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第7章 東雲理沙編
190 理沙と林檎の話④
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「……雨、か……」
翌日の放課後。
帰り支度を済ませて児童玄関までやって来た私は、玄関の外を見て、ふとそんなことを呟いた。
今日は朝から曇り空ではあったが、昼休憩が終わった辺りから少しずつ空が暗くなり、いつの間にか本格的に降り出していたようだ。
アスファルトの地面に打ち付ける大粒の雨を見て思わず眉を顰めていると、隣にいたクラスメイトが「あ、本当だ」と小さく呟いたのが聴こえた。
「朝から降りそうとは思ってたけど、本当に降り出したんだねぇ。……東雲さん、もしかして傘忘れたの?」
「……ううん。天気予報でも降るって言ってたから、ちゃんと持って来てるよ」
軽く小首を傾げながら問い掛けてくるクラスメイトの言葉に、私は近くにあった傘立てから自分の傘を取り出しつつ答えてみせる。
それに、彼女はぎこちない表情を浮かべて「あっ」と小さく呟くと、すぐにヘラッと笑顔を浮かべた。
「そっ……そっか、そうだよね。流石東雲さん、尊敬しちゃうなぁ」
一瞬でお世辞だと分かるような上辺だけの言葉を述べるクラスメイトに、私は「ありがとう」と端的に答えると傘をさして玄関を後にした。
彼女の家はクラスの中でも立場が低く、自分の家よりも立場の高い家の子に取り入ろうと必死なのだろう。
大方、私が傘を忘れたと言ったら、傘を貸すなり何なりして恩でも売るつもりだったか。
くだらないなと呆れつつ、私は校門を出て帰路につく。
そう。傘は持って来ていたし、そもそも天気予報で今日は午後から雨が降ると言われていたから、雨が降り出したこと自体は特段不思議なことでは無い。
ただ、ふと……こんな雨の中でも、“彼女”は待っているのだろうかと、気になっただけだ。
「……まさか、ね……」
例の公園がある道に差し掛かる交差点で、私は小さくそう呟きながら、傘の持ち手を握る力を強くした。
少しの間交差点の真ん中で立ち止まった後、私は小さく息をつき、いつも帰り道として使っている道に向かって歩き出す。
……流石にこの雨では、彼女だって家に帰っている筈だ。
私だって早く帰りたいし、あの公園に行っても彼女がいる筈無いのだから、わざわざ公園を避けて遠回りをする必要性も無い。
深い意味なんて無いのに……この、気持ちが逸るような感覚は一体、何なのだろう。
いる訳ないと分かっているのに……もしかしたら、なんて考えている自分もいて……──。
「……どうして……」
土を抉る程の大粒の雨が降りしきる、公園の奥の方。
大きな屋根の下にテーブルと椅子があるだけの簡易的な休憩スペースに、彼女はいた。
テーブルの上にランドセルを置き、椅子に腰かけて軽く足を揺らしながら降り注ぐ雨を見つめていた彼女は、公園の入り口に立っている私に気付いて勢いよく椅子から立ち上がった。
かと思えば満面の笑みでブンブンと手を大きく振ってくるので、私は比較的水溜まりが浅い部分を選んで公園の中を走り抜け、彼女のいる屋根の下へと駆け込んだ。
「や~、雨凄いね~! 降るとは聞いてたけど、ここまでとは思わなくてビックリしちゃった!」
「……ここで何してるの……?」
あっけらかんとした態度で言う林檎に、私は傘を畳みながらそう問い掛けた。
それに、彼女は一瞬キョトンとしたような表情を浮かべた後、すぐに笑みを浮かべて口を開いた。
「何って……君のことを待ってたんだよ?」
「どうして、そんな……」
「だって、昨日約束したじゃん。待ってる、って」
さも当たり前のことのように言う林檎に、私は思わず面食らう。
確かに言ってたけど……だからって、こんな雨の中で律儀に待ってるなんて……。
驚いていると、林檎は雨の降りしきる屋根の外に視線を向けながら続けた。
「でも今日雨凄いし、本当に来るなんて思わなかったよ~」
「……本当にいるなんて、思わなかったから……」
「ほぇ?」
つい小さく呟いた私の言葉に、彼女は気の抜けた声で聞き返す。
それに、私は右手を強く握りしめて続けた。
「どうして、そんなに……私に構うの?」
「……どうして、って……?」
「名前も知らないし、この前公園で会ったばかりなのに……どうして、ここまで……」
自分でも何が言いたいのか分からなくなり、後半の方は尻すぼみな言い方になってしまう。
……どうして、こんなこと聞いてるんだろう……?
いや……それを言ったら、どうしてここに来てしまったんだろう。
もう彼女には関わらないと決めたのに……公園にいるからって、見なかったことにして帰れば良かったのに……。
私は彼女に、何を期待しているんだ……?
「うーん……どうして、って聞かれてもなぁ……」
それに、林檎はそんな風に呟いて自分の頬をポリポリと掻く。
……理由が、無い……?
いや、そんな訳無い。何か自分に利益があると思って、私に近付いてるんじゃないのか……?
彼女のことが理解出来ず動揺していると、腕を組んで何やら云々と唸っていた彼女は、自分のこめかみを指で押さえながら口を開いた。
「特に理由なんて無いけど、強いて言うなら……お母さんに言われたから、かな?」
「……お母さんに……?」
突拍子の無い言葉に思わず聞き返すと、彼女は自身のこめかみに当てていた指を離し、「ん」と笑顔で頷いた。
「昔からよく言われてるの。人にしたことは、良いことも悪いことも、全部自分に返ってくるんだよ~って。だから、困ってる人がいたら、助けるようにしてるんだ」
「……そうなんだ」
「だから、君の為って言うよりは……自分の為にやってる、って言った方が良いのかも?」
彼女はそう言って、どこか恥ずかしそうにはにかんだ。
……自分の為に、か……。
自分の利益の為に動いているのは、両親や同級生達と同じ筈なのに……彼女は、他の人達と違うような気がする。
上手く言えないけど……彼女と一緒にいても、苦しいとか逃げたいとか、感じないような気がする。
胸の奥が熱くなるような感覚に、思わず口元が緩みそうになるのを感じていると、彼女はすぐに「あっ!」と声を上げた。
「もッ、勿論、君のことだって心配してるからね!? そりゃ、困ってる人を助けるようにしてるのは、自分の為だけど……この前、すっごく辛そうな顔してるの見て、力になりたいって思ったんだ」
彼女はそう言いながら服のポケットに手を突っ込み、私の手を取って何かを握らせた。
身に覚えのある固い感触に、その手を自分の手元に戻してゆっくりと開く。
そこにあったのは……リンゴのイラストが描かれた、飴の小袋だった。
「何で悩んでるのかは、分からないけど……辛かったら、コレ食べて元気出してね? 私も出来るだけ、力になるし……」
「……名前が林檎だから、リンゴ?」
自信無さそうに言う林檎の言葉を軽く流しつつ、私はポツリと呟くように言った。
それと同時に屋根の外で降りしきる雨の音が僅かに弱まるのを聴いていると、林檎は「んぇッ?」と驚いた様子で聞き返した。
「えっ、名前……あれ? 教えたっけ?」
「あぁ……名札で知った」
私は端的に返しながら、飴を持った手で彼女の胸元に掛かってる名札を指した。
すると彼女は自分の名札を確認し、すぐに「あぁ!」と納得した様子で声を上げる。
それに私は息を吐くように小さく笑いつつ、表情を緩めて続けた。
「私は、東雲理沙。……よろしくね、林檎」
「……! うんっ! よろしく、理沙!」
私の自己紹介に、林檎が満面の笑みで答えるのとほぼ同時に、ずっと降り続けていた雨が止む。
タイミングが良いな……と驚いて思わず屋根の外に視線を向けると、林檎は続けて「あのさっ!」と言ってくる。
「実は、もし今日会えたら渡したい物があったんだけど、家に忘れちゃって……理沙が大丈夫なら、明日もここに来てほしいんだけど……良いかな?」
オズオズとした様子で尋ねる彼女の言葉に、私は少しだけ驚いてしまい言葉に詰まる。
明日は、確か……家庭教師の、平井先生が来る日だ。
家庭教師の授業が無い日でも、帰るのが遅くなると良い顔されないのに……明日も遅くなったりしたら……。
でも……──と、私は飴を握ったままの手を強く握りしめ、ゆっくりと口を開いた。
「……うん、良いよ。明日も……また、ここで」
私がそう答えてみせると、林檎はパァッと嬉しそうにその顔を綻ばせた後、すぐに満面の笑みで大きく頷いた。
それだけで心臓の鼓動の音が僅かに大きくなり、胸の奥が温かくなるのを感じる。
明日……もしかしたら、この選択を後悔することになるのかもしれない。
でも、彼女の顔を見ていると……それでも良いのかもしれない、なんて思った。
翌日の放課後。
帰り支度を済ませて児童玄関までやって来た私は、玄関の外を見て、ふとそんなことを呟いた。
今日は朝から曇り空ではあったが、昼休憩が終わった辺りから少しずつ空が暗くなり、いつの間にか本格的に降り出していたようだ。
アスファルトの地面に打ち付ける大粒の雨を見て思わず眉を顰めていると、隣にいたクラスメイトが「あ、本当だ」と小さく呟いたのが聴こえた。
「朝から降りそうとは思ってたけど、本当に降り出したんだねぇ。……東雲さん、もしかして傘忘れたの?」
「……ううん。天気予報でも降るって言ってたから、ちゃんと持って来てるよ」
軽く小首を傾げながら問い掛けてくるクラスメイトの言葉に、私は近くにあった傘立てから自分の傘を取り出しつつ答えてみせる。
それに、彼女はぎこちない表情を浮かべて「あっ」と小さく呟くと、すぐにヘラッと笑顔を浮かべた。
「そっ……そっか、そうだよね。流石東雲さん、尊敬しちゃうなぁ」
一瞬でお世辞だと分かるような上辺だけの言葉を述べるクラスメイトに、私は「ありがとう」と端的に答えると傘をさして玄関を後にした。
彼女の家はクラスの中でも立場が低く、自分の家よりも立場の高い家の子に取り入ろうと必死なのだろう。
大方、私が傘を忘れたと言ったら、傘を貸すなり何なりして恩でも売るつもりだったか。
くだらないなと呆れつつ、私は校門を出て帰路につく。
そう。傘は持って来ていたし、そもそも天気予報で今日は午後から雨が降ると言われていたから、雨が降り出したこと自体は特段不思議なことでは無い。
ただ、ふと……こんな雨の中でも、“彼女”は待っているのだろうかと、気になっただけだ。
「……まさか、ね……」
例の公園がある道に差し掛かる交差点で、私は小さくそう呟きながら、傘の持ち手を握る力を強くした。
少しの間交差点の真ん中で立ち止まった後、私は小さく息をつき、いつも帰り道として使っている道に向かって歩き出す。
……流石にこの雨では、彼女だって家に帰っている筈だ。
私だって早く帰りたいし、あの公園に行っても彼女がいる筈無いのだから、わざわざ公園を避けて遠回りをする必要性も無い。
深い意味なんて無いのに……この、気持ちが逸るような感覚は一体、何なのだろう。
いる訳ないと分かっているのに……もしかしたら、なんて考えている自分もいて……──。
「……どうして……」
土を抉る程の大粒の雨が降りしきる、公園の奥の方。
大きな屋根の下にテーブルと椅子があるだけの簡易的な休憩スペースに、彼女はいた。
テーブルの上にランドセルを置き、椅子に腰かけて軽く足を揺らしながら降り注ぐ雨を見つめていた彼女は、公園の入り口に立っている私に気付いて勢いよく椅子から立ち上がった。
かと思えば満面の笑みでブンブンと手を大きく振ってくるので、私は比較的水溜まりが浅い部分を選んで公園の中を走り抜け、彼女のいる屋根の下へと駆け込んだ。
「や~、雨凄いね~! 降るとは聞いてたけど、ここまでとは思わなくてビックリしちゃった!」
「……ここで何してるの……?」
あっけらかんとした態度で言う林檎に、私は傘を畳みながらそう問い掛けた。
それに、彼女は一瞬キョトンとしたような表情を浮かべた後、すぐに笑みを浮かべて口を開いた。
「何って……君のことを待ってたんだよ?」
「どうして、そんな……」
「だって、昨日約束したじゃん。待ってる、って」
さも当たり前のことのように言う林檎に、私は思わず面食らう。
確かに言ってたけど……だからって、こんな雨の中で律儀に待ってるなんて……。
驚いていると、林檎は雨の降りしきる屋根の外に視線を向けながら続けた。
「でも今日雨凄いし、本当に来るなんて思わなかったよ~」
「……本当にいるなんて、思わなかったから……」
「ほぇ?」
つい小さく呟いた私の言葉に、彼女は気の抜けた声で聞き返す。
それに、私は右手を強く握りしめて続けた。
「どうして、そんなに……私に構うの?」
「……どうして、って……?」
「名前も知らないし、この前公園で会ったばかりなのに……どうして、ここまで……」
自分でも何が言いたいのか分からなくなり、後半の方は尻すぼみな言い方になってしまう。
……どうして、こんなこと聞いてるんだろう……?
いや……それを言ったら、どうしてここに来てしまったんだろう。
もう彼女には関わらないと決めたのに……公園にいるからって、見なかったことにして帰れば良かったのに……。
私は彼女に、何を期待しているんだ……?
「うーん……どうして、って聞かれてもなぁ……」
それに、林檎はそんな風に呟いて自分の頬をポリポリと掻く。
……理由が、無い……?
いや、そんな訳無い。何か自分に利益があると思って、私に近付いてるんじゃないのか……?
彼女のことが理解出来ず動揺していると、腕を組んで何やら云々と唸っていた彼女は、自分のこめかみを指で押さえながら口を開いた。
「特に理由なんて無いけど、強いて言うなら……お母さんに言われたから、かな?」
「……お母さんに……?」
突拍子の無い言葉に思わず聞き返すと、彼女は自身のこめかみに当てていた指を離し、「ん」と笑顔で頷いた。
「昔からよく言われてるの。人にしたことは、良いことも悪いことも、全部自分に返ってくるんだよ~って。だから、困ってる人がいたら、助けるようにしてるんだ」
「……そうなんだ」
「だから、君の為って言うよりは……自分の為にやってる、って言った方が良いのかも?」
彼女はそう言って、どこか恥ずかしそうにはにかんだ。
……自分の為に、か……。
自分の利益の為に動いているのは、両親や同級生達と同じ筈なのに……彼女は、他の人達と違うような気がする。
上手く言えないけど……彼女と一緒にいても、苦しいとか逃げたいとか、感じないような気がする。
胸の奥が熱くなるような感覚に、思わず口元が緩みそうになるのを感じていると、彼女はすぐに「あっ!」と声を上げた。
「もッ、勿論、君のことだって心配してるからね!? そりゃ、困ってる人を助けるようにしてるのは、自分の為だけど……この前、すっごく辛そうな顔してるの見て、力になりたいって思ったんだ」
彼女はそう言いながら服のポケットに手を突っ込み、私の手を取って何かを握らせた。
身に覚えのある固い感触に、その手を自分の手元に戻してゆっくりと開く。
そこにあったのは……リンゴのイラストが描かれた、飴の小袋だった。
「何で悩んでるのかは、分からないけど……辛かったら、コレ食べて元気出してね? 私も出来るだけ、力になるし……」
「……名前が林檎だから、リンゴ?」
自信無さそうに言う林檎の言葉を軽く流しつつ、私はポツリと呟くように言った。
それと同時に屋根の外で降りしきる雨の音が僅かに弱まるのを聴いていると、林檎は「んぇッ?」と驚いた様子で聞き返した。
「えっ、名前……あれ? 教えたっけ?」
「あぁ……名札で知った」
私は端的に返しながら、飴を持った手で彼女の胸元に掛かってる名札を指した。
すると彼女は自分の名札を確認し、すぐに「あぁ!」と納得した様子で声を上げる。
それに私は息を吐くように小さく笑いつつ、表情を緩めて続けた。
「私は、東雲理沙。……よろしくね、林檎」
「……! うんっ! よろしく、理沙!」
私の自己紹介に、林檎が満面の笑みで答えるのとほぼ同時に、ずっと降り続けていた雨が止む。
タイミングが良いな……と驚いて思わず屋根の外に視線を向けると、林檎は続けて「あのさっ!」と言ってくる。
「実は、もし今日会えたら渡したい物があったんだけど、家に忘れちゃって……理沙が大丈夫なら、明日もここに来てほしいんだけど……良いかな?」
オズオズとした様子で尋ねる彼女の言葉に、私は少しだけ驚いてしまい言葉に詰まる。
明日は、確か……家庭教師の、平井先生が来る日だ。
家庭教師の授業が無い日でも、帰るのが遅くなると良い顔されないのに……明日も遅くなったりしたら……。
でも……──と、私は飴を握ったままの手を強く握りしめ、ゆっくりと口を開いた。
「……うん、良いよ。明日も……また、ここで」
私がそう答えてみせると、林檎はパァッと嬉しそうにその顔を綻ばせた後、すぐに満面の笑みで大きく頷いた。
それだけで心臓の鼓動の音が僅かに大きくなり、胸の奥が温かくなるのを感じる。
明日……もしかしたら、この選択を後悔することになるのかもしれない。
でも、彼女の顔を見ていると……それでも良いのかもしれない、なんて思った。
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