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第7章 東雲理沙編

196 理沙と林檎の話⑩

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「どうぞ。上がって上がって~」

 公園から歩いて五分も掛からない場所にあるマンションの、エレベーターで数階程上がった先にある、幾つもの扉が連なったコンクリート造りの通路。
 その通路を少し進んだ先にある一つの扉を開けて、林檎は明るい声で私を招待する。
 彼女の言葉に、私は「お邪魔します……」と挨拶をしながら、案内された部屋の中に踏み込んだ。
 すると、先に部屋に上がっていた林檎はそんな私の様子を見て一瞬動きを止めた後、すぐにケラケラと明るく笑った。

「あははっ、そんなに固くなんなくても良いのに~。今はお母さんもいないし、遠慮しないで~」
「や……ごめん。友達の家って、初めてで……勝手が分からなくてさ」

 ケラケラと笑いながら言う林檎に、私は何となく気恥ずかしさを覚えながらも靴を脱ぎ、玄関に並べておく。
 そんな私の言葉に、林檎は驚いた様子で若干目を丸くしながら「そうなんだ?」と聞き返してくるので、私はすぐに頷いた。

「親戚の家とか、親の知り合いの家に行くことは多いんだけど……いつも相手に失礼が無いように、って親に言われてるから……つい、ね」
「うわぁ、大変なんだねぇ。……私んちは学校の友達もよく遊びに来るし、お母さんもそんな厳しくないからさ! ちょっと狭いけど、遠慮しないでくつろいでってよ!」

 手に持ったレジ袋を揺らしながら言う林檎に、私は息を吐くように笑いながら「ありがと」と答えた。
 それから鼻歌混じりに歩く彼女の後ろを付いていくように廊下を進んでいくと、彼女は「うん?」と小さく声を漏らしながらピタリと歩みを止め、すぐさまこちらに振り向いた。

「じゃあ、つまり……理沙が同い年の子の家に遊びに来るのは、私の家が初めて……ってこと?」
「えっ? うん。……っていうか、さっきそう話したよね?」

 やけに真剣な表情で聞いてくる林檎に、私は内心驚きながらもそう答えて見せる。
 すると彼女は途端にその顔をにま~っと緩ませ、すぐに「そうだったね、ごめんごめん」と答えながら、踵を返して近くにあった扉を開けて中に入る。
 一体何なんだ……? と疑問に思いながらも、私は小さく溜息をつきつつ、彼女の後を追う形で部屋に入った。
 そこはキッチンとリビングが一緒になったような部屋で、壁際にキッチンコンロやシンクなどがあり、奥の方にはテレビやソファなどがあってくつろげるスペースが出来ていた。

「じゃあ、私は買ってきたものを片付けちゃうから、理沙は適当にその辺でくつろいどいて。後で何か飲み物出すね」

 そう言いながらレジ袋をキッチンに置く林檎に、私は「そこまでしなくてもいいよ」と答えつつ、言われた通りに部屋の奥にあるソファに腰を下ろした。
 ……家に帰りたくないという私の我儘に、林檎は特に深い理由を聞くこと無く、ずっと外にいるのは危ないからと自分の家に招待してくれた。
 スーパーの買い出しの帰りだったらしい彼女は、これから夕食を作るところだったからついでに食べて行けば良いと提案した。
 流石にそれは迷惑ではないかと断ろうとしたのだが、今日は元々カレーの予定なので人数が増えても問題ないからと押し切られ、そのまま流されるように家まで来てしまった。

 壁に掛かった時計で時間を確認してみれば、今は夕方の六時過ぎを指している。
 門限の時間はとっくに過ぎており、今から帰っても両親からの叱責は逃れられないだろう。
 だとしても、少しでも早く家に帰った方が良いに越したことはないのだろうが……今は両親の顔を見たくないし、あの家にも帰りたくない。
 しかし、だからと言ってずっと林檎の家に居座る訳にもいかないし、これから一体どうすれば……──。

「ねぇ、理沙?」

 一人悶々と思考を巡らせていた時、コトッと目の前に麦茶の入ったグラスが置かれるのと同時に、そんな声が投げかけられる。
 その声にハッと顔を上げると、そこにはいつの間にか私の足元近くの床に両膝をつき、正座をした状態で真っ直ぐこちらを見つめる林檎の姿があった。
 目が合うと、彼女はそのままゆっくりと続けた。

「もし、理沙が嫌じゃなければ、なんだけど……なんで家に帰りたくないのか、聞いても良いかな?」
「っ……」

 真っ直ぐ投げ掛けられたその問いに、私は思わず言葉に詰まる。
 すると、彼女は僅かに目を伏せて視線を泳がせながらも、更に続けた。

「その……理沙の家が、色々と複雑なのは、知ってるし……この家にいる分には、全然構わないんだけど、さ……やっぱり、ご両親も心配してると思うし、ちゃんと連絡し」
「心配なんてしないよ」

