旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ

文字の大きさ
上 下
3 / 29

3. 生贄

しおりを挟む
 それからもダヴィドは暇を見つけてはイレーナのもとへ訪れた。前回のように強引な行動はせず、少しずつ、距離を縮めようと世間話などをする。

 けれどそれも、マリアンヌが呼んでいるという知らせで終わりを告げる。ため息をついて去っていく伯爵と、ほっと胸をなで下ろすイレーナ。そんな妻をちらりと見て、夫はまた来ると伝えた。

「無理していらっしゃる必要はありませんわ」
「……いいや。貴女は私の妻なのだから」

 妻。ダヴィドにそう指摘されるたび、イレーナはまるで自分が頑丈な鎖で手足を繋がれているような錯覚に陥る。

(もう来ないでほしい……)

 ダヴィドがイレーナの元から去っていくたび、心がかき乱される。次はいつ来るのか。何を話すのか。また触れられたら今度こそ拒めない。どうすればいい。

(そうだわ。部屋にいなければ、彼と会うことはない)

 イレーナは平穏を望んでいた。誰かに自分の心を荒らされるのはまっぴらごめんだった。

「イレーナ様。どこへお出かけですか」

 今日はシエルが訪れていた。伯爵が訪れない日は、いつも彼がいる。

「公園へ。それから……買い物へも行くの」

 散歩は貴族の日課だ。そして買い物へ行くのは、ダヴィドに贈られたものが似合わないからだった。あの突然の訪問以来、今まで何もしてこなかった非礼を詫びるように彼はイレーナに贈り物もするようになった。帽子や夜会用のドレス、手袋、ショール。どれも可愛らしいデザインのパステルカラーで、イレーナにというより、マリアンヌを想定して用意されたものに見えた。これらを着る勇気は、イレーナにはなかった。

(あの人には、何も見えていないのね……)

 結局伯爵は、マリアンヌのことしか頭にないのだ。そんな彼に心を開くのはひどく愚かなことに思えた。きっと、辛い思いをするだけだろう。

「お供します」

 イレーナが支度の準備をしていると、シエルが当然のように言った。

「だめよ。あなたには婚約者がいるのでしょう?」
「ではお一人で行くつもりですか」
「ええ」
「私はダヴィド様から、あなたにもしものことがないよう、言いつけられているんです。ですから、どうかおそばにいることを許してください」

 懇願するように言ったシエルの顔を、イレーナはじっと見つめた。

「イレーナ様?」
「それは、嘘でしょう」

 シエルは素直で、優しい。それゆえイレーナの言葉に動揺し、彼女の言葉が正しいと認めた。イレーナはそんな哀れな青年を慰めるようにふっと微笑んだ。

「あなたはあの人に、自分の代わりを果たしてくれと頼まれたのよ。自分はマリアンヌさまとよろしくやりたいから、寂しい妻の相手を、ってね」

 別に珍しいことではない。もともとこの結婚も、家と家を結び付けるため、たっぷりと用意された持参金に広大な領地と屋敷を持つ伯爵が渋々納得してくれて成立したものだった。

 そこにイレーナの美貌とか、若さとか、気立ての良さはまったく必要なかったのだ。そもそも伯爵にはすでにマリアンヌという愛しい女性が手元にいたのだから。

 だからダヴィドが何より危惧したことは、イレーナが夫の愛をねだること。自分を愛してほしい、マリアンヌのような愛人ではなく。そんな我儘を妻が言い出さないようにするため、ダヴィドは若くて美しい、代わりの生贄、シエルを用意したのだった。

 勝手な人だ、と思う。都合のいい時だけ妻という役割を求めて、最愛の人が恋しくなったら手放して。イレーナが逃げ出さないよう、他に監視させる。

「ごめんなさいね、シエル」

 こんなことを、あなたにさせて。

 イレーナの謝罪に、シエルは雷に撃たれたかのように体を硬直させた。空色の瞳が真ん丸と見開かれ、やがて絶望したように暗く染まってゆく。

「なぜ……あなたが謝るのですか」
「他に好きな人がいるのに、私のような女を相手にしなければならないから……それは、とても辛いことだと思うから」
「私はっ……!」
「本当に、ごめんなさい」

 目を伏せて、もう一度イレーナは謝った。シエルは絶句したように、黙り込んでしまった。

「そういうわけだから、散歩も、買い物も、他の人に付き合ってもらうわ」

 重い沈黙に耐え切れず、イレーナは早口で言った。できれば彼には部屋を出て行ってもらいたかったが、いまだ呆然としたように突っ立っているので、仕方なしにイレーナが立ち去ることにした。すれ違った際、シエルはイレーナの手を掴んだ。けれども言うべき言葉が見当たらないようで、結局離してしまった。

 イレーナは今度こそ、部屋を後にしたのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妹がいなくなった

アズやっこ
恋愛
妹が突然家から居なくなった。 メイドが慌ててバタバタと騒いでいる。 お父様とお母様の泣き声が聞こえる。 「うるさくて寝ていられないわ」 妹は我が家の宝。 お父様とお母様は妹しか見えない。ドレスも宝石も妹にだけ買い与える。 妹を探しに出掛けたけど…。見つかるかしら?

拝啓、婚約者様。ごきげんよう。そしてさようなら

みおな
恋愛
 子爵令嬢のクロエ・ルーベンスは今日も《おひとり様》で夜会に参加する。 公爵家を継ぐ予定の婚約者がいながら、だ。  クロエの婚約者、クライヴ・コンラッド公爵令息は、婚約が決まった時から一度も婚約者としての義務を果たしていない。  クライヴは、ずっと義妹のファンティーヌを優先するからだ。 「ファンティーヌが熱を出したから、出かけられない」 「ファンティーヌが行きたいと言っているから、エスコートは出来ない」 「ファンティーヌが」 「ファンティーヌが」  だからクロエは、学園卒業式のパーティーで顔を合わせたクライヴに、にっこりと微笑んで伝える。 「私のことはお気になさらず」

地獄の業火に焚べるのは……

緑谷めい
恋愛
 伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。  やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。  ※ 全5話完結予定  

【完結】婚約破棄され毒杯処分された悪役令嬢は影から王子の愛と後悔を見届ける

堀 和三盆
恋愛
「クアリフィカ・アートルム公爵令嬢! 貴様との婚約は破棄する」  王太子との結婚を半年後に控え、卒業パーティーで婚約を破棄されてしまったクアリフィカ。目の前でクアリフィカの婚約者に寄り添い、歪んだ嗤いを浮かべているのは異母妹のルシクラージュだ。  クアリフィカは既に王妃教育を終えているため、このタイミングでの婚約破棄は未来を奪われるも同然。こうなるとクアリフィカにとれる選択肢は多くない。  せめてこれまで努力してきた王妃教育の成果を見てもらいたくて。  キレイな姿を婚約者の記憶にとどめてほしくて。  クアリフィカは荒れ狂う感情をしっかりと覆い隠し、この場で最後の公務に臨む。  卒業パーティー会場に響き渡る悲鳴。  目にした惨状にバタバタと倒れるパーティー参加者達。  淑女の鑑とまで言われたクアリフィカの最期の姿は、良くも悪くも多くの者の記憶に刻まれることになる。  そうして――王太子とルシクラージュの、後悔と懺悔の日々が始まった。

元婚約者は戻らない

基本二度寝
恋愛
侯爵家の子息カルバンは実行した。 人前で伯爵令嬢ナユリーナに、婚約破棄を告げてやった。 カルバンから破棄した婚約は、ナユリーナに瑕疵がつく。 そうなれば、彼女はもうまともな縁談は望めない。 見目は良いが気の強いナユリーナ。 彼女を愛人として拾ってやれば、カルバンに感謝して大人しい女になるはずだと考えた。 二話完結+余談

永遠の誓いを立てましょう、あなたへの想いを思い出すことは決してないと……

矢野りと
恋愛
ある日突然、私はすべてを失った。 『もう君はいりません、アリスミ・カロック』 恋人は表情を変えることなく、別れの言葉を告げてきた。彼の隣にいた私の親友は、申し訳なさそうな顔を作ることすらせず笑っていた。 恋人も親友も一度に失った私に待っていたのは、さらなる残酷な仕打ちだった。 『八等級魔術師アリスミ・カロック。異動を命じる』 『えっ……』 任期途中での異動辞令は前例がない。最上位の魔術師である元恋人が裏で動いた結果なのは容易に察せられた。 私にそれを拒絶する力は勿論なく、一生懸命に築いてきた居場所さえも呆気なく奪われた。 それから二年が経った頃、立ち直った私の前に再び彼が現れる。 ――二度と交わらないはずだった運命の歯車が、また動き出した……。 ※このお話の設定は架空のものです。 ※お話があわない時はブラウザバックでお願いします(_ _)

旦那様、離縁の申し出承りますわ

ブラウン
恋愛
「すまない、私はクララと生涯を共に生きていきたい。離縁してくれ」 大富豪 伯爵令嬢のケイトリン。 領地が災害に遭い、若くして侯爵当主なったロイドを幼少の頃より思いを寄せていたケイトリン。ロイド様を助けるため、性急な結婚を敢行。その為、旦那様は平民の女性に癒しを求めてしまった。この国はルメニエール信仰。一夫一妻。婚姻前の男女の行為禁止、婚姻中の不貞行為禁止の厳しい規律がある。旦那様は平民の女性と結婚したいがため、ケイトリンンに離縁を申し出てきた。 旦那様を愛しているがため、旦那様の領地のために、身を粉にして働いてきたケイトリン。 その後、階段から足を踏み外し、前世の記憶を思い出した私。 離縁に応じましょう!未練なし!どうぞ愛する方と結婚し末永くお幸せに! *女性軽視の言葉が一部あります(すみません)

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

処理中です...