旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ

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2. 夫

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 冬が過ぎ去り、穏やかな春になったかと思えば、もう初夏を思わせる暖かな日が続いていた。その日はいつも静かな屋敷が騒々しかった。何かあったのだろうか。

「奥様。大変ですわ」

 興奮したように、それでいてどこか嬉しそうにメイドはイレーナに伝えた。

「――なんですって」

 夫である伯爵がここへやってくる。イレーナは狼狽えた。
 どうしよう。拒むわけにはいかない。だがどうして今さらになってやってきたのだろう。体調が悪いといって断ってしまおうか。

「イレーナ」

 はっと振り向くと、背の高い男が壁にもたれかかるようにして立っていた。

「……ダヴィド様」

 十以上離れた夫は歳など感じさせない引き締まった身体をしており、それだけでイレーナは圧倒されてしまう。彼は怯えるイレーナに気づかず、自信に満ち溢れた表情で語りかけてきた。

「なんだかこうして顔を合わせるのは久しぶりな気がするね。元気だったかい、イレーナ?」

 今まで放っておいたイレーナの機嫌をとるかのようにダヴィドの声は甘く、優しかった。彼の真意が見えず、怖い、と妻であるイレーナは心の奥底で思った。けれどそれを決して表に出してはいけない。小さい頃から何度もそうしてきたように唇を吊り上げる。

「ええ、お変わりなく。それで、突然お見えになられて、今日はどうなされたのですか」
「妻の顔を見たいと思うのは当然のことだよ」

 白々しくも言い切る夫に、イレーナは今すぐにでも出て行ってくれと言いたくなったがぐっと堪えて俯いた。そんな彼女に夫は堂々と近づいてくる。

(来ないで)

 俯くイレーナの頬へダヴィドはそっと手を添える。

(触らないで)

 こちらを向けと顔を上げさせられる。

(嫌だ)

「初めて会った時から思っていたけど、貴女は本当に美しい」

 嘘だ。冷たい女だと、吐き捨てるようにマリアンヌに言っていた。彼女はそれを聞いて、甘えるように彼の胸に頬を寄せていた。目だけは、イレーナを見ていた。伯爵が愛するのは自分のみだという優越感に浸った目。

「イレーナ……」

 黒々とした目が、イレーナを捕える。彼女は悲鳴を飲み込み、猫のようにするりとその手から逃れた。伯爵が目を丸くする。彼の顔から背けるようにイレーナは窓へと視線をやった。

「――マリアンヌ様は」

 伯爵は一瞬間をおいた後、興が削がれたように答えた。

「元気だよ。ただ腹が膨れてきたせいか、少々気が荒立っていてね」

 どこか投げやりで、棘のある言葉だった。喧嘩でもしたのだろうか。口にしようと思ったが、伯爵の機嫌を損ねることはこれ以上したくなかった。

「お腹の子どもは?」
「元気さ」

(よかった)

 その感情がどういったものなのか自分でもよくわからなかったが、とにかくイレーナは安心した。

「では、どうかおそばにいてあげてください。きっと心細いでしょうから」

 イレーナの提案に、伯爵は目を瞠り、やがて顔をしかめた。

「貴女は夫の愛人とよろしくやれと言うのかい」

 愛人。あんなに愛していても、マリアンヌは愛人という立場でしかないのだ。俯くイレーナにどう思ったのか、ダヴィドがまた近づいてくる。今度は逃さないとばかりに腰に手を回し、イレーナの顔を正面から覗き込んできた。

「伯爵さま。どうか――」
「逃げるな。貴女は私の妻だ」

 先ほどとは違った命令するような口調に、イレーナは絶望する。整った顔が、裁きを下すように近づいてくる。

「――ダヴィド様」

 第三者の声に、ダヴィドはぱっと身を離した。次いで咎めるような視線を訪問者へ向ける。

「何用だ、シエル」

 シエルはちらりとイレーナを見たが、すぐにダヴィドへ微笑みかけた。

「先日の事業所に関して、お客様がお見えです」

 ダヴィドはちっ、と舌打ちをした後、部屋を出て行った。残されたのはじっと佇むイレーナのみとなった。

「イレーナ様」

 シエルの声に、イレーナはゆっくりと顔を上げた。彼の目には、こちらを気遣う色があった。

「あなたも、お仕事なのでしょう。行ってあげて」

 ――私は大丈夫だから。

 叫び出したい自分を抑え、なんとかイレーナはそう言った。けれどシエルはじっと動かぬままだった。そしてあろうことか、こちらへと歩を進めてくる。耐え切れず、イレーナがやめてと声を上げる。ぴたりとシエルは止まった。

「おねがい。一人にして……」

 彼の顔を見ずに、懇願するようにイレーナは言った。

「申し訳ありません」

 悲しそうな声でシエルは部屋を出て行った。
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