旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ

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16. 過ち

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「ダヴィド様。どこに行ってましたの」

 離れに戻ると、マリアンヌがきつい口調でダヴィドに詰問した。彼は内心うんざりしながら、部屋の隅で赤ん坊をあやしている乳母へと歩み寄った。

 赤ん坊はふっくらとした頬をしていた。髪の毛はまだうっすらとしか生えていないが金色で、母のマリアンヌの血が流れていることを証明していた。透き通るような緑の瞳も、彼女のものだった。彼女が命がけで産んだ息子のノエルを、じっとダヴィドは見つめた。

(他の男の子どもだと言えば、追い出せるだろうか)

 だがマリアンヌが他の男のもとへ行く隙などなかった。自分が彼女をひと時も離したくないと独占していたからだ。だから生まれた子どもは間違いなく自分の子どもである。そのことはダヴィドが一番よく理解していた。

 それでも彼女を追い出すことができたら、他に子どもが必要となったら――

「聞いていますの?」
「ああ。聞いているよ」

 マリアンヌの声に、ダヴィドは己の恐ろしい考えを振り払った。

「少し仕事で外に出ていたんだ」
「……嘘ですわ」

 決めつけたような言い方は気分を悪くした。たとえ彼女の指摘が正しくても。

「あの女のもとへ行っていたんでしょう?」
「……」

 やっぱり! とマリアンヌは甲高い声をあげた。

「毎日、毎日、わたしが話しかけようとするたびにあなたはあの女のもとへ行く! ねえどうして!? わたしのことが好きなんでしょう!? 愛しているのでしょう!?」

 母親の金切り声にそれまで大人しかったノエルがけたたましい泣き声を上げた。おろおろと乳母があやすも赤ん坊の泣き声は止まらない。鬱陶しそうに視線をやると、乳母が怯えたようにノエルを抱えて部屋を出て行った。

 額に手をやりながら、ダヴィドは追い縋るマリアンヌを振り返った。宥めるように彼女の華奢な肩へ手を置く。

「落ち着け、マリアンヌ」
「ならもうあの女のもとへ行かないと約束してっ……」

 あの女、あの女と繰り返す彼女に、こちらの言葉などちっとも聞こうとしない女の態度にダヴィドの心は苛立った。

「イレーナは私の妻だ。顔を合わせないというのは無理だ」

 ひゅっとマリアンヌは大きな目をさらに見開き、信じられない表情で己を見上げた。だがすぐさま眉尻を吊り上げる。

「どうしてそんなことを言うの。どうしてわたしの言うことを聞いてくれないの? あなたはわたしを愛しているのでしょう? どうして今さらあの女のことを大事にしようとなさるの? あの女はただの飾りでしょう? 子も産めなかった役立たずでしょう?」

 産めなかった、という言葉に思わず眉を寄せる。

「産めなかったのではない。産もうとしていないだけだ」
「だから産ませようとしているの!? わたしとノエルはどうなるの!?」
「だから……」

 これでは堂々巡りだとダヴィドはため息をつき、背を向けた。

「どこへ行くの!」
「書斎で仕事をする。邪魔しないでくれ」
「まだお話はっ……」

 バタンと扉を閉めた。どんどんと扉を叩く音がして、すすり泣くような声から大声で泣く声へと変わる。物に当たっているのか、何かが壊れる音も一緒に激しく響き渡る。

 この一連の流れが、いつからか毎日の繰り返しとなっていた。ダヴィドはそれらから逃れるように部屋を遠ざかっていく。

(どうしてこんなことになったんだ)

 マリアンヌが懐妊したと知った時はとても嬉しかった。舞踏会に出席した際、人気のないバルコニーで男性に襲われそうになった彼女を助け、お互い恋に落ちた。彼女は若く、子どものような幼さがあるものの、それもまた愛おしかった。感情を抑えるのが貴族だと躾けられているなか、ころころと変わるマリアンヌの表情は見ていて飽きなかった。

 両親や友人たちにどんなに反対されても、彼はマリアンヌと結婚したかった。使用人たちが彼女をダヴィドの伴侶だと認めず、冷たくあたっても、ダヴィドだけは彼女の味方であった。

『わたし、ダヴィド様とただ一緒にいられるだけで幸せよ』

 結婚するなら縁を切る。爵位も領地も、お前には何一つ渡さない。両親に脅すように言われた言葉に頭を悩ますダヴィドを、マリアンヌはそう言って支えてくれた。愛人のような立場に身を置くことを許してくれた。そんな健気な彼女が、ことさら愛おしく思えた。

