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15. 勇気
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「――奥様。奥様」
イレーナははっと目を覚ました。心配した表情のメイドが顔を覗き込んでおり、イレーナは身体を起こす。どうやらあのまま泣き疲れて長椅子で眠ってしまっていたようだ。おかげで身体中あちこち痛い。そしてひどく頭が重かった。
「大丈夫ですか」
医者を呼びましょうか、と尋ねる彼女にイレーナは首を振った。今は誰にも会いたくなかった。身体を触られるようなことも。
「ですが……」
メイドの目線が、乱れたイレーナの服装へと落ちる。彼女はここにダヴィドが訪れたことを知っている。無理矢理身体を暴かれたとでも思っているのかもしれない。イレーナは苦笑いした。
「大丈夫。私の身体は清いままよ」
そう伝えると、露骨にメイドは安堵の表情を浮かべた。妻であるのに夫に抱かれていない。その事実に胸をなで下ろす彼女の姿はひどくおかしなものに思えた。
「……服を着替えるわ。それと湯浴みも」
「かしこまりました。すぐに準備いたします」
すぐさまその支度をしようとしたメイドは部屋を出る寸前、あっ、と思い出したようにイレーナのもとへ引き返してきた。ポケットから白い封筒を取り出し、内緒話するようにイレーナの耳元に口を寄せた。
「シエル様からです」
イレーナが驚いてメイドを凝視する。彼女は一礼した後、今度こそ部屋を後にした。呆気にとられていたイレーナは白い封筒へ目を戻す。恐る恐る、封を開け、一枚の白い紙を読み始めた。
文章はごく簡単なものであった。ひどく不安だろうにイレーナのそばにいられず申し訳ないこと。体調を気遣うむね。離れていても、いつでもあなたの幸せを願っているという文字の並び。
愛しているとか、好きだとか、そういう言葉は一言も書かれていなかった。だがそれが何よりもシエルらしく、イレーナは自身の傷ついた心が癒されていくのを感じた。止まっていたはずの涙が自然とあふれ出す。今度は苦しみや哀しみからではなく、嬉しさと愛おしさのために。
(シエル、ありがとう。ありがとう……)
きっとダヴィドに来てはいけないと監視されていたはずだ。それでも何とかイレーナに一人ではないことを伝えたくて、メイドに手紙を託したのだ。
(大丈夫、シエル。私は負けないわ)
涙を拭い、イレーナは立ち上がった。
◇
伯爵は以前のやり取りが気まずかったのか、次の日は訪れなかった。だがその次の日にはさっそく現れた。イレーナは毅然とした態度で彼を出迎えた。今度は事前にお願いして、執事やメイドにも部屋に居てもらうことにした。伯爵は何か言いたげな視線を彼らに向けたが、今回は仕方がないかと諦めたようにイレーナに向き直った。
「イレーナ。前回はすまなかった」
「ええ。もうあんな無意味なことはおやめください」
イレーナの切り捨てるような口調に、伯爵は眉を上げる。
「ダヴィド様。私、あれからずっと考えていたんです」
何を言い出すのかと、彼の目が鋭くなる。それに応えるよう、イレーナは微笑んだ。
「妻としてあなたの愛に応えるべきかどうか、ということです」
「当然、応えるべきだ」
「そうですね。最初からお互いしかいなければ、私も覚悟を決めてあなたを受け入れたでしょう」
「どういう意味だ」
「貴族にはたしかに愛人がいることはおかしくありません。ですがそれは嫡子を産んで、最低限の役目を果たした後のことです。それまで彼らは一応、夫婦としてお互いを求める関係にあります」
ですが、とイレーナは伯爵の目をまっすぐに見つめ返した。
「あなたには最初からマリアンヌ様がいらっしゃいました。私のことも、ただ形だけの妻として娶った」
「今は違う」
イレーナはそこで、目を伏せた。
