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▽6
唇を噛み、慌てて扉を開けて部屋を出る。廊下の途中、神官部屋との中間地点で、走ってくる大神官と鉢合わせた。
「何があった!?」
「あ、あの。アーキズが! 大きな狼に、攫われて……!」
必死で説明を続けると、段々と大神官の顔色が悪くなっていく。
あぁ……、と唇からか細い声が漏れた。床に膝をついたその人を支えるように、腕を回す。
「成程な。賭け、か」
「あの。何が起きているんですか?」
「説明する。が、クロノ神が姿を消したなら、十中八九、代わりにあいつが来るはずなんだが……」
そう大神官が言った途端、遠くから犬の情けない鳴き声が響いてくる。ほっとしたように、大神官は立ち上がった。
鳴き声の元は、先ほどアーキズを連れて行かれた開け放しの窓からだ。大神官が部屋に飛び込むと、黒い毛玉が突っ込んでくる。
『サフィア! 神の泉が見つからないよー!』
「そんな事言ってる場合か! 今までなにしてたんだ、このぼんくら!」
サフィア……そう呼ばれた大神官は、両手のひらで黒い毛玉の顔を挟み込む。
先ほど見た大狼に似ているが、こちらは少し小柄で耳が丸く、目の色も違っている。足の先だけが白かった。
身体は大きく見えるが、間違いなく犬だ。犬なのに、喋っている言葉が分かる。
「一体、なにが……?」
「ティリア。この犬が『ニュクス神の仮の姿』だ」
「仮の姿?」
ニュクス神は自国を守護する偉大な神であり、アーキズを祟った存在だ。決して、このかわいらしい大型犬ではない。
ない、はず、と思いながら、首を傾げる。
「力を奪われてるな。この姿のまま変化できなくなってる」
「はぁ。神使としての姿に、固定されてしまったようなものですか?」
「そんな感じだ」
そもそも、これが神です、とひゃんひゃんと鳴いている大型犬を指さされても困る。
今まで祈っていたのは、何だったのだろうか。私が呆然としていると、目の前に申し訳なさげに尻尾を垂らした犬が歩いてくる。
『申し訳ない。百日の祈りが届いたから、祟りを鎮めなくちゃ、って思ったんだ。けれど、その際、父上に相談したら面白がられてしまって』
百日の祈り、とは神祠で毎日捧げていた祈りのことだろう。
届いていたのか、という感動と、それを知っている目の前の存在が確かに神であることの動揺に、気が遠くなってくる。
「ち、父上、とは……?」
「隣国、キルシュ国を守護するクロノ神のことだ」
「……ああ。ナーキア地区に縁のある方、ですね」
クロノ神。その名で呼ばれる隣国を守護する神の伝説には、いくつか目を通した。
岩を割って水を湧かせた、というような民に寄り添う逸話も数多いが、他の神と比べて異色なのが、騒動の起点となる逸話だ。
善にも悪にも寄らず、ただ混乱を面白がる。遊び好きの性質が、その性質が招いた騒乱が、現在進行形で増えている。
恋話もお好みのようで、『二人が結ばれる』というような神託が多いのも、クロノ神の特徴とされていた。
「ええ、と。つまり、ニュクス神は、私の祈りを聞き届けて、アーキズへの祟りを鎮めようとしたけれど。出来ず」
そこまで言ったところで、犬の頭が更に下がった。尻尾も地べたに沈んだ。
つい手を伸ばし、頭を撫でてしまう。
「父神であるクロノ神に相談したところ、『叶えてほしくば明日の昼までに神の泉に辿り着け』そう言われた、と」
『でも、ずっと探してるのに父上が泉を隠して、探させないようにしてるんだよ……。力も奪われちゃったし……』
ニュクス神はその場に伏せ、またひゃんひゃんと鳴き始めた。
隣に屈み込んだサフィア大神官は、べしり、と犬の頭をはたく。
「しかもアーキズって奴、人質に取られたぞ。『賭けに勝ったら貰う』そうだ」
『えぇ……』
犬は情けない声を上げ、床を転がっている。
端から見れば可愛らしい光景だが、あの犬の中身は自国の神である。こんなに心中複雑な気分になることもそうあるまい。
サフィアは私たちに少し待つように言うと、自室から紙の束を持って戻ってきた。
「これは神の泉があるとされる、山の地図だ。ニコ、今までどういう経路で泉を探っていたのか教えてくれ」
「『ニコ』?」
尋ねると、黒犬は得意げに鼻先を持ち上げた。
『愛称だよ』
「ニュクス神、だから?」
『そう。呼びやすいでしょう』
君もそう呼んでもいいよ、と言い置いて、犬は地図に近づいていく。
ぺたり、ぺたりと汚れた肉球を置きながら、辿った経路を示していく。それらを書き記していたサフィアは、突然困ったような声を上げる。
私も地図を覗き込む。道として図示されている場所は、既に通った、と赤い印が全て書き込まれていた。
「殆どの道は通ってるし、虱潰しに歩けてはいるな」