 マリアンヌに申し訳ないと思いつつ、ダヴィドは形だけの結婚をすることにした。どうせならたっぷりと持参金をもぎとってやればいい。向こうも金目当ての相手がいい。情の欠片もわかぬような、冷たい女を。

 そうして選ばれたのがイレーナだった。アメジストのような紫の瞳が印象的で、人形のような女。どんなに非道に扱おうが、傷つきもしない女。この女ならば、愛することはないだろうとダヴィドは彼女を妻にした。

 イレーナをお飾りの妻に据えて、ダヴィドはマリアンヌと思う存分愛し合った。周囲が諫めれば諫めるほど、彼女への愛で溺れてゆく。イレーナは何も言わなかった。勝手にしてくれという態度に安堵しつつ、冷たい女だと蔑んだ。マリアンヌと大違いである。

 いつか子どもができて、家族が増えたら、子ができないことを理由にイレーナと離縁しよう。そしてマリアンヌと本当の夫婦になろう。自分には彼女しかいない。マリアンヌとの愛は永遠に続く。

 そんなことを、疑いもなく信じていた。

 だが、マリアンヌが子どもを身ごもってから二人の関係は変わった。吐き気や眩暈。今までのように体調が万全でなくなったのか、マリアンヌは常に不安がった。そしてダヴィドに甘え、今まで以上に束縛するようになった。そして、要求した。

 どこにも行かないで。そばにいて。抱きしめて。口づけして。わたしを愛して。

 最初は可愛い我儘だと思った。だがしだいに膨らんでいく腹に、やつれていく表情に、ダヴィドの中で女としてのマリアンヌが受け入れ難くなっていった。加えて四六時中そばにいろという無茶な要求も、そんなことできるわけないだろと怒鳴り返したくなった。

 愛する人の顔を見るのが億劫になった。そんな自分の変化に耐え切れず、ダヴィドはある日ふと屋敷の外へと目を向けた。

 鬱蒼と茂る木々に、ずっと手入れを怠っていたせいで枯れ果てた庭。そこに、小さな人の姿が目に入った。妻のイレーナだ。彼女は暇さえあれば、庭の池など眺めているらしい。

(いい気なもんだ)

 愛人に向けることのできない苛立ちが、自然と己の妻へと矛先を変える。

(そうだ。久しぶりに会いに行ってやろうか)

 イレーナは自分の妻だ。妻として扱ってやらねばならぬ。そうだ。そうしてやろう。

 あの冷たい表情がどう変わるのか見てやろう。泣いて許しを請うだろうか。あるいは快楽で泣き叫ぶだろうか。ダヴィドは実に楽しみであった。

 しかし――

「――私はあなたのことがもっときちんと知りたいのです」

 真っすぐ己を見つめる瞳に、なぜか目が離せなかった。今まで自分が作り上げてきた彼女はすべて偽物で、本当の彼女はまったくの別人であった。彼女が話すと、彼女が笑みを浮かべると、ダヴィドの思う通りに事は進まず、むしろ彼女に翻弄されていくこととなった。

「イレーナ……」

 何がきっかけだったのか。あの、思わず微笑んでしまった時の表情か。わからないが、ダヴィドはしだいにイレーナに惹かれていった。

 当たり前であるが、イレーナはマリアンヌと違って媚びなかった。形ばかりの微笑は浮かべているが、彼女自身の感情を露わにすることはない。そして何より、彼女はマリアンヌのことを気にしていた。最初は嫌味だと思っていた。拒むのもすべて、今まで妻を大切にしてこなかった自分への当てつけだと。

 けれどイレーナは心の底から、マリアンヌとその子どものことを心配していた。

 冷たいと思っていた女の優しさ。大人びた容貌に反する、どこか素直で子どもらしい無垢さ。間近で見ると宝石のような輝きを放つ、紫の瞳。薄い唇の溶けるような柔らかさ。知ろうとしていなかった彼女の魅力に、ダヴィドは抗えなかった。

 子を産んだマリアンヌがますますヒステリックに自分を求めれば求めるほど、ダヴィドはイレーナのことを思い浮かべるようになった。彼女のことが欲しかった。身体を繋げ、心まで自分のものにしてしまいたかった。

「――ダヴィド様」
「……シエルか」

 だがそれはできない。そうしたのは自分でもあるし、目の前の、美しい青年のせいでもあった。
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