2 / 29
2. 夫
しおりを挟む
冬が過ぎ去り、穏やかな春になったかと思えば、もう初夏を思わせる暖かな日が続いていた。その日はいつも静かな屋敷が騒々しかった。何かあったのだろうか。
「奥様。大変ですわ」
興奮したように、それでいてどこか嬉しそうにメイドはイレーナに伝えた。
「――なんですって」
夫である伯爵がここへやってくる。イレーナは狼狽えた。
どうしよう。拒むわけにはいかない。だがどうして今さらになってやってきたのだろう。体調が悪いといって断ってしまおうか。
「イレーナ」
はっと振り向くと、背の高い男が壁にもたれかかるようにして立っていた。
「……ダヴィド様」
十以上離れた夫は歳など感じさせない引き締まった身体をしており、それだけでイレーナは圧倒されてしまう。彼は怯えるイレーナに気づかず、自信に満ち溢れた表情で語りかけてきた。
「なんだかこうして顔を合わせるのは久しぶりな気がするね。元気だったかい、イレーナ?」
今まで放っておいたイレーナの機嫌をとるかのようにダヴィドの声は甘く、優しかった。彼の真意が見えず、怖い、と妻であるイレーナは心の奥底で思った。けれどそれを決して表に出してはいけない。小さい頃から何度もそうしてきたように唇を吊り上げる。
「ええ、お変わりなく。それで、突然お見えになられて、今日はどうなされたのですか」
「妻の顔を見たいと思うのは当然のことだよ」
白々しくも言い切る夫に、イレーナは今すぐにでも出て行ってくれと言いたくなったがぐっと堪えて俯いた。そんな彼女に夫は堂々と近づいてくる。
(来ないで)
俯くイレーナの頬へダヴィドはそっと手を添える。
(触らないで)
こちらを向けと顔を上げさせられる。
(嫌だ)
「初めて会った時から思っていたけど、貴女は本当に美しい」
嘘だ。冷たい女だと、吐き捨てるようにマリアンヌに言っていた。彼女はそれを聞いて、甘えるように彼の胸に頬を寄せていた。目だけは、イレーナを見ていた。伯爵が愛するのは自分のみだという優越感に浸った目。
「イレーナ……」
黒々とした目が、イレーナを捕える。彼女は悲鳴を飲み込み、猫のようにするりとその手から逃れた。伯爵が目を丸くする。彼の顔から背けるようにイレーナは窓へと視線をやった。
「――マリアンヌ様は」
伯爵は一瞬間をおいた後、興が削がれたように答えた。
「元気だよ。ただ腹が膨れてきたせいか、少々気が荒立っていてね」
どこか投げやりで、棘のある言葉だった。喧嘩でもしたのだろうか。口にしようと思ったが、伯爵の機嫌を損ねることはこれ以上したくなかった。
「お腹の子どもは?」
「元気さ」
(よかった)
その感情がどういったものなのか自分でもよくわからなかったが、とにかくイレーナは安心した。
「では、どうかおそばにいてあげてください。きっと心細いでしょうから」
イレーナの提案に、伯爵は目を瞠り、やがて顔をしかめた。
「貴女は夫の愛人とよろしくやれと言うのかい」
愛人。あんなに愛していても、マリアンヌは愛人という立場でしかないのだ。俯くイレーナにどう思ったのか、ダヴィドがまた近づいてくる。今度は逃さないとばかりに腰に手を回し、イレーナの顔を正面から覗き込んできた。
「伯爵さま。どうか――」
「逃げるな。貴女は私の妻だ」
先ほどとは違った命令するような口調に、イレーナは絶望する。整った顔が、裁きを下すように近づいてくる。
「――ダヴィド様」
第三者の声に、ダヴィドはぱっと身を離した。次いで咎めるような視線を訪問者へ向ける。
「何用だ、シエル」
シエルはちらりとイレーナを見たが、すぐにダヴィドへ微笑みかけた。
「先日の事業所に関して、お客様がお見えです」
ダヴィドはちっ、と舌打ちをした後、部屋を出て行った。残されたのはじっと佇むイレーナのみとなった。
