上 下
12 / 29

12. 許し

しおりを挟む
 シエルの指摘は正しかった。母はリュシアンも恨んでいたが、同じくらい娘であるイレーナも憎まずにはいられなかった。跡取りであるリュシアンを傷つけられない鬱憤を、何をしてもいいイレーナにぶつけたのだ。

 痛々しい傷痕をつけられたことはない。ぶたれたり、蹴られたこともない。ただ誰もいないところで、腕や太股をつねられた。それは服に隠れてしまう所で、知っているのは母の息がかかった乳母と侍女だけ。

 兄の世話を任されていた婆やだけが、心配して何かされているのではないかとイレーナにたずねたことがあった。それでもイレーナは何でもないと首を振った。何かを聞かれても、自分でやったと告白しなければ母の機嫌を損ねる。

 ――お母様は悪くない。

「ちがう。だってあれは……わたしのせいだもの……」

 喘ぐように答えるイレーナに、シエルは違うと言った。

「あなたが何をしたというのです。何も、していないでしょう」
「ちがう……わたしが、男の子だったら、そうしたら、お母様は許してくれた……わたしがあの時……」

 くしゃりと顔を歪め、イレーナは助けを求めるようにシエルを見た。

「シエル。わたしはどうすればよかったの? お母様は、ずっと私のせいだとおっしゃるの。お兄様が屋敷に来たのも、お母様に女の子ばかり産まれるのも、お父様がお母様を愛してくれなかったことも」

 己の過去を吐きだすたび、イレーナは自身が幼少の頃に戻る気がした。お母様は何をすれば喜んでくれたのだろう。勉強を頑張っても、女の子だからと言って見向きもしてくれなかった。成長して女らしくなるたび、母を失望させた。ぜんぶ無意味なものとして受けとめられた。

 イレーナには何もできなかった。母に認められない鬱屈とした気持ちは幼かった彼女を傷つけ、いっそ何もやらない方がましだと無気力にさせた。人に興味を持つことも、好きになることも、愛することも、彼女には持つことのできない感情であった。身体が成長しても、精神は母に認められない幼い子どものままで止まっていたからだ。

「わたしは生まれない方がよかったの?」
「イレーナ様……」

 生まれない方がよかった。イレーナは自分の言葉にそうだと思った。ずっと彼女が抱えてきた思いだった。自分の存在が母を傷つけていた事実に耐え切れなかった。

 ――ごめんなさい。ごめんなさい。お母様。

 いくら謝っても、許してもらえない。母はもうこの世にはいないのだから。

「そんなことありません」

 イレーナの冷え切った身体がふわりと温もりに包まれた。シエルに抱きしめられたのだ。イレーナは彼を突き飛ばすべきだった。こんなところを誰かに見られたら――だが彼女はシエルの言葉に胸を衝かれ、動けなかった。そんなことない、と彼は言ってくれた。

「私はイレーナ様に会えて、幸せです」

 シエルの囁くような声がイレーナの鼓膜を震わせる。

「幸せ? 私のような人間と会えて?」
「はい」
「うそよ」

 信じられなかった。自分は何の面白味もない人間だ。好きになる要素など何一つない気がした。

「いいえ。嘘ではありません」

 抱擁を解き、シエルはイレーナに微笑んだ。

「私はあなたが好きです」

 好き。愛しているということだ。

 忘れられない人がいる。ずっとそばにいたいと、シエルはイレーナに言ってくれた。自分に向けられた想いだった。気づいていた。けれど、イレーナがその気持ちに応えることはできなかった。彼もそのことを理解していた。わかった上で、イレーナのそばにいたいと申し出たのだ。

 シエルの目は、ダヴィドがイレーナに向けるものと同じであった。けれどそれよりもずっと、慈しむような目を彼はしていた。まるでイレーナの弱さや醜さも含めて愛しているというように。

