旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ

文字の大きさ
上 下
15 / 29

15. 勇気

しおりを挟む
「――奥様。奥様」

 イレーナははっと目を覚ました。心配した表情のメイドが顔を覗き込んでおり、イレーナは身体を起こす。どうやらあのまま泣き疲れて長椅子で眠ってしまっていたようだ。おかげで身体中あちこち痛い。そしてひどく頭が重かった。

「大丈夫ですか」

 医者を呼びましょうか、と尋ねる彼女にイレーナは首を振った。今は誰にも会いたくなかった。身体を触られるようなことも。

「ですが……」

 メイドの目線が、乱れたイレーナの服装へと落ちる。彼女はここにダヴィドが訪れたことを知っている。無理矢理身体を暴かれたとでも思っているのかもしれない。イレーナは苦笑いした。

「大丈夫。私の身体は清いままよ」

 そう伝えると、露骨にメイドは安堵の表情を浮かべた。妻であるのに夫に抱かれていない。その事実に胸をなで下ろす彼女の姿はひどくおかしなものに思えた。

「……服を着替えるわ。それと湯浴みも」
「かしこまりました。すぐに準備いたします」

 すぐさまその支度をしようとしたメイドは部屋を出る寸前、あっ、と思い出したようにイレーナのもとへ引き返してきた。ポケットから白い封筒を取り出し、内緒話するようにイレーナの耳元に口を寄せた。

「シエル様からです」

 イレーナが驚いてメイドを凝視する。彼女は一礼した後、今度こそ部屋を後にした。呆気にとられていたイレーナは白い封筒へ目を戻す。恐る恐る、封を開け、一枚の白い紙を読み始めた。

 文章はごく簡単なものであった。ひどく不安だろうにイレーナのそばにいられず申し訳ないこと。体調を気遣うむね。離れていても、いつでもあなたの幸せを願っているという文字の並び。

 愛しているとか、好きだとか、そういう言葉は一言も書かれていなかった。だがそれが何よりもシエルらしく、イレーナは自身の傷ついた心が癒されていくのを感じた。止まっていたはずの涙が自然とあふれ出す。今度は苦しみや哀しみからではなく、嬉しさと愛おしさのために。

(シエル、ありがとう。ありがとう……)

 きっとダヴィドに来てはいけないと監視されていたはずだ。それでも何とかイレーナに一人ではないことを伝えたくて、メイドに手紙を託したのだ。

(大丈夫、シエル。私は負けないわ)

 涙を拭い、イレーナは立ち上がった。

     ◇

 伯爵は以前のやり取りが気まずかったのか、次の日は訪れなかった。だがその次の日にはさっそく現れた。イレーナは毅然とした態度で彼を出迎えた。今度は事前にお願いして、執事やメイドにも部屋に居てもらうことにした。伯爵は何か言いたげな視線を彼らに向けたが、今回は仕方がないかと諦めたようにイレーナに向き直った。

「イレーナ。前回はすまなかった」
「ええ。もうあんな無意味なことはおやめください」

 イレーナの切り捨てるような口調に、伯爵は眉を上げる。

「ダヴィド様。私、あれからずっと考えていたんです」

 何を言い出すのかと、彼の目が鋭くなる。それに応えるよう、イレーナは微笑んだ。

「妻としてあなたの愛に応えるべきかどうか、ということです」
「当然、応えるべきだ」
「そうですね。最初からお互いしかいなければ、私も覚悟を決めてあなたを受け入れたでしょう」
「どういう意味だ」
「貴族にはたしかに愛人がいることはおかしくありません。ですがそれは嫡子を産んで、最低限の役目を果たした後のことです。それまで彼らは一応、夫婦としてお互いを求める関係にあります」

 ですが、とイレーナは伯爵の目をまっすぐに見つめ返した。

「あなたには最初からマリアンヌ様がいらっしゃいました。私のことも、ただ形だけの妻として娶った」
「今は違う」

 イレーナはそこで、目を伏せた。

「ええ。わかっています。あなたが私に歩み寄ろうとしてくれたこと。でも、私にはあなたを受け入れることはできません」

 きっぱりとした拒絶の言葉に、ダヴィドの目が見開かれる。イレーナとて、本当はこんなこと言いたくなかった。問い詰めるような形で夫を責めることは、イレーナの心もまた深く傷つけていった。

 しかしこうでもしないと、ダヴィドは自分に執着し続けるだろう。そしてそれに流され続ければ、自分は彼を受け入れざるを得なくなり、身も心も傷つくことになる。

(きっと、お母様のように)