「ええ。わかっています。あなたが私に歩み寄ろうとしてくれたこと。でも、私にはあなたを受け入れることはできません」
きっぱりとした拒絶の言葉に、ダヴィドの目が見開かれる。イレーナとて、本当はこんなこと言いたくなかった。問い詰めるような形で夫を責めることは、イレーナの心もまた深く傷つけていった。
しかしこうでもしないと、ダヴィドは自分に執着し続けるだろう。そしてそれに流され続ければ、自分は彼を受け入れざるを得なくなり、身も心も傷つくことになる。
(きっと、お母様のように)
「あなたはマリアンヌ様を愛している。そして子どもまで、できた。その事実を知ってなお、私はあなたを愛さなくてはならないのですか?」
「それは……」
イレーナが真っすぐに正面から尋ねれば、その視線から逃げるようにダヴィドの目が泳いだ。
「マリアンヌのことは……後悔している。きちんと別れを告げて、貴女だけを愛せばよかったと、そう思っている。今は、貴女のことだけを愛している」
「それはダヴィド様の都合ですわ」
ばっさりとイレーナはダヴィドの言い訳を切り捨てた。
「反省したから。今は私を愛しているから。……そんな勝手な言い分で、私はあなたを許さなくてはいけないのですか。あなたを愛さなくてはいけないのですか。あなたに抱かれなければならないのですか」
「イレーナ!」
使用人に聞かれていることを恥じるようにダヴィドがイレーナを咎めた。だが今さらではないか、とイレーナは笑う。彼はマリアンヌのような存在を許し、それでいてイレーナを妻として迎えたのだから。
「ダヴィド様。私はあなたに愛人がいてもまったく気にしません」
何か言い返そうとするダヴィドにイレーナは心からの微笑を贈った。
「あなたはマリアンヌ様を愛している。マリアンヌ様もまた、あなたのことを深く愛している。私が担うことのできない部分で、あなたを支えている。それもまた一つの愛の形でしょう。それをわざわざ私が横取りする必要はありません」
「そんなの私は認めない!」
だんっ、とダヴィドが激昂したようにテーブルを叩いた。一緒の部屋にいたメイドがびくりと身体を震わせたが、イレーナの心はひどく落ち着いていた。
「夫婦には、それぞれいろんな形があると思いますの。私とあなたは身体の関係はなくとも、お互い思いやって生活していくことができる。それで、十分ではありませんか」
伯爵の顔が耐えられないというように歪み、やがて呻くように切り札を出した。
「……ノエルのことはどうする。私はあの子に跡を継がせるつもりはないと言ったはずだ」
「あなたはそのつもりでしょうが、私はノエル様を養子として引き取るつもりです」
「っ……」
たしかにノエルにはイレーナの血は流れていない。だがダヴィドの血は間違いなく受け継いでいる。それで彼の後継者には十分相応しい。イレーナさえ、目を瞑ればいいだけの話だ。
「大丈夫ですわ。私たち夫婦に子どもができなければ、仕方がないことです。周囲もみな、納得してくれます」
「マリアンヌが許すものか!」
「説得してみせますわ」
「イレーナ、私は……!」
ダヴィドが荒々しく席を立った瞬間、扉が開かれて使用人が入ってきた。
「旦那様。マリアンヌ様がお呼びです」
「後にしろ!」
「今すぐに来てほしいとのことです」
「くっ……」
忌々しい表情で歯を食いしばるダヴィドにイレーナは悠然と微笑んだ。
「どうぞ。私のことなど気にせず、マリアンヌ様のもとへお帰りください」
ぶるぶると震えたまま、伯爵はイレーナを睨みつけていたが、やがてさっと背を向けた。また来る、という捨て台詞を今度は残さずに。
「……ふぅ」
イレーナは夫がたしかに部屋から出て行ったのをこの目で確認すると、深いため息をついた。テーブルの下できつく握りしめた両手は、安堵のためか小刻みに震えていた。
(怖かった……)
けれど自分の思っていることをすべて伝えることができた。