『二日間、探すのに歩き通しだったからね』
誇らしげに胸を張る犬の頭を、サフィアはぐりぐりと撫でたくる。
つまり、物理的には調べ終えたのだが、神の泉はどこにも見つからない、という状況だ。
二人の横で、私はそっと手を上げる。
「神の泉、というのはあの伝説にある泉ですよね。この世のものとは思えないほど、綺麗な水が湧き出す場所。けれど、泉のある土地には、招かれなければ入ることはできない」
「そうだ。賭けとしては最悪の内容だよ。なんで受けた?」
犬は、今度は耳を垂らした。
話を聞く限り全てが後手後手なのは間違いないのだが、追求されてしょんぼりしている姿を見ると、こちらが悪いことをしている気分になってくる。
『承諾した後で、賭けの内容を言われたんだ……』
「勉強になったな。お前の父上、割と性格悪いぞ」
『それは、身に沁みた』
はぁ、と息を吐くニュクス神……と呼ぶには可愛らしい存在を撫でると、サフィアは地図を持ち上げる。
漏れがないか確認している様子だが、赤で塗りつぶされた地図に、白は見当たらなかった。
「取り敢えず、現地へ行きませんか? 歩いていたら、うっかり見つかるかもしれないし」
「そうだな。クロノ神がいなくなって、行動の縛りはなくなった」
その場に立ち上がり、服を着替えると、鞄を抱えて部屋を出る。先に出ていた二人を追って部屋に行くと、こちらも準備は整っていた。
サフィアは鞄を持ち上げ、犬に取っ手を咥えさせる。
「……そういえば、大神官様は、なんでその。クロノ神に従っていたんですか?」
「従わされてた、って感じだな。ニコも押さえられてたし、妙なこと喋ろうとしたら喉が絞まってた。悪かったな」
「いえ。協力してくれるのは、有難いです」
彼は、私たちを包み込むように指先で円を描く。
だが、指先で引こうとした線は途中で掻き消えてしまう。
「あ」
「あ?」
「転移術を使おうと思ったんだが、ニコの力の大部分が封じられてるんじゃ、大きな術は使えないな。移動、どうするか……」
顎に手を当てて考え込んだサフィアに対し、大型犬は鼻先を擦りつける。
遠慮なく押し退けられ、再度ひゃん、と鳴くと、犬は口を開く。
『雪車を出してくれたら、僕が引いていくよ』
「まあ、それくらいなら今の力でも出せるが……。ナーキアは遠いぞ」
『全力疾走すれば、朝までには着く』
サフィアは今度は細い線を引き、両手を広げた大きさに収まるほどの円を描く。
円の中心からは雪国で使われる雪車と、引く動物に取り付けるための胴輪が出てくる。かなり古いもののようで、壊れては継ぎ接ぎして使い続けられていることが窺えた。
犬はうきうきした気持ちを隠さないまま胴輪を取り付けられ、車体の部分を私たちに向ける。
「え……? あの、外に運んでから乗った方が……」
犬の形状をした自国の守護神が朝まで走り続けるつもりである事にも、若干引いていたが、それよりも室内で雪車に乗ろうとしている事にも理解が追いつかない。
私の言葉に、サフィアは納得したように頷く。
「確かに、窓開けないとな」
広い窓を開け放つと、外から冷たい風が吹き込んでくる。
サフィアは私に構うことなく、荷台の部分に乗り込んだ。室内で出発準備を整えている犬と、荷台の後ろ半分を残して乗り込んでいる大神官。
笑いたいのに笑えない私が、心底可哀想だった。
視線で圧を掛けられ、荷台に乗り込む。
『出発!』
「進行」
二人が声を揃えた途端、ふわりと雪車が空中に浮き上がる。二人して身を屈めて窓を通り抜けると、サフィアは手慣れた様子で外から窓を閉める。
何もない空中にあたかも道があるように、犬は四つ脚を動かす。雪車は、前進を始めた。
「ティリアは、高いところは平気か?」
「大丈夫です。……なんですかこれ?」
「足の裏に神の力を纏わせて浮く、って方法で浮いてる。昔、信徒が少なくて、神様として力がまだ弱かった時、よく使ってた技だな。だから、力の大部分を奪われても作動する」
本来、ニュクス神としての力はもっと強大なものだそうだが、誓約をしてしまった所為で担保として父神……クロノ神に力を握られてしまっているらしい。
雪車で空中を駆けながら、実はもっと力のある神で、と説明されるのだが、犬に言われても納得しかねるのが正直なところだった。
寒い中で空中を駆ければ冷たいはずなのだが、周囲には熱が保たれている。力の出所は、大神官からのようだ。
「もし、昼までに神の泉に辿り着けなかったら、クロノ神はアーキズをどうするんですか?」
「あちらの神殿から出られないようにされて、小間使いとして使われる、とかかな」
「大目に見てくれることは……?」
「まあ、数年働いたら飽きてくれるかもしれない」
数年、とは私にとっても、彼にとっても長い期間だった。結婚の適齢期である彼を、その時期が過ぎるまで神殿に閉じ込めることになるのは、あまりにも心苦しい。