 たどたどしい口調で言う林檎の言葉に、私はほぼ反射的にそう答える。
 すると、彼女は「うッ」と鈍い声を漏らして口を噤み、すぐに申し訳なさそうに俯いた。
 ……しまった。色々考えることが多すぎて、思わず冷たい反応をしてしまった。
 目に見えて落ち込んだような反応をする林檎に対し、私は一体どうしたものかとしばし悩んだ後、ひとまず彼女の頭に手を伸ばしてポンポンと軽く撫でた。

「ごめん。さっきまで、色々と考え事してて……林檎は悪くないから、気にしないで」
「っ」

 私の言葉に、林檎はパッと分かりやすく表情を明るくしながら顔を上げ、すぐに安堵したようにその目を細める。
 その様子を見て自分の胸が熱くなるのを感じながら、私は彼女の頭から手を離し、少し間を置いて続けた。

「家族に……林檎と会ってることが、知られたんだ」
「……えッ!?」

 私の言葉に、林檎はワンテンポ遅れて驚いた反応を示す。
 それに、私は自分の頬が引きつるような感覚を覚えながらも、両手の指を絡めて続けた。

「今までは、学校で勉強してから帰ってるってことにしてたんだけど、ずっと怪しんでたみたいで……今日、放課後学校に電話して、私が残ってないか確認したみたいで……嘘ついてたことが、バレちゃった」
「そ、それで……どうなったの……?」
「……家に帰ってから、父さんに問い詰められて、外で林檎と会ってることを話して……もう二度と会うなって、言われた」

 胸が詰まるような息苦しさを覚えながらも、何とかそう続けた私の言葉に、林檎は「そんな……!」と声を上げながら身を乗り出した。

「そ、そんなのやだよッ……何とかならないの……?」
「……ごめん……」

 悲痛な面持ちで訴えかけてくる林檎の言葉に、私は謝ることしか出来なかった。
 ……こうなることは、分かっていたハズだ。
 林檎が、両親の言う『東雲家に相応しい友達』に該当しないことも、彼女との交流が反対されることも分かり切っていたことだ。
 それでも、一時の安らぎでも良いからと、差し出されたその手を掴んでしまったんだ。

 両親に言われた通りの人生を歩んできた私にとって、彼等の言うことは絶対で……もし林檎との関係を断てと言われれば、私の取れる行動は、言われた通りに関係を断って元の生活に戻ることのみ。
 だから、少しでも長く林檎との関係を続ける為に、両親にだけは知られないよう必死に隠してきた。
 しかし、両親に林檎との関係が知られて反対されてしまった今、私がすべきことは決まっていると言うのに……──。

「……ごめん、本当に……ごめんなさい……」

 自分の身勝手に振り回してしまっている罪悪感から、私は掠れた声で何度も謝罪の言葉を述べながら、逃げるように自分の目元を両手で覆う。
 本当は、こうして自責の念に駆られて悩む時間すらも惜しいのだと、頭では分かっているのに……どうして、私はまだ、彼女と一緒にいたいと思ってしまうんだろう。

 私の人生には、両親の作ったレールが敷かれていて……今まで、そのレールから外れようだなんて、思いもしなかった。
 どんなに苦しくて、嫌になって逃げ出したくなっても……両親の言うことを聞くのが正しいのだと、必死に自分の気持ちを押し殺して生きていた。
 そんな中で、林檎と出会って……両親に反対されることが分かっていても止められず、気付かれないよう嘘をついてまで秘密裏に会い、反対されてもこうして縋りついて……自分の感情がグチャグチャで、もう自分がしたいことすらも分からな──。

「理沙が謝る必要なんて無いよ」

 ふわり、と。
 一人で考え込む私を包み込むように、全身に柔らかな温もりを感じた。
 そして、頭上から降ってきたその声に、数瞬遅れて林檎に抱きしめられているのだということに気付いた。

「だって、理沙は何も悪いことなんてしてないじゃん」

 林檎はそう続けながら、私の体を抱く力を強める。
 ……ただ、それだけ。
 状況は変わらず、何も解決していないというのに、ただそれだけで……私の思考を覆い尽くしていた鉛色の靄が、少しずつ晴れていくのを感じた。
 胸の奥が熱くなり、何かで満たされていくような感覚の中で、私はソッと目を瞑る。

 ……あぁ、そうか。
 ただ……これだけで良いんだ。
 傍にいるだけで、安心して、胸が温かくなる。
 この温もりがあれば……それだけで良いんだ。
 例え両親の作ったレールから外れて、否定されて、この世界の全てを敵に回すことになろうとも……私はただ、この温もりを手放したくないんだ。
 この温もりの為なら……──林檎の傍にいられるのなら、例えどんなに辛いことがあろうとも、乗り越えられる気がする。

 だって、私は……林檎のことが、好きだから。

「ッ……」

 ぽつり、と。
 胸の中の無色透明だった水の中に、色のついた一滴の雫が落ちて、波紋と共に溶け出していくような感覚がした。
 それと同時に思わずハッと目を見開いた時、林檎はゆっくりと私の体を離し、どこか恥ずかしそうにはにかんだ。

「あはは……とりあえず、時間も時間だし、ご飯作ってくるねっ! 理沙もお腹空いたと思うし、これからのことは、ご飯食べてからでも遅くは」
「林檎」

 やけに明るい声で話す林檎の言葉を遮りつつ、彼女の腕を掴んで自分の方へと引き寄せる。
 台所の方に向かって後ずさろうとしていた彼女の体は咄嗟に対応出来なかったようで、ソファに座る私の上に覆い被さるような姿勢となる。
 息が掛かる程の至近距離に顔を近付けた林檎は、驚いた様子で頬を紅潮させながら、その目を大きく見開いて私を見つめた。

「り、理沙……? 急に、何を……」
「……好きだよ。林檎」

 私はそう返しながら、彼女の腰に両手を回して軽く抱き締める。
 そんな私の言葉に、林檎は戸惑った様子で口ごもった後、すぐにはにかむように小さく笑った。

「えと……うん。私も好きだよ?」
「違、そういう好きじゃなくてッ……」

 そこまで言って、私は口ごもる。
 これは……何と説明すれば良いのだろう……?
 誰かに好意を抱くということ自体が初めての私にとって、今自覚したばかりの感情を言語化するのはとても難しく、どう説明すれば良いのか上手く思いつかなかったのだ。
 何とか思考を巡らし、今までの人生で培ってきた知識を総動員してきた時、頭の中に一つの光景が浮かんできた。

「ッ……! そう、LOVEなんだよッ!」
「はいッ!?」

 いつだったか、林檎に書いてきて欲しいと渡されたプロフィール帳に載っていた、『LOVEコーナー』という名目の恋愛系の質問が纏められた物。
 あの時は、恋愛どころか『好き』という感情が分からなくてあまり意識していなかったが、彼女への感情を自覚した今なら分かる。
 自分の抱いている感情が、あの質問欄に該当する……『恋』であるということを。

「林檎の差し伸べてくれた手は、温かくて……初めて会った時に貰った飴は、甘くて……林檎の嬉しそうな顔を見ると、胸が熱くなって、林檎のことしか考えられなくなっててッ……! 気付いたら、貴女のことが、好きになってたのッ……」

 だけど、結局その恋愛感情を伝える方法を知らないから……私はただ、自分の気持ちをそのまま曝け出すことしか出来ない。

「だから、その……ずっと、友達だったし、変だって思われるかもしれないけど……別に、その、恋人になりたいとかでは無くて……ただ、私にとって、林檎は誰よりも大切な人だから……それだけ、伝えておきたくて……」

 しかし、ここまで誰かに自分の胸の内を明かしたのは初めてのことだったので、段々と気恥ずかしい気持ちになり尻すぼみな口調になってしまい、その感情を隠すように俯いた。
 ……鼓動が早い。
 顔は熱くて、両手の指先は震えて上手く力が入らない。
 今の心臓の音を聴かれていたらどうしよう。困らせていたらどうしよう。
 拒絶されたら──嫌われたらどうしよう。
 自分の恋愛感情を打ち明けることがここまで緊張するなんて知らず、今になって段々と不安な気持ちが募り、今からでも弁解出来ないだろうかと模索し始めた時だった。

「うん。だから……私も好きだよ?」

 頭上から降ってきたその声に、私はハッと顔を上げる。
 そこでは……頬を紅潮させ、僅かに潤んだ瞳でこちらを見下ろす林檎の顔があった。

「……それ……どういう意味か、分かってる……?」

 思わずそう聞き返してみると、彼女はその顔を耳まで真っ赤に染め上げながら、無言で一度頷いた。
 それに、私は静かに息を呑む。
 すると、林檎は驚く私の頬に手を添えて、ゆっくりと顔を近付けて──「ッ……」──唇を重ねる。
 ほんの一瞬の出来事に、思わず息を止めて硬直していると、彼女はゆっくりと顔を離して私の顔を覗き込み……──

「理沙の方こそ、意味……分かってる?」

 ──……と、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべて問い掛けてくる。
 彼女の言葉に、私はすぐに笑みを返し、腰に回した両手に力を込めた。

「勿論。ちゃんと、分かってるよ」

 そう答えた後、私達はもう一度唇を重ねた。

 ……状況は、何も解決してはいない。
 両親は林檎と会うべきじゃないと言っているし、きっと私達の関係は否定される。

 だけど、もう……そんなことは、どうでもよかった。
 苦しく締め付けられていた胸の中を満たす、この温もりさえあれば。
 それ以外の物は全て、どうなっても構わないと。
 今は、心の底からそう思ったんだ。
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