(まだ、これからだろうけど……)
それでも大丈夫だと、イレーナは顔を上げた。
自分は決して一人ではない。
イレーナははっと目を覚ました。心配した表情のメイドが顔を覗き込んでおり、イレーナは身体を起こす。どうやらあのまま泣き疲れて長椅子で眠ってしまっていたようだ。おかげで身体中あちこち痛い。そしてひどく頭が重かった。
「大丈夫ですか」
医者を呼びましょうか、と尋ねる彼女にイレーナは首を振った。今は誰にも会いたくなかった。身体を触られるようなことも。
「ですが……」
メイドの目線が、乱れたイレーナの服装へと落ちる。彼女はここにダヴィドが訪れたことを知っている。無理矢理身体を暴かれたとでも思っているのかもしれない。イレーナは苦笑いした。
「大丈夫。私の身体は清いままよ」
そう伝えると、露骨にメイドは安堵の表情を浮かべた。妻であるのに夫に抱かれていない。その事実に胸をなで下ろす彼女の姿はひどくおかしなものに思えた。
「……服を着替えるわ。それと湯浴みも」
「かしこまりました。すぐに準備いたします」
すぐさまその支度をしようとしたメイドは部屋を出る寸前、あっ、と思い出したようにイレーナのもとへ引き返してきた。ポケットから白い封筒を取り出し、内緒話するようにイレーナの耳元に口を寄せた。
「シエル様からです」
イレーナが驚いてメイドを凝視する。彼女は一礼した後、今度こそ部屋を後にした。呆気にとられていたイレーナは白い封筒へ目を戻す。恐る恐る、封を開け、一枚の白い紙を読み始めた。
文章はごく簡単なものであった。ひどく不安だろうにイレーナのそばにいられず申し訳ないこと。体調を気遣うむね。離れていても、いつでもあなたの幸せを願っているという文字の並び。
愛しているとか、好きだとか、そういう言葉は一言も書かれていなかった。だがそれが何よりもシエルらしく、イレーナは自身の傷ついた心が癒されていくのを感じた。止まっていたはずの涙が自然とあふれ出す。今度は苦しみや哀しみからではなく、嬉しさと愛おしさのために。
(シエル、ありがとう。ありがとう……)
きっとダヴィドに来てはいけないと監視されていたはずだ。それでも何とかイレーナに一人ではないことを伝えたくて、メイドに手紙を託したのだ。
(大丈夫、シエル。私は負けないわ)
涙を拭い、イレーナは立ち上がった。
◇
伯爵は以前のやり取りが気まずかったのか、次の日は訪れなかった。だがその次の日にはさっそく現れた。イレーナは毅然とした態度で彼を出迎えた。今度は事前にお願いして、執事やメイドにも部屋に居てもらうことにした。伯爵は何か言いたげな視線を彼らに向けたが、今回は仕方がないかと諦めたようにイレーナに向き直った。
「イレーナ。前回はすまなかった」
「ええ。もうあんな無意味なことはおやめください」
イレーナの切り捨てるような口調に、伯爵は眉を上げる。
「ダヴィド様。私、あれからずっと考えていたんです」
何を言い出すのかと、彼の目が鋭くなる。それに応えるよう、イレーナは微笑んだ。
「妻としてあなたの愛に応えるべきかどうか、ということです」
「当然、応えるべきだ」
「そうですね。最初からお互いしかいなければ、私も覚悟を決めてあなたを受け入れたでしょう」
「どういう意味だ」
「貴族にはたしかに愛人がいることはおかしくありません。ですがそれは嫡子を産んで、最低限の役目を果たした後のことです。それまで彼らは一応、夫婦としてお互いを求める関係にあります」
ですが、とイレーナは伯爵の目をまっすぐに見つめ返した。
「あなたには最初からマリアンヌ様がいらっしゃいました。私のことも、ただ形だけの妻として娶った」
「今は違う」
イレーナはそこで、目を伏せた。
「ええ。わかっています。あなたが私に歩み寄ろうとしてくれたこと。でも、私にはあなたを受け入れることはできません」
きっぱりとした拒絶の言葉に、ダヴィドの目が見開かれる。イレーナとて、本当はこんなこと言いたくなかった。問い詰めるような形で夫を責めることは、イレーナの心もまた深く傷つけていった。
しかしこうでもしないと、ダヴィドは自分に執着し続けるだろう。そしてそれに流され続ければ、自分は彼を受け入れざるを得なくなり、身も心も傷つくことになる。
(きっと、お母様のように)
「あなたはマリアンヌ様を愛している。そして子どもまで、できた。その事実を知ってなお、私はあなたを愛さなくてはならないのですか?」
「それは……」
イレーナが真っすぐに正面から尋ねれば、その視線から逃げるようにダヴィドの目が泳いだ。
「マリアンヌのことは……後悔している。きちんと別れを告げて、貴女だけを愛せばよかったと、そう思っている。今は、貴女のことだけを愛している」
「それはダヴィド様の都合ですわ」
ばっさりとイレーナはダヴィドの言い訳を切り捨てた。
「反省したから。今は私を愛しているから。……そんな勝手な言い分で、私はあなたを許さなくてはいけないのですか。あなたを愛さなくてはいけないのですか。あなたに抱かれなければならないのですか」
「イレーナ!」
使用人に聞かれていることを恥じるようにダヴィドがイレーナを咎めた。だが今さらではないか、とイレーナは笑う。彼はマリアンヌのような存在を許し、それでいてイレーナを妻として迎えたのだから。
「ダヴィド様。私はあなたに愛人がいてもまったく気にしません」
何か言い返そうとするダヴィドにイレーナは心からの微笑を贈った。
「あなたはマリアンヌ様を愛している。マリアンヌ様もまた、あなたのことを深く愛している。私が担うことのできない部分で、あなたを支えている。それもまた一つの愛の形でしょう。それをわざわざ私が横取りする必要はありません」
「そんなの私は認めない!」
だんっ、とダヴィドが激昂したようにテーブルを叩いた。一緒の部屋にいたメイドがびくりと身体を震わせたが、イレーナの心はひどく落ち着いていた。
「夫婦には、それぞれいろんな形があると思いますの。私とあなたは身体の関係はなくとも、お互い思いやって生活していくことができる。それで、十分ではありませんか」
伯爵の顔が耐えられないというように歪み、やがて呻くように切り札を出した。
「……ノエルのことはどうする。私はあの子に跡を継がせるつもりはないと言ったはずだ」
「あなたはそのつもりでしょうが、私はノエル様を養子として引き取るつもりです」
「っ……」
たしかにノエルにはイレーナの血は流れていない。だがダヴィドの血は間違いなく受け継いでいる。それで彼の後継者には十分相応しい。イレーナさえ、目を瞑ればいいだけの話だ。
「大丈夫ですわ。私たち夫婦に子どもができなければ、仕方がないことです。周囲もみな、納得してくれます」
「マリアンヌが許すものか!」
「説得してみせますわ」
「イレーナ、私は……!」
ダヴィドが荒々しく席を立った瞬間、扉が開かれて使用人が入ってきた。
「旦那様。マリアンヌ様がお呼びです」
「後にしろ!」
「今すぐに来てほしいとのことです」
「くっ……」
忌々しい表情で歯を食いしばるダヴィドにイレーナは悠然と微笑んだ。
「どうぞ。私のことなど気にせず、マリアンヌ様のもとへお帰りください」
ぶるぶると震えたまま、伯爵はイレーナを睨みつけていたが、やがてさっと背を向けた。また来る、という捨て台詞を今度は残さずに。
「……ふぅ」
イレーナは夫がたしかに部屋から出て行ったのをこの目で確認すると、深いため息をついた。テーブルの下できつく握りしめた両手は、安堵のためか小刻みに震えていた。
(怖かった……)
けれど自分の思っていることをすべて伝えることができた。
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