どうすれば神の泉に辿り着けるのだろう。必死で神話の記述を思い出す。
「昔、神の泉に通じる井戸が存在する、という話を読んだのですが……」
「ああ、あれ。当時の国境を跨いでたから埋めた」
「埋めたんですか!? 神の井戸を?」
「知らずに子どもが遊びに使ってて、割と大事になってさ」
ううん、と頭を抱え、細かい記述を思い返す。
悩んでいる私を見かねてか、ぽんぽん、と肩が叩かれた。
「飴食べる?」
「大神官様。なんでちょっと場慣れしてる感あるんですか?」
「場慣れしてるんだよ。あの方と数百年渡り合ってるからな」
確かに自分の信仰する神が力を封じられ、その父神に脅されながらも、割と平然と仕事をこなしていたように思う。
はぁ、と飴を受け取り、口の中に転がした。果汁にはない甘みが口の中を満たす。
「……アーキズが隣国の神殿に入るなら、私も入ろうかなぁ」
「お、いいぞ。その意気だ。大体のことは、何とかなるもんだからな」
しばらく黙って飴を転がしていると、上方には満天の星が見える。
ニュクス神は、星空を統べる神だ。一条の流れ星のように、雪車は冬空を滑空する。
「なあ」
「なんですか」
「アーキズのこと好きなの?」
つい飴を詰まらせそうになって、ごほごほと咳き込む。
原因を作った大神官様は丁寧に、私の背を撫でた。
「……もうずっと、片思いです」
「だろうなと思った。まあ、いい男だよな。自分の身を顧みず、誰かを守れる」
「あの。でも、ニュクス神には悪いことを……」
そう言いかけると、ぴん、と立っていた犬の耳が萎れた。
「ニコ。謝らなくていいのか?」
『……いやだ』
「お前な」
『いくらサフィアでも、あの像を大切に思っていた僕の心を蔑ろにすることは許さない』
「だったら、ティリアを守りたかったアーキズの感情だって大切にしろ」
犬はぎり、と牙を噛みしめると、ふい、と顔を逸らした。
祟った事でアーキズに起きた不都合を解消してくれるつもりはあるが、当時の怒りはまだ収まっていないようだ。
幼馴染みが壊した像は、サフィアを模したものだと言っていた。
本人は許しても、他人が許さない事はままある。本人の自己愛よりも重い愛を、その人に抱く人物が、この世には存在するからだ。
「ニュクス神」
『なにかな?』
「当時、お怒りだった気持ちは、私には動かしようがないものです。けれど、アーキズも十年、とても苦しみ、私は、その姿を近くで見てきました」
指先を、祈りの形に合わせる。
百日まで、あと何日だっただろうか。未だ届いていないのに、神は声を聞き届けてくれた。
「彼に下さった慈悲に、感謝しています。いま、共に神の泉へ駆けてくれることも」
ぴくり、ぴくりと黒い耳が揺れた。
前脚が強く空を蹴り、ぐん、と雪車は速度を上げる。風が頬を撫で、過ぎった。
はは、と隣で大神官が笑う。
「この神様。純粋な祈りに弱いんだ。困ったときは願うといい、聞いてはくれるからさ」
『サフィア、後で覚えてな、よ!』
また、ぐん、と速度が増す。犬の口は開き、ハアハアと息を零す。
力を封じられながらも、時間を惜しんでくれているのが分かった。車体を掴んだまま、ただ駆ける。
見据える先には、闇が広がっていた。
唇を噛み、慌てて扉を開けて部屋を出る。廊下の途中、神官部屋との中間地点で、走ってくる大神官と鉢合わせた。
「何があった!?」
「あ、あの。アーキズが! 大きな狼に、攫われて……!」
必死で説明を続けると、段々と大神官の顔色が悪くなっていく。
あぁ……、と唇からか細い声が漏れた。床に膝をついたその人を支えるように、腕を回す。
「成程な。賭け、か」
「あの。何が起きているんですか?」
「説明する。が、クロノ神が姿を消したなら、十中八九、代わりにあいつが来るはずなんだが……」
そう大神官が言った途端、遠くから犬の情けない鳴き声が響いてくる。ほっとしたように、大神官は立ち上がった。
鳴き声の元は、先ほどアーキズを連れて行かれた開け放しの窓からだ。大神官が部屋に飛び込むと、黒い毛玉が突っ込んでくる。
『サフィア! 神の泉が見つからないよー!』
「そんな事言ってる場合か! 今までなにしてたんだ、このぼんくら!」
サフィア……そう呼ばれた大神官は、両手のひらで黒い毛玉の顔を挟み込む。
先ほど見た大狼に似ているが、こちらは少し小柄で耳が丸く、目の色も違っている。足の先だけが白かった。
身体は大きく見えるが、間違いなく犬だ。犬なのに、喋っている言葉が分かる。
「一体、なにが……?」
「ティリア。この犬が『ニュクス神の仮の姿』だ」
「仮の姿?」
ニュクス神は自国を守護する偉大な神であり、アーキズを祟った存在だ。決して、このかわいらしい大型犬ではない。
ない、はず、と思いながら、首