「あなたはマリアンヌ様を愛している。そして子どもまで、できた。その事実を知ってなお、私はあなたを愛さなくてはならないのですか?」
「それは……」

 イレーナが真っすぐに正面から尋ねれば、その視線から逃げるようにダヴィドの目が泳いだ。

「マリアンヌのことは……後悔している。きちんと別れを告げて、貴女だけを愛せばよかったと、そう思っている。今は、貴女のことだけを愛している」
「それはダヴィド様の都合ですわ」

 ばっさりとイレーナはダヴィドの言い訳を切り捨てた。

「反省したから。今は私を愛しているから。……そんな勝手な言い分で、私はあなたを許さなくてはいけないのですか。あなたを愛さなくてはいけないのですか。あなたに抱かれなければならないのですか」
「イレーナ!」

 使用人に聞かれていることを恥じるようにダヴィドがイレーナを咎めた。だが今さらではないか、とイレーナは笑う。彼はマリアンヌのような存在を許し、それでいてイレーナを妻として迎えたのだから。

「ダヴィド様。私はあなたに愛人がいてもまったく気にしません」

 何か言い返そうとするダヴィドにイレーナは心からの微笑を贈った。

「あなたはマリアンヌ様を愛している。マリアンヌ様もまた、あなたのことを深く愛している。私が担うことのできない部分で、あなたを支えている。それもまた一つの愛の形でしょう。それをわざわざ私が横取りする必要はありません」
「そんなの私は認めない!」

 だんっ、とダヴィドが激昂したようにテーブルを叩いた。一緒の部屋にいたメイドがびくりと身体を震わせたが、イレーナの心はひどく落ち着いていた。

「夫婦には、それぞれいろんな形があると思いますの。私とあなたは身体の関係はなくとも、お互い思いやって生活していくことができる。それで、十分ではありませんか」

 伯爵の顔が耐えられないというように歪み、やがて呻くように切り札を出した。

「……ノエルのことはどうする。私はあの子に跡を継がせるつもりはないと言ったはずだ」
「あなたはそのつもりでしょうが、私はノエル様を養子として引き取るつもりです」
「っ……」
 
 たしかにノエルにはイレーナの血は流れていない。だがダヴィドの血は間違いなく受け継いでいる。それで彼の後継者には十分相応しい。イレーナさえ、目を瞑ればいいだけの話だ。

「大丈夫ですわ。私たち夫婦に子どもができなければ、仕方がないことです。周囲もみな、納得してくれます」
「マリアンヌが許すものか!」
「説得してみせますわ」
「イレーナ、私は……!」

 ダヴィドが荒々しく席を立った瞬間、扉が開かれて使用人が入ってきた。

「旦那様。マリアンヌ様がお呼びです」
「後にしろ!」
「今すぐに来てほしいとのことです」
「くっ……」

 忌々しい表情で歯を食いしばるダヴィドにイレーナは悠然と微笑んだ。

「どうぞ。私のことなど気にせず、マリアンヌ様のもとへお帰りください」

 ぶるぶると震えたまま、伯爵はイレーナを睨みつけていたが、やがてさっと背を向けた。また来る、という捨て台詞を今度は残さずに。

「……ふぅ」

 イレーナは夫がたしかに部屋から出て行ったのをこの目で確認すると、深いため息をついた。テーブルの下できつく握りしめた両手は、安堵のためか小刻みに震えていた。

(怖かった……)

 けれど自分の思っていることをすべて伝えることができた。

(まだ、これからだろうけど……)

 それでも大丈夫だと、イレーナは顔を上げた。
 自分は決して一人ではない。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】婚約破棄され毒杯処分された悪役令嬢は影から王子の愛と後悔を見届ける

堀 和三盆
恋愛
「クアリフィカ・アートルム公爵令嬢! 貴様との婚約は破棄する」  王太子との結婚を半年後に控え、卒業パーティーで婚約を破棄されてしまったクアリフィカ。目の前でクアリフィカの婚約者に寄り添い、歪んだ嗤いを浮かべているのは異母妹のルシクラージュだ。  クアリフィカは既に王妃教育を終えているため、このタイミングでの婚約破棄は未来を奪われるも同然。こうなるとクアリフィカにとれる選択肢は多くない。  せめてこれまで努力してきた王妃教育の成果を見てもらいたくて。  キレイな姿を婚約者の記憶にとどめてほしくて。  クアリフィカは荒れ狂う感情をしっかりと覆い隠し、この場で最後の公務に臨む。  卒業パーティー会場に響き渡る悲鳴。  目にした惨状にバタバタと倒れるパーティー参加者達。  淑女の鑑とまで言われたクアリフィカの最期の姿は、良くも悪くも多くの者の記憶に刻まれることになる。  そうして――王太子とルシクラージュの、後悔と懺悔の日々が始まった。

