレーナの一面を知っている。だからこそ、そんなことが言えるのだ。

「たとえイレーナ様がお強くても、マリアンヌ様の方はどうでしょうか。変わらぬと言えるでしょうか。あなたの愛を欲しようとすれば、あの方はイレーナ様に危害を加えようとなさるかもしれない」
「マリアンヌがそんな恐ろしい真似をするとでも言うのか」

 彼女のことを何も知らないくせに。

「事実彼女はイレーナ様のお屋敷の方へ出向いたこともあります。一度あったことは、必ず二度、三度繰り返されるでしょう」
「そんなの、わからない」
「ダヴィド様。どうかこれ以上お二人を苦しませないでください」

 そこまで言うとシエルは立ち上がり、ダヴィドに向かって深々と頭を下げた。

「お願いします。どうか、どうかイレーナ様を大事になさってください」

 惚れた女の夫。そして苦しめた相手。憎い相手だろうに、シエルはいとも簡単に首を垂れている。ダヴィドはふと、自分だったら彼と同じことができるだろうかと思った。

 マリアンヌは自分のためにすべてを捨てて一緒にいる道を選んでくれた。

 けれどダヴィドは貴族という身分を捨てることはできなかった。築き上げてきた地位を失い、平民として生きていく自信もなかったし、何よりそんなところまで堕ちる自分を受け入れることができなかった。

 つまり愛する女マリアンヌのために、プライドまで捨てることができなかったのだ。

「……お前は、イレーナを愛していないのか」

 ぴくりとシエルの身体が震えた。彼は顔を上げ、正面からダヴィドを見据えた。

「愛しています」
「では私の手から奪い去ってやろうとは思わないのか」
「それは私の願望です。彼女の幸せだとは限りません」

 そうだろうか。イレーナも望んでいるのではないか。

「私はイレーナ様に幸せになってほしいのです。辛い過去を背負っている彼女に、そんなことはもう必要ないと、楽になってほしいのです」

 シエルの顔は必死だった。切実に自分に訴えかけていた。愛するということは、ダヴィドにとって身も心も手に入れて自分のものにすることだと思っていた。だが目の前の青年を見ていると、違うような気がしてきた。彼はただ相手の幸せだけを考えている。それが自分の幸せだというように。

 だからこそイレーナも……。

「話はそれだけか」
「ダヴィド様!」

 話は聞き飽きたと言わんばかりにダヴィドは立ち上がった。

「どこへ行くというのですか」
「イレーナのもとへ」

 マリアンヌと同じことを尋ねる男に、当てつけのようにして言ってやる。案の定、シエルの顔は悲痛に歪んだ。それを見てやっとダヴィドの心は自信を取り戻した。

 そうだ。何を落ち込む必要がある。どうして自分が苦しまなければならない。マリアンヌもイレーナも、自分のものだ。どちらを愛そうと、彼女たちは受け入れなければならない。涙を流して拒絶したイレーナも、今度こそすべて奪ってしまおう。

 そう思った、罰だろうか。

「――大変です! マリアンヌ様が!」

 部屋を出て行こうとしたダヴィドに、真っ青になった使用人が飛び込んできた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妹がいなくなった

アズやっこ
恋愛
妹が突然家から居なくなった。 メイドが慌ててバタバタと騒いでいる。 お父様とお母様の泣き声が聞こえる。 「うるさくて寝ていられないわ」 妹は我が家の宝。 お父様とお母様は妹しか見えない。ドレスも宝石も妹にだけ買い与える。 妹を探しに出掛けたけど…。見つかるかしら?

【完結】婚約破棄され毒杯処分された悪役令嬢は影から王子の愛と後悔を見届ける

堀 和三盆
恋愛
「クアリフィカ・アートルム公爵令嬢! 貴様との婚約は破棄する」  王太子との結婚を半年後に控え、卒業パーティーで婚約を破棄されてしまったクアリフィカ。目の前でクアリフィカの婚約者に寄り添い、歪んだ嗤いを浮かべているのは異母妹のルシクラージュだ。  クアリフィカは既に王妃教育を終えているため、このタイミングでの婚約破棄は未来を奪われるも同然。こうなるとクアリフィカにとれる選択肢は多くない。  せめてこれまで努力してきた王妃教育の成果を見てもらいたくて。  キレイな姿を婚約者の記憶にとどめてほしくて。  クアリフィカは荒れ狂う感情をしっかりと覆い隠し、この場で最後の公務に臨む。  卒業パーティー会場に響き渡る悲鳴。  目にした惨状にバタバタと倒れるパーティー参加者達。  淑女の鑑とまで言われたクアリフィカの最期の姿は、良くも悪くも多くの者の記憶に刻まれることになる。  そうして――王太子とルシクラージュの、後悔と懺悔の日々が始まった。

