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1. 微かな不安
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伯爵には愛人がいる。マリアンヌという名前らしい。
イレーナより優しい顔立ちで、ふっくらとした頬と唇が柔らかそうだった。いちおう男爵家の血をひいているそうだが、それにしては振る舞いが幼く、礼儀作法もなっていないところがあった。彼女自身も妾の生まれではないのか、とおしゃべりな使用人たちは噂していた。そんな事情も含めて、イレーナがマリアンヌと初めて会った時、まるで小さな子どものようだと思った。
結婚してからも、イレーナの夫となる男はマリアンヌだけを愛した。愛し合った結果、子どもまで授かったらしい。夫にその事実を申し訳なさそうに伝えられた時、イレーナは気にしないで下さいと伝えた。むしろ、心の底から安堵した。
イレーナは子どもが嫌いだった。そう言うとみな信じられないような顔をするのも、また嫌であった。子どもの泣き声を聞くと、いつも母の悲鳴を思い出す。
――その子をどこかへやってちょうだい! あの忌まわしい女の子どもを!
――ああ、また女の子だった! どうして、どうしてなの! どうして男の子が生まれないの!
赤子と母のヒステリックな声が合わさり、幼いイレーナは必死に耳を塞ぎ、ひっそりと涙を流した。母に見つかってはいけない。叫び声がよけいに大きくなってしまうから。今でも不安になると、あの恐ろしいメロディーが聞こえてくる。そのたびにイレーナはどうしていいかわからず、体が震えるのだった。
自分の子どもなら違うのではないか。かつて誰かがそう言ったけれど、イレーナは自分の子であろうが嫌いなものは嫌いだと思った。自分が子どもを産むという行為も、イレーナには恐ろしいことだった。腹がしだいに膨らんでいき、吐き気をもよおす。産むときは、さらに何倍も苦しみ、地獄のような痛みが続くらしい。
イレーナは自分にはとても無理だと思った。伯爵のためにそこまで苦しまねばならぬ愛情は、彼女にはなかった。マリアンヌという女性がいてくれて、本当によかった。彼女ならば、子どもを愛することもできるだろうし、可愛がるだろう。
だからイレーナは今の結婚生活にこれといった不満はなかったし、のびのびと暮らすことができて心から満足していた。
「イレーナ様は子どもみたいな方ですね」
シエルの言葉に、所在なく窓の外を眺めていたイレーナは振り返った。
「そうかしら」
シエルはそうですよと微笑んだ。癖のない金褐色の髪に空色の目をした、優しい青年だった。子爵家の次男だったか三男だったかで、とにかく後を継ぐ必要のない人。伯爵の仕事を手伝っており、時間ができると彼はいつもイレーナのそばにやってきた。
「あなたも、もうすぐ結婚するのでしょう?」
「……ええ」
浮かない顔つきに、まずいことを聞いてしまったかもしれない。聞かなければよかったとイレーナは後悔した。黙り込んでしまったイレーナに、気を遣ったシエルがすぐに明るい顔をして言った。
「そんな顔をしないで下さい。少し、不安なだけです」
「……相手の女性と上手くいっていないの?」
自分から話題を振った手前、話の終わり方がわからない。なにより、シエルはじっと自分を見つめており、それはどこか話を聞いてほしいように見えた。
「いいえ、自分にはもったいないくらい素晴らしい女性です」
それはよかった。何も心配する必要はないではないか。この話はここで終わらせてしまいたい。そうイレーナは思ったが、シエルの聞いてほしそうな表情に渋々と話を進める。
「……では、何があなたを不安にさせるの?」
「問題は、私の方にあるのです」
シエルは焼きつけるようにイレーナを見ていた。居心地が悪く、彼女はそっと目をそらす。
「忘れられない女性がいるのです。このまま結婚しても、私はきっと妻を愛することができない」
だったら結婚しなければいい、とは言えない。シエルにはシエルの事情がある。他人のイレーナが口を挟むことではない。そもそも親が決めた結婚に子である自分たちがどうこう言う権利はない。だからイレーナが彼にできることは、せいぜい安っぽい言葉で慰めることだけだった。
「あなたがそう思っているだけで、結婚したら忘れてしまうのではないかしら」
「……そうかもしれませんね」
シエルは寂しく微笑んだ。慰めは失敗した。イレーナは彼の表情にいたたまれず、逃げるように椅子から立ち上がった。
「どちらへ?」
「庭を散歩してきます」
「お供します」
「一人でいいわ」
シエルの申し出にイレーナは首を振った。それでもシエルは折れず、結局イレーナの後ろをついてきた。伯爵の大切な仕事仲間だから仕方がないと、イレーナは自分に言い聞かせて外を歩き始める。
屋敷には、けっこうな額を費やして完成させたという立派な庭園があった。そして東屋も。けれど屋敷の主人と彼の最愛の人が仲睦まじげに話す様子を一度見たきり、イレーナが出向いたことはない。
その見事な庭も、老齢の庭師がやめてから少しずつ荒れ始めていた。
「近頃暖かくなりましたね。もう春も近いのでしょうか」
今日のシエルはよく話す。これまではいつも静かに見守っていたのに。イレーナはそう思いながら、一言二言のそっけない相槌を返す。シエルがまた話をひろげ、それにイレーナが付き合う。そんなことを何回か繰り返しながら、イレーナは一人になりたいと思い始めた。誰かといると、いつも気がつまって仕方がない。
ようやくの思いで池の前までたどり着き、イレーナはほっと息を吐きだした。濁った水が、自分の姿を映し出す様をじっと彼女は見つめた。
この屋敷へ訪れた時は、まだきれいな色をしていた気がする。池の水だけじゃない。屋敷も、何もかもすべてが新しく、新鮮に映ったものだ。――けれど、今は違う。彼女は顔を上げ、普段自分たちが暮らす西練とは反対の方へ目をやった。鬱蒼とした木々に囲まれた離れの建物。赤ん坊の声が聞こえる気がした。
「彼女の子どもは元気?」
「……ええ、母親のお腹の中で元気に育っているようですよ」
「まだ生まれてはいないの?」
「はい。今年の秋ごろにお生まれになられるのではないかと」
「そう」
では今の声は気のせいだった。イレーナはほっとして、また水面へと視線を戻した。子どもが生まれたら、この庭に遊びに来たりするのだろうか。そう思うとイレーナは少しだけ憂鬱だった。
――泣かないといいのだけど。
大きくなるまで、なるべく部屋から出ないようにしようとイレーナは思った。その間何をして過ごそうか。読みかけの本をこの際読んでしまうのもいいかもしれない。そう考え、少しだけイレーナは楽しみになった。
――でも、伯爵さまとマリアンヌさまとの間にもっとお子ができるかもしれないわ。
そうすれば赤ん坊の悲鳴はまた増えてしまう。その時はどうすればいいのだろう。楽しみだと思った気持ちはまたしぼんでしまい、イレーナは困ったわと顔を曇らせた。
「イレーナ様」
シエルの声に、イレーナは現実に引き戻される。
「なぁに」
イレーナは振り返らないまま答えた。
「イレーナ様はあの人と結婚して幸せですか」
どうしてシエルはそんな必死な声を出すのだろう。自分に何を求めているのだ。イレーナはやめてくれと思った。
「ええ、もちろん幸せですよ」
シエルが息を呑むのがわかった。きっと悲しそうな、自分を哀れむ目で見ているのだろう。夫にないがしろにされ、相手にされない可哀想な妻だと思っているのだ。
――そんなこと、これっぽっちも思っていないのに。
「そろそろ戻りましょうか」
シエルの声を遮るようにイレーナは立ち上がり、微笑んだ。彼ははいとやっぱり寂しそうに頷いた。
イレーナより優しい顔立ちで、ふっくらとした頬と唇が柔らかそうだった。いちおう男爵家の血をひいているそうだが、それにしては振る舞いが幼く、礼儀作法もなっていないところがあった。彼女自身も妾の生まれではないのか、とおしゃべりな使用人たちは噂していた。そんな事情も含めて、イレーナがマリアンヌと初めて会った時、まるで小さな子どものようだと思った。
結婚してからも、イレーナの夫となる男はマリアンヌだけを愛した。愛し合った結果、子どもまで授かったらしい。夫にその事実を申し訳なさそうに伝えられた時、イレーナは気にしないで下さいと伝えた。むしろ、心の底から安堵した。
イレーナは子どもが嫌いだった。そう言うとみな信じられないような顔をするのも、また嫌であった。子どもの泣き声を聞くと、いつも母の悲鳴を思い出す。
――その子をどこかへやってちょうだい! あの忌まわしい女の子どもを!
――ああ、また女の子だった! どうして、どうしてなの! どうして男の子が生まれないの!
赤子と母のヒステリックな声が合わさり、幼いイレーナは必死に耳を塞ぎ、ひっそりと涙を流した。母に見つかってはいけない。叫び声がよけいに大きくなってしまうから。今でも不安になると、あの恐ろしいメロディーが聞こえてくる。そのたびにイレーナはどうしていいかわからず、体が震えるのだった。
自分の子どもなら違うのではないか。かつて誰かがそう言ったけれど、イレーナは自分の子であろうが嫌いなものは嫌いだと思った。自分が子どもを産むという行為も、イレーナには恐ろしいことだった。腹がしだいに膨らんでいき、吐き気をもよおす。産むときは、さらに何倍も苦しみ、地獄のような痛みが続くらしい。
イレーナは自分にはとても無理だと思った。伯爵のためにそこまで苦しまねばならぬ愛情は、彼女にはなかった。マリアンヌという女性がいてくれて、本当によかった。彼女ならば、子どもを愛することもできるだろうし、可愛がるだろう。
だからイレーナは今の結婚生活にこれといった不満はなかったし、のびのびと暮らすことができて心から満足していた。
「イレーナ様は子どもみたいな方ですね」
シエルの言葉に、所在なく窓の外を眺めていたイレーナは振り返った。
「そうかしら」
シエルはそうですよと微笑んだ。癖のない金褐色の髪に空色の目をした、優しい青年だった。子爵家の次男だったか三男だったかで、とにかく後を継ぐ必要のない人。伯爵の仕事を手伝っており、時間ができると彼はいつもイレーナのそばにやってきた。
「あなたも、もうすぐ結婚するのでしょう?」
「……ええ」
浮かない顔つきに、まずいことを聞いてしまったかもしれない。聞かなければよかったとイレーナは後悔した。黙り込んでしまったイレーナに、気を遣ったシエルがすぐに明るい顔をして言った。
「そんな顔をしないで下さい。少し、不安なだけです」
「……相手の女性と上手くいっていないの?」
自分から話題を振った手前、話の終わり方がわからない。なにより、シエルはじっと自分を見つめており、それはどこか話を聞いてほしいように見えた。
「いいえ、自分にはもったいないくらい素晴らしい女性です」
それはよかった。何も心配する必要はないではないか。この話はここで終わらせてしまいたい。そうイレーナは思ったが、シエルの聞いてほしそうな表情に渋々と話を進める。
「……では、何があなたを不安にさせるの?」
「問題は、私の方にあるのです」
シエルは焼きつけるようにイレーナを見ていた。居心地が悪く、彼女はそっと目をそらす。
「忘れられない女性がいるのです。このまま結婚しても、私はきっと妻を愛することができない」
だったら結婚しなければいい、とは言えない。シエルにはシエルの事情がある。他人のイレーナが口を挟むことではない。そもそも親が決めた結婚に子である自分たちがどうこう言う権利はない。だからイレーナが彼にできることは、せいぜい安っぽい言葉で慰めることだけだった。
「あなたがそう思っているだけで、結婚したら忘れてしまうのではないかしら」
「……そうかもしれませんね」
シエルは寂しく微笑んだ。慰めは失敗した。イレーナは彼の表情にいたたまれず、逃げるように椅子から立ち上がった。
「どちらへ?」
「庭を散歩してきます」
「お供します」
「一人でいいわ」
シエルの申し出にイレーナは首を振った。それでもシエルは折れず、結局イレーナの後ろをついてきた。伯爵の大切な仕事仲間だから仕方がないと、イレーナは自分に言い聞かせて外を歩き始める。
屋敷には、けっこうな額を費やして完成させたという立派な庭園があった。そして東屋も。けれど屋敷の主人と彼の最愛の人が仲睦まじげに話す様子を一度見たきり、イレーナが出向いたことはない。
その見事な庭も、老齢の庭師がやめてから少しずつ荒れ始めていた。
「近頃暖かくなりましたね。もう春も近いのでしょうか」
今日のシエルはよく話す。これまではいつも静かに見守っていたのに。イレーナはそう思いながら、一言二言のそっけない相槌を返す。シエルがまた話をひろげ、それにイレーナが付き合う。そんなことを何回か繰り返しながら、イレーナは一人になりたいと思い始めた。誰かといると、いつも気がつまって仕方がない。
ようやくの思いで池の前までたどり着き、イレーナはほっと息を吐きだした。濁った水が、自分の姿を映し出す様をじっと彼女は見つめた。
この屋敷へ訪れた時は、まだきれいな色をしていた気がする。池の水だけじゃない。屋敷も、何もかもすべてが新しく、新鮮に映ったものだ。――けれど、今は違う。彼女は顔を上げ、普段自分たちが暮らす西練とは反対の方へ目をやった。鬱蒼とした木々に囲まれた離れの建物。赤ん坊の声が聞こえる気がした。
「彼女の子どもは元気?」
「……ええ、母親のお腹の中で元気に育っているようですよ」
「まだ生まれてはいないの?」
「はい。今年の秋ごろにお生まれになられるのではないかと」
「そう」
では今の声は気のせいだった。イレーナはほっとして、また水面へと視線を戻した。子どもが生まれたら、この庭に遊びに来たりするのだろうか。そう思うとイレーナは少しだけ憂鬱だった。
――泣かないといいのだけど。
大きくなるまで、なるべく部屋から出ないようにしようとイレーナは思った。その間何をして過ごそうか。読みかけの本をこの際読んでしまうのもいいかもしれない。そう考え、少しだけイレーナは楽しみになった。
――でも、伯爵さまとマリアンヌさまとの間にもっとお子ができるかもしれないわ。
そうすれば赤ん坊の悲鳴はまた増えてしまう。その時はどうすればいいのだろう。楽しみだと思った気持ちはまたしぼんでしまい、イレーナは困ったわと顔を曇らせた。
「イレーナ様」
シエルの声に、イレーナは現実に引き戻される。
「なぁに」
イレーナは振り返らないまま答えた。
「イレーナ様はあの人と結婚して幸せですか」
どうしてシエルはそんな必死な声を出すのだろう。自分に何を求めているのだ。イレーナはやめてくれと思った。
「ええ、もちろん幸せですよ」
シエルが息を呑むのがわかった。きっと悲しそうな、自分を哀れむ目で見ているのだろう。夫にないがしろにされ、相手にされない可哀想な妻だと思っているのだ。
――そんなこと、これっぽっちも思っていないのに。
「そろそろ戻りましょうか」
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