「イレーナ様」
シエルの声に、イレーナはゆっくりと顔を上げた。彼の目には、こちらを気遣う色があった。
「あなたも、お仕事なのでしょう。行ってあげて」
――私は大丈夫だから。
叫び出したい自分を抑え、なんとかイレーナはそう言った。けれどシエルはじっと動かぬままだった。そしてあろうことか、こちらへと歩を進めてくる。耐え切れず、イレーナがやめてと声を上げる。ぴたりとシエルは止まった。
「おねがい。一人にして……」
彼の顔を見ずに、懇願するようにイレーナは言った。
「申し訳ありません」
悲しそうな声でシエルは部屋を出て行った。
「奥様。大変ですわ」
興奮したように、それでいてどこか嬉しそうにメイドはイレーナに伝えた。
「――なんですって」
夫である伯爵がここへやってくる。イレーナは狼狽えた。
どうしよう。拒むわけにはいかない。だがどうして今さらになってやってきたのだろう。体調が悪いといって断ってしまおうか。
「イレーナ」
はっと振り向くと、背の高い男が壁にもたれかかるようにして立っていた。
「……ダヴィド様」
十以上離れた夫は歳など感じさせない引き締まった身体をしており、それだけでイレーナは圧倒されてしまう。彼は怯えるイレーナに気づかず、自信に満ち溢れた表情で語りかけてきた。
「なんだかこうして顔を合わせるのは久しぶりな気がするね。元気だったかい、イレーナ?」
今まで放っておいたイレーナの機嫌をとるかのようにダヴィドの声は甘く、優しかった。彼の真意が見えず、怖い、と妻であるイレーナは心の奥底で思った。けれどそれを決して表に出してはいけない。小さい頃から何度もそうしてきたように唇を吊り上げる。
「ええ、お変わりなく。それで、突然お見えになられて、今日はどうなされたのですか」
「妻の顔を見たいと思うのは当然のことだよ」
白々しくも言い切る夫に、イレーナは今すぐにでも出て行ってくれと言いたくなったがぐっと堪えて俯いた。そんな彼女に夫は堂々と近づいてくる。
(来ないで)
俯くイレーナの頬へダヴィドはそっと手を添える。
(触らないで)
こちらを向けと顔を上げさせられる。
(嫌だ)
「初めて会った時から思っていたけど、貴女は本当に美しい」
嘘だ。冷たい女だと、吐き捨てるようにマリアンヌに言っていた。彼女はそれを聞いて、甘えるように彼の胸に頬を寄せていた。目だけは、イレーナを見ていた。伯爵が愛するのは自分のみだという優越感に浸った目。
「イレーナ……」
黒々とした目が、イレーナを捕える。彼女は悲鳴を飲み込み、猫のようにするりとその手から逃れた。伯爵が目を丸くする。彼の顔から背けるようにイレーナは窓へと視線をやった。
「――マリアンヌ様は」
伯爵は一瞬間をおいた後、興が削がれたように答えた。
「元気だよ。ただ腹が膨れてきたせいか、少々気が荒立っていてね」
どこか投げやりで、棘のある言葉だった。喧嘩でもしたのだろうか。口にしようと思ったが、伯爵の機嫌を損ねることはこれ以上したくなかった。
「お腹の子どもは?」
「元気さ」
(よかった)
その感情がどういったものなのか自分でもよくわからなかったが、とにかくイレーナは安心した。
「では、どうかおそばにいてあげてください。きっと心細いでしょうから」
イレーナの提案に、伯爵は目を瞠り、やがて顔をしかめた。
「貴女は夫の愛人とよろしくやれと言うのかい」
愛人。あんなに愛していても、マリアンヌは愛人という立場でしかないのだ。俯くイレーナにどう思ったのか、ダヴィドがまた近づいてくる。今度は逃さないとばかりに腰に手を回し、イレーナの顔を正面から覗き込んできた。
「伯爵さま。どうか――」
「逃げるな。貴女は私の妻だ」
先ほどとは違った命令するような口調に、イレーナは絶望する。整った顔が、裁きを下すように近づいてくる。