【完結】好きでもない私とは婚約解消してください

里音
恋愛
騎士団にいる彼はとても一途で誠実な人物だ。初恋で恋人だった幼なじみが家のために他家へ嫁いで行ってもまだ彼女を思い新たな恋人を作ることをしないと有名だ。私も憧れていた1人だった。 そんな彼との婚約が成立した。それは彼の行動で私が傷を負ったからだ。傷は残らないのに責任感からの婚約ではあるが、彼はプロポーズをしてくれた。その瞬間憧れが好きになっていた。 婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。

今日結婚した夫から2年経ったら出ていけと言われました

四折 柊
恋愛
 子爵令嬢であるコーデリアは高位貴族である公爵家から是非にと望まれ結婚した。美しくもなく身分の低い自分が何故? 理由は分からないが自分にひどい扱いをする実家を出て幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱く。ところがそこには思惑があり……。公爵は本当に愛する女性を妻にするためにコーデリアを利用したのだ。夫となった男は言った。「お前と本当の夫婦になるつもりはない。2年後には公爵邸から国外へ出ていってもらう。そして二度と戻ってくるな」と。(いいんですか? それは私にとって……ご褒美です!)

【完結】私が貴方の元を去ったわけ

なか
恋愛
「貴方を……愛しておりました」  国の英雄であるレイクス。  彼の妻––リディアは、そんな言葉を残して去っていく。  離婚届けと、別れを告げる書置きを残された中。  妻であった彼女が突然去っていった理由を……   レイクスは、大きな後悔と、恥ずべき自らの行為を知っていく事となる。      ◇◇◇  プロローグ、エピローグを入れて全13話  完結まで執筆済みです。    久しぶりのショートショート。  懺悔をテーマに書いた作品です。  もしよろしければ、読んでくださると嬉しいです!

【完結】もう誰にも恋なんてしないと誓った

Mimi
恋愛
 声を出すこともなく、ふたりを見つめていた。  わたしにとって、恋人と親友だったふたりだ。    今日まで身近だったふたりは。  今日から一番遠いふたりになった。    *****  伯爵家の後継者シンシアは、友人アイリスから交際相手としてお薦めだと、幼馴染みの侯爵令息キャメロンを紹介された。  徐々に親しくなっていくシンシアとキャメロンに婚約の話がまとまり掛ける。  シンシアの誕生日の婚約披露パーティーが近付いた夏休み前のある日、シンシアは急ぐキャメロンを見掛けて彼の後を追い、そして見てしまった。  お互いにただの幼馴染みだと口にしていた恋人と親友の口づけを……  * 無自覚の上から目線  * 幼馴染みという特別感  * 失くしてからの後悔   幼馴染みカップルの当て馬にされてしまった伯爵令嬢、してしまった親友視点のお話です。 中盤は略奪した親友側の視点が続きますが、当て馬令嬢がヒロインです。 本編完結後に、力量不足故の幕間を書き加えており、最終話と重複しています。 ご了承下さいませ。 他サイトにも公開中です

〖完結〗旦那様が愛していたのは、私ではありませんでした……

藍川みいな
恋愛
「アナベル、俺と結婚して欲しい。」 大好きだったエルビン様に結婚を申し込まれ、私達は結婚しました。優しくて大好きなエルビン様と、幸せな日々を過ごしていたのですが…… ある日、お姉様とエルビン様が密会しているのを見てしまいました。 「アナベルと結婚したら、こうして君に会うことが出来ると思ったんだ。俺達は家族だから、怪しまれる心配なくこの邸に出入り出来るだろ?」 エルビン様はお姉様にそう言った後、愛してると囁いた。私は1度も、エルビン様に愛してると言われたことがありませんでした。 エルビン様は私ではなくお姉様を愛していたと知っても、私はエルビン様のことを愛していたのですが、ある事件がきっかけで、私の心はエルビン様から離れていく。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 かなり気分が悪い展開のお話が2話あるのですが、読まなくても本編の内容に影響ありません。(36話37話) 全44話で完結になります。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

妹がいなくなった

アズやっこ
恋愛
妹が突然家から居なくなった。 メイドが慌ててバタバタと騒いでいる。 お父様とお母様の泣き声が聞こえる。 「うるさくて寝ていられないわ」 妹は我が家の宝。 お父様とお母様は妹しか見えない。ドレスも宝石も妹にだけ買い与える。 妹を探しに出掛けたけど…。見つかるかしら?

処理中です...