いいえ、望んでいません

わらびもち
恋愛
「お前を愛することはない!」 結婚初日、お決まりの台詞を吐かれ、別邸へと押し込まれた新妻ジュリエッタ。 だが彼女はそんな扱いに傷つくこともない。 なぜなら彼女は―――

好きでした、さようなら

豆狸
恋愛
「……すまない」 初夜の床で、彼は言いました。 「君ではない。私が欲しかった辺境伯令嬢のアンリエット殿は君ではなかったんだ」 悲しげに俯く姿を見て、私の心は二度目の死を迎えたのです。 なろう様でも公開中です。

【完結】彼の瞳に映るのは  

たろ
恋愛
 今夜も彼はわたしをエスコートして夜会へと参加する。  優しく見つめる彼の瞳にはわたしが映っているのに、何故かわたしの心は何も感じない。  そしてファーストダンスを踊ると彼はそっとわたしのそばからいなくなる。  わたしはまた一人で佇む。彼は守るべき存在の元へと行ってしまう。 ★ 短編から長編へ変更しました。

初夜に大暴言を吐かれた伯爵夫人は、微笑みと共に我が道を行く ―旦那様、今更擦り寄られても困ります―

望月 或
恋愛
「お前の噂を聞いたぞ。毎夜町に出て男を求め、毎回違う男と朝までふしだらな行為に明け暮れているそうだな? その上糸目を付けず服や装飾品を買い漁り、多大な借金を背負っているとか……。そんな醜悪な女が俺の妻だとは非常に不愉快極まりない! 今後俺に話し掛けるな! 俺に一切関与するな! 同じ空気を吸ってるだけでとんでもなく不快だ……!!」 【王命】で決められた婚姻をし、ハイド・ランジニカ伯爵とオリービア・フレイグラント子爵令嬢の初夜は、彼のその暴言で始まった。 そして、それに返したオリービアの一言は、 「あらあら、まぁ」 の六文字だった。  屋敷に住まわせている、ハイドの愛人と噂されるユーカリや、その取巻きの使用人達の嫌がらせも何のその、オリービアは微笑みを絶やさず自分の道を突き進んでいく。 ユーカリだけを信じ心酔していたハイドだったが、オリービアが屋敷に来てから徐々に変化が表れ始めて…… ※作者独自の世界観満載です。違和感を感じたら、「あぁ、こういう世界なんだな」と思って頂けたら有難いです……。

私はあなたの正妻にはなりません。どうぞ愛する人とお幸せに。

火野村志紀
恋愛
王家の血を引くラクール公爵家。両家の取り決めにより、男爵令嬢のアリシアは、ラクール公爵子息のダミアンと婚約した。 しかし、この国では一夫多妻制が認められている。ある伯爵令嬢に一目惚れしたダミアンは、彼女とも結婚すると言い出した。公爵の忠告に聞く耳を持たず、ダミアンは伯爵令嬢を正妻として迎える。そしてアリシアは、側室という扱いを受けることになった。 数年後、公爵が病で亡くなり、生前書き残していた遺言書が開封された。そこに書かれていたのは、ダミアンにとって信じられない内容だった。

永遠の誓いを立てましょう、あなたへの想いを思い出すことは決してないと……

矢野りと
恋愛
ある日突然、私はすべてを失った。 『もう君はいりません、アリスミ・カロック』 恋人は表情を変えることなく、別れの言葉を告げてきた。彼の隣にいた私の親友は、申し訳なさそうな顔を作ることすらせず笑っていた。 恋人も親友も一度に失った私に待っていたのは、さらなる残酷な仕打ちだった。 『八等級魔術師アリスミ・カロック。異動を命じる』 『えっ……』 任期途中での異動辞令は前例がない。最上位の魔術師である元恋人が裏で動いた結果なのは容易に察せられた。 私にそれを拒絶する力は勿論なく、一生懸命に築いてきた居場所さえも呆気なく奪われた。 それから二年が経った頃、立ち直った私の前に再び彼が現れる。 ――二度と交わらないはずだった運命の歯車が、また動き出した……。 ※このお話の設定は架空のものです。 ※お話があわない時はブラウザバックでお願いします(_ _)

処理中です...