「初めてあなたにお会いした時、あなたはとても美しかった。けれど同時に、どこか感情が乏しい、冷たい人だとも思った」

 ダヴィドと同じことをシエルは言った。

「それでも、そんなあなたが気になった。伯爵に相手をするよう言い渡されたことも、否定しません。でも心のどこかで命じられて喜ぶ自分もいた」

 シエルはやっぱり正直だ。ありのままに打ち明けられ、イレーナの方が戸惑う。

「あなたは無垢なようで、鋭いところがあった。マリアンヌ様のことも、私が思うよりずっと深く考えていられた」

 イレーナは視線を落とす。

「……あなたは私をただ憐れんだだけではないの?」

 優しい彼は、イレーナの境遇に同情し、それを恋慕だと勘違いしたのではないか。

「憐れみもあったかもしれません。……でも、あなたは強い人だ」
「強い?」

 思わず視線を上げると、優しくこちらを見つめる彼と目が合う。

「強いですよ。自分の境遇を嘆き、他者にその不満をぶつけることもできた。弱い人間は、そうなる方がずっと多いのです。でもあなたはそうしなかった」

 弱い人間。母がそうだったのかもしれない。行き場のない苛立ちや憎しみを、幼かったイレーナやリュシアンにぶつけた。そうすることでしか、己の心を保っていられなかった。

「お母様を哀れみ、兄であるリュシアン様を気にかけ、そしてマリアンヌ様の子である幸せも願った。優しくて、とても強い人ではないですか」

 そうなのだろうか。イレーナにはわからなかった。けれどシエルの静かで、それでいて力のこもった言い方は、イレーナの心をそっと撫でた。今まで、そんなふうに考えたことはなかった。

「優しくて、強いあなたに私は惹かれたのです。私の好きな人を、いない方がよかったなどと非道なこと、どうかおっしゃらないで下さい」
「シエル……」
「あなたは悪くない。あなたは自由に生きていい。お母様のことで、どうかご自身を傷つけないで下さい」

 自分は悪くない。母に縛られず、自由に生きていい。

 シエルの優しく微笑んでくれた表情が、水で溶かしたように滲んで見える。イレーナは気づけば涙を流していた。

「シエル。ありがとう。ありがとう……」

 次々と頬を伝う涙を拭いもせず、イレーナは何度もそうシエルに伝えた。こんな自分を好きだと言ってくれて。強いと認めてくれて。

 イレーナは初めて許された気がした。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】お飾りの妻からの挑戦状

おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。 「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」 しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ…… ◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています ◇全18話で完結予定

お姉さまは最愛の人と結ばれない。

りつ
恋愛
 ――なぜならわたしが奪うから。  正妻を追い出して伯爵家の後妻になったのがクロエの母である。愛人の娘という立場で生まれてきた自分。伯爵家の他の兄弟たちに疎まれ、毎日泣いていたクロエに手を差し伸べたのが姉のエリーヌである。彼女だけは他の人間と違ってクロエに優しくしてくれる。だからクロエは姉のために必死にいい子になろうと努力した。姉に婚約者ができた時も、心から上手くいくよう願った。けれど彼はクロエのことが好きだと言い出して――

【完結】私はいてもいなくても同じなのですね ~三人姉妹の中でハズレの私~

紺青
恋愛
マルティナはスコールズ伯爵家の三姉妹の中でハズレの存在だ。才媛で美人な姉と愛嬌があり可愛い妹に挟まれた地味で不器用な次女として、家族の世話やフォローに振り回される生活を送っている。そんな自分を諦めて受け入れているマルティナの前に、マルティナの思い込みや常識を覆す存在が現れて―――家族にめぐまれなかったマルティナが、強引だけど優しいブラッドリーと出会って、少しずつ成長し、別離を経て、再生していく物語。 ※三章まで上げて落とされる鬱展開続きます。 ※因果応報はありますが、痛快爽快なざまぁはありません。 ※なろうにも掲載しています。

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

旦那の真実の愛の相手がやってきた。今まで邪魔をしてしまっていた妻はお祝いにリボンもおつけします

暖夢 由
恋愛
「キュリール様、私カダール様と心から愛し合っておりますの。 いつ子を身ごもってもおかしくはありません。いえ、お腹には既に育っているかもしれません。 子を身ごもってからでは遅いのです。 あんな素晴らしい男性、キュリール様が手放せないのも頷けますが、カダール様のことを想うならどうか潔く身を引いてカダール様の幸せを願ってあげてください」 伯爵家にいきなりやってきた女(ナリッタ)はそういった。 女は小説を読むかのように旦那とのなれそめから今までの話を話した。 妻であるキュリールは彼女の存在を今日まで知らなかった。 だから恥じた。 「こんなにもあの人のことを愛してくださる方がいるのにそれを阻んでいたなんて私はなんて野暮なのかしら。 本当に恥ずかしい… 私は潔く身を引くことにしますわ………」 そう言って女がサインした書類を神殿にもっていくことにする。 「私もあなたたちの真実の愛の前には敵いそうもないもの。 私は急ぎ神殿にこの書類を持っていくわ。 手続きが終わり次第、あの人にあなたの元へ向かうように伝えるわ。 そうだわ、私からお祝いとしていくつか宝石をプレゼントさせて頂きたいの。リボンもお付けしていいかしら。可愛らしいあなたととてもよく合うと思うの」 こうして一つの夫婦の姿が形を変えていく。 --------------------------------------------- ※架空のお話です。 ※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。 ※現実世界とは異なりますのでご理解ください。