「――ダヴィド様」
第三者の声に、ダヴィドはぱっと身を離した。次いで咎めるような視線を訪問者へ向ける。
「何用だ、シエル」
シエルはちらりとイレーナを見たが、すぐにダヴィドへ微笑みかけた。
「先日の事業所に関して、お客様がお見えです」
ダヴィドはちっ、と舌打ちをした後、部屋を出て行った。残されたのはじっと佇むイレーナのみとなった。
「イレーナ様」
シエルの声に、イレーナはゆっくりと顔を上げた。彼の目には、こちらを気遣う色があった。
「あなたも、お仕事なのでしょう。行ってあげて」
――私は大丈夫だから。
叫び出したい自分を抑え、なんとかイレーナはそう言った。けれどシエルはじっと動かぬままだった。そしてあろうことか、こちらへと歩を進めてくる。耐え切れず、イレーナがやめてと声を上げる。ぴたりとシエルは止まった。
「おねがい。一人にして……」
彼の顔を見ずに、懇願するようにイレーナは言った。
「申し訳ありません」
悲しそうな声でシエルは部屋を出て行った。
289
お気に入りに追加
1,167
あなたにおすすめの小説

妹がいなくなった
アズやっこ
恋愛
妹が突然家から居なくなった。
メイドが慌ててバタバタと騒いでいる。
お父様とお母様の泣き声が聞こえる。
「うるさくて寝ていられないわ」
妹は我が家の宝。
お父様とお母様は妹しか見えない。ドレスも宝石も妹にだけ買い与える。
妹を探しに出掛けたけど…。見つかるかしら?

【完結】婚約破棄され毒杯処分された悪役令嬢は影から王子の愛と後悔を見届ける
堀 和三盆
恋愛
「クアリフィカ・アートルム公爵令嬢! 貴様との婚約は破棄する」
王太子との結婚を半年後に控え、卒業パーティーで婚約を破棄されてしまったクアリフィカ。目の前でクアリフィカの婚約者に寄り添い、歪んだ嗤いを浮かべているのは異母妹のルシクラージュだ。
クアリフィカは既に王妃教育を終えているため、このタイミングでの婚約破棄は未来を奪われるも同然。こうなるとクアリフィカにとれる選択肢は多くない。
せめてこれまで努力してきた王妃教育の成果を見てもらいたくて。
キレイな姿を婚約者の記憶にとどめてほしくて。
クアリフィカは荒れ狂う感情をしっかりと覆い隠し、この場で最後の公務に臨む。
卒業パーティー会場に響き渡る悲鳴。
目にした惨状にバタバタと倒れるパーティー参加者達。
淑女の鑑とまで言われたクアリフィカの最期の姿は、良くも悪くも多くの者の記憶に刻まれることになる。
そうして――王太子とルシクラージュの、後悔と懺悔の日々が始まった。
拝啓、婚約者様。ごきげんよう。そしてさようなら
みおな
恋愛
子爵令嬢のクロエ・ルーベンスは今日も《おひとり様》で夜会に参加する。
公爵家を継ぐ予定の婚約者がいながら、だ。
クロエの婚約者、クライヴ・コンラッド公爵令息は、婚約が決まった時から一度も婚約者としての義務を果たしていない。
クライヴは、ずっと義妹のファンティーヌを優先するからだ。
「ファンティーヌが熱を出したから、出かけられない」
「ファンティーヌが行きたいと言っているから、エスコートは出来ない」
「ファンティーヌが」
「ファンティーヌが」
だからクロエは、学園卒業式のパーティーで顔を合わせたクライヴに、にっこりと微笑んで伝える。
「私のことはお気になさらず」

いいえ、望んでいません
わらびもち
恋愛
「お前を愛することはない!」
結婚初日、お決まりの台詞を吐かれ、別邸へと押し込まれた新妻ジュリエッタ。
だが彼女はそんな扱いに傷つくこともない。
なぜなら彼女は―――

理想の女性を見つけた時には、運命の人を愛人にして白い結婚を宣言していました
ぺきぺき
恋愛
王家の次男として生まれたヨーゼフには幼い頃から決められていた婚約者がいた。兄の補佐として育てられ、兄の息子が立太子した後には臣籍降下し大公になるよていだった。
このヨーゼフ、優秀な頭脳を持ち、立派な大公となることが期待されていたが、幼い頃に見た絵本のお姫様を理想の女性として探し続けているという残念なところがあった。
そしてついに貴族学園で絵本のお姫様とそっくりな令嬢に出会う。
ーーーー
若気の至りでやらかしたことに苦しめられる主人公が最後になんとか幸せになる話。
作者別作品『二人のエリーと遅れてあらわれるヒーローたち』のスピンオフになっていますが、単体でも読めます。
完結まで執筆済み。毎日四話更新で4/24に完結予定。
第一章 無計画な婚約破棄
第二章 無計画な白い結婚
第三章 無計画な告白
第四章 無計画なプロポーズ
第五章 無計画な真実の愛
エピローグ
不遇な王妃は国王の愛を望まない
ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝ある時、クラウン王国の国王カルロスの元に、自ら命を絶った王妃アリーヤの訃報が届く。王妃アリーヤを冷遇しておきながら嘆く国王カルロスに皆は不思議がる。なにせ国王カルロスは幼馴染の側妃ベリンダを寵愛し、政略結婚の為に他国アメジスト王国から輿入れした不遇の王女アリーヤには見向きもしない。はたから見れば哀れな王妃アリーヤだが、実は他に愛する人がいる王妃アリーヤにもその方が都合が良いとも。彼女が真に望むのは愛する人と共に居られる些細な幸せ。ある時、自国に囚われの身である愛する人の訃報を受け取る王妃アリーヤは絶望に駆られるも……。主人公の舞台は途中から変わります。
※設定などは独自の世界観で、あくまでもご都合主義。断罪あり(苦手な方はご注意下さい)。ハピエン🩷
※稚拙ながらも投稿初日からHOTランキング(2024.11.21)に入れて頂き、ありがとうございます🙂 今回初めて最高ランキング5位(11/23)✨ まさに感無量です🥲

【完結】旦那様は、妻の私よりも平民の愛人を大事にしたいようです
よどら文鳥
恋愛
貴族のことを全く理解していない旦那様は、愛人を紹介してきました。
どうやら愛人を第二夫人に招き入れたいそうです。
ですが、この国では一夫多妻制があるとはいえ、それは十分に養っていける環境下にある上、貴族同士でしか認められません。
旦那様は貴族とはいえ現状無職ですし、愛人は平民のようです。
現状を整理すると、旦那様と愛人は不倫行為をしているというわけです。
貴族の人間が不倫行為などすれば、この国での処罰は極刑の可能性もあります。
それすら理解せずに堂々と……。
仕方がありません。
旦那様の気持ちはすでに愛人の方に夢中ですし、その願い叶えられるように私も協力致しましょう。
ただし、平和的に叶えられるかは別です。
政略結婚なので、周りのことも考えると離婚は簡単にできません。ならばこれくらいの抵抗は……させていただきますよ?
ですが、周囲からの協力がありまして、離婚に持っていくこともできそうですね。
折角ですので離婚する前に、愛人と旦那様が私たちの作戦に追い詰められているところもじっくりとこの目で見ておこうかと思います。
あなたなんて大嫌い
みおな
恋愛
私の婚約者の侯爵子息は、義妹のことばかり優先して、私はいつも我慢ばかり強いられていました。
そんなある日、彼が幼馴染だと言い張る伯爵令嬢を抱きしめて愛を囁いているのを聞いてしまいます。
そうですか。
私の婚約者は、私以外の人ばかりが大切なのですね。
私はあなたのお財布ではありません。
あなたなんて大嫌い。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる