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第5章:林の心臓編

131 力になりたい

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---八年前---

「じゃあおうち帰ったら私んちに集合ね~!」
「うん!」
「分かった!」

 どこからか聴こえた声に、私はふと顔を上げた。
 見るとそこでは、同じクラスの女子三人組が、何やら楽しそうに話しながら教室を出ていくところだった。
 ……さっき聴こえた会話から察するに、これから遊ぶ約束でもしているのだろう。
 今日は修了式で午前終わりだし、午後からは基本的にすることも無いから、普通は友達とそういう約束でもするのだろう。
 どこか他人事のように考えながら、私は今日貰ったプリント類をランドセルにしまい、小さく息をついた。

 いや、実際……他人事か。
 私はランドセルにしまった成績表を取り出し、開いてみる。
 するとそこには、科目の評価ごとに、それぞれ『5』や『4』の数字が並んでいる。
 ……二学期よりも、成績は上がってる。
 二学期までは幾つかあった『3』が無くなっているし、『5』の数も増えてきている。
 これなら、母さんは私を少しは認めてくれるだろうか。

 ダメだったら……もっと、頑張らないと……。
 私には、友達と遊んでいる時間なんて無い。
 どうせ、母さんはこの成績でも私を認めてなんてくれないんだ。
 もっともっと頑張って、ここに並んでいる数字が『5』だけになれば、母さんはきっと私を……──。

「猪瀬さん」

 ひんやりした手が右手に添えられる感覚に、私はハッと我に返った。
 そこで、無意識の内に、右手親指の爪を噛んでいたことに気付いた。
 あぁ、しまった。またやってしまった。
 気を抜くとついやってしまう、みっともない悪い癖。
 直さないと。こんなみっともない癖がついてるから、母さんも私のことを認めてくれないんだ。
 そんな風に考えながら、私は口から右手を離し、顔を上げた。
 するとそこには、心配そうに私の顔を覗き込んでいる担任の先生がいた。

「あっ、先生……」

 呟きながら、私は眼球だけを動かすようにして軽く辺りを見渡した。
 見れば、いつの間にか教室の中には他に誰もおらず、私と先生の二人きりになっていたようだ。
 しまった。少し、ボーッとしてしまっていた……。

「あっ……ごめんなさい。すぐに帰りますから……」

 私はそう言いながら彼女の手を振り払い、すぐに成績表をランドセルに突っ込んだ。
 時間を無駄にしてしまった。
 早く家に帰って勉強しなきゃ……あぁいや、その前に帰りにどこかで昼ご飯を買わないと……。
 そんな風に考えながらランドセルを背負おうとした時、先生が私の手を掴んでそれを止めさせた。
 突然のことに驚き、私はハッと顔を上げた。
 見るとそこには、真剣な眼差しでこちらを見つめる先生がいた。

「……ねぇ、猪瀬さん?」

 私の手を掴み、こちらをジッと見つめたまま、先生はそう名前を呼んだ。
 彼女の言葉に私は目を見開き、咄嗟に彼女の目を見つめ返す。
 何だ……? 帰り支度が遅かったから、怒るのか……?
 確かに、少し考え事をして固まっていたのは事実だが……だからって、わざわざ呼び止めて説教する程では無いだろう。
 むしろ、私は今すぐ帰ろうとしているところだと言うのに……。
 愚痴のように考えていると、彼女は私の手を握る力を少し強めて、続けた。

「猪瀬さんは……自分の家、好き?」

 突然、真剣な表情で放たれたその言葉に、私は答えられなかった。
 恐らく、今の私はかなり間抜けな顔をしていることだろう。
 急に、この人は……何を言っているんだ?
 どうして、小学三年生の最後の日に、そんなことを聞いてくるんだ?
 彼女の質問の意図が分からず、私は呆けたような表情で固まってしまった。

 自分の家が好きなんて……そんなわけがないだろう。
 母親に産まなければ良かったと言われて、いらない存在として邪険に扱われて……好きになりたくても、なれるわけがないじゃないか。
 こんなクソみたいな現状を変える為に、こうして勉強を頑張っているんだ。
 しかし、そんなこと馬鹿正直に言えるわけも無く、私は口ごもってしまう。
 とにかく、この状況をどうにかしなければ……何とか、会話を断ち切って……。

「……そんなこと、先生には関係ないじゃないですか」

 考えるより先に、口が動いていた。
 咄嗟にそう答えた声は、自分でも驚く程に感情がこもっておらず、平坦な声だった。
 先生もそれを感じたのか、私の言葉に、僅かに目を丸くした。
 その際に私の手を握る力が緩んだのを感じ、私はすぐに彼女の手を振り払い、背負いかけのランドセルの肩ひもに手を通す。

「それじゃあ、一年間ありがとうございました。……さようなら」
「あっ、猪瀬さんッ……」

 どこか呼び止めるかのような響きのある先生の声を無視して、私は、逃げるように教室を飛び出した。

---現在---

「ティナちゃんは……──自分の家、好き……?」

 私の言葉に、ティナは目を丸くして、その表情を強張らせた。
 彼女の顔を見た瞬間、私の思考は加速する。
 ……今なら分かる。
 普通の人は……普通の家庭で暮らしてきた人は、この質問で困ったりしない。
 自分を無条件に愛してくれる家族が、温かいご飯を作って自分の帰りを待っている場所を、嫌いになるはずが無いんだ。
 例え多少家族と仲が悪くとも、互いの心の中に愛情があれば、少なくとも自分の家を嫌うことは無い。
 世の中には、好きな場所を聞かれて自分の部屋と即答する人も多く存在する。
 突然この質問をされても、好きだと即答するか、当たり前のことを突然聞いてくる質問者を不審に思うものなのだ。
 この質問をされて困るということは、つまり……彼女も、私と同じで……——。

「こころ? 急にどうしたのじゃ?」

 すると、リートがそんな風に聞いてくる。
 彼女の言葉に、私はハッと我に返る。
 顔を上げて振り向くと、そこには訝しむような表情でこちらを見つめているリートの姿があった。

「……リート……」
「何じゃ急に、そやつの家のことなど聞いて……今必要なことか?」

 彼女の言葉に、私はソッとティナに視線を向けた。
 ……確かに、ティナの家庭事情を聞いたところで、それが林の心臓の回収に必要とは思えない。
 彼女の協力もまともに得られないであろう状況の今、これ以上彼女に肩入れする必要も無いだろう。
 頭では、そう理解している。

 しかし、放っておけなかった。
 私と同じ境遇を持っているかもしれない彼女を、このまま見て見ぬふりをしておくことが出来なかった。
 つい数時間前に会ったばかりの少女に対してこんな感情を抱くことも、こんな風に咄嗟に行動してしまうようなことも、日本にいた頃と比べると有り得ないことだ。
 日本にいた頃は事なかれ主義で、自分の言動で誰かの反感を買うことが怖くて……常に周りの空気を必死に読んで、流されるように生きていた。
 流される私の手を掴んでくれる人すらいなくて、自分のしたいことも分からないまま、ただひたすら息をしていた。
 自分のやりたいことも分からないのに、自分から誰かのために行動することなんて、有り得るはずもなかった。

 でも、こんな風に変われたのは……——と、私は顔を上げてリートを見た。
 すると、彼女は不思議そうな顔で、こちらを見つめ返す。
 私はそれに小さく笑い返して見せると、ティナに視線を戻した。

「確かに、必要無いとは思うけど……気になっちゃって……」

 誤魔化すようにそう言いかけて、私はすぐに口を噤む。
 ……いや、この言い方は良くないな。
 こんな言い方では、ただの好奇心からの行動のように捉えられてしまう。
 しばし思考を巡らせ、私はしゃがんでティナと視線を合わせ、続けた。

「……さっきの、ティナちゃんのお兄さんや獣人族長さんの様子見たら……ティナちゃんが家族と何かあったんじゃないか、ってことくらいは、分かるよ」
「ッ、それは……」
「会ったばかりの私のことなんて、信じられないとは思うけど……私も、家族のことで、色々あって……ティナちゃんは、私と似てるって……思った。ティナちゃんの力になれるかもしれないって……力に、なりたいって……」

 思ったんだ……と、尻すぼみな言い方になりながら、私は目を伏せた。
 私の言葉に、リートが驚いた様子で私を見つめているのが分かった。
 ……やっぱり、変だよな。
 会ったばかりの少女の家庭環境に関心を持って、力になりたいとか言い出すなんて。
 そんなこと、私が一番よく分かっているつもりだ。
 しかし、それでも私は、ティナの力になりたい。
 ……ティナくらいの年齢なら、まだ間に合うから。
 日本にいた頃の私みたいにならなくて済むと……まだ、やり直せると……思うから……。
 私は小さく息をつき、改めて顔を上げ、俯いたままのティナを見つめて続けた。

「何もないなら、それで良いし……言いたくないなら、別に、これ以上深入りするつもりは無い。……だから、あともう一回だけ、聞くね?」
「……」
「ティナちゃんは……自分の家、好き?」

 ティナの顔を見つめたまま、私は先程よりもハッキリした口調で、そう言い切った。
 私の言葉に、ティナは俯いたまま答えない。
 ……やっぱり、言わないか。
 まぁ、会ったばかりだし、仕方無いよな。
 それこそ私だって、一年間私の担任だった先生に同じ質問をされて答えなかったじゃないか。
 自分から歩み寄ろうとしても、結局は相手の気持ち次第なわけで……やっぱり、私なんかには、こんなこと……──。

「……き……ない……ニャン」

 思考が徐々に後ろ向きになっていた時、そんなか細い声が、私の鼓膜を震わせた。
 それに、私はハッと我に返り、すぐに顔を上げた。
 するとそこには、どこか泣き出しそうな顔でこちらを見つめているティナがいた。

「好きじゃ……無いニャン……ウチは、自分の家……好きじゃないニャン……!」

 まるで、何かを訴えるように切実な声で言うティナに、私は静かに息を呑んだ。
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