ごめんなさい、お姉様の旦那様と結婚します

秘密 (秘翠ミツキ)
恋愛
しがない伯爵令嬢のエーファには、三つ歳の離れた姉がいる。姉のブリュンヒルデは、女神と比喩される程美しく完璧な女性だった。端麗な顔立ちに陶器の様に白い肌。ミルクティー色のふわふわな長い髪。立ち居振る舞い、勉学、ダンスから演奏と全てが完璧で、非の打ち所がない。正に淑女の鑑と呼ぶに相応しく誰もが憧れ一目置くそんな人だ。  一方で妹のエーファは、一言で言えば普通。容姿も頭も、芸術的センスもなく秀でたものはない。無論両親は、エーファが物心ついた時から姉を溺愛しエーファには全く関心はなかった。周囲も姉とエーファを比較しては笑いの種にしていた。  そんな姉は公爵令息であるマンフレットと結婚をした。彼もまた姉と同様眉目秀麗、文武両道と完璧な人物だった。また周囲からは冷笑の貴公子などとも呼ばれているが、令嬢等からはかなり人気がある。かく言うエーファも彼が初恋の人だった。ただ姉と婚約し結婚した事で彼への想いは断念をした。だが、姉が結婚して二年後。姉が事故に遭い急死をした。社交界ではおしどり夫婦、愛妻家として有名だった夫のマンフレットは憔悴しているらしくーーその僅か半年後、何故か妹のエーファが後妻としてマンフレットに嫁ぐ事が決まってしまう。そして迎えた初夜、彼からは「私は君を愛さない」と冷たく突き放され、彼が家督を継ぐ一年後に離縁すると告げられた。

元侯爵令嬢は冷遇を満喫する

cyaru
恋愛
第三王子の不貞による婚約解消で王様に拝み倒され、渋々嫁いだ侯爵令嬢のエレイン。 しかし教会で結婚式を挙げた後、夫の口から開口一番に出た言葉は 「王命だから君を娶っただけだ。愛してもらえるとは思わないでくれ」 夫となったパトリックの側には長年の恋人であるリリシア。 自分もだけど、向こうだってわたくしの事は見たくも無いはず!っと早々の別居宣言。 お互いで交わす契約書にほっとするパトリックとエレイン。ほくそ笑む愛人リリシア。 本宅からは屋根すら見えない別邸に引きこもりお1人様生活を満喫する予定が・・。 ※専門用語は出来るだけ注釈をつけますが、作者が専門用語だと思ってない専門用語がある場合があります ※作者都合のご都合主義です。 ※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。 ※架空のお話です。現実世界の話ではありません。 ※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

【完結】旦那様は、妻の私よりも平民の愛人を大事にしたいようです

よどら文鳥
恋愛
 貴族のことを全く理解していない旦那様は、愛人を紹介してきました。  どうやら愛人を第二夫人に招き入れたいそうです。  ですが、この国では一夫多妻制があるとはいえ、それは十分に養っていける環境下にある上、貴族同士でしか認められません。  旦那様は貴族とはいえ現状無職ですし、愛人は平民のようです。  現状を整理すると、旦那様と愛人は不倫行為をしているというわけです。  貴族の人間が不倫行為などすれば、この国での処罰は極刑の可能性もあります。  それすら理解せずに堂々と……。  仕方がありません。  旦那様の気持ちはすでに愛人の方に夢中ですし、その願い叶えられるように私も協力致しましょう。  ただし、平和的に叶えられるかは別です。  政略結婚なので、周りのことも考えると離婚は簡単にできません。ならばこれくらいの抵抗は……させていただきますよ?  ですが、周囲からの協力がありまして、離婚に持っていくこともできそうですね。  折角ですので離婚する前に、愛人と旦那様が私たちの作戦に追い詰められているところもじっくりとこの目で見ておこうかと思います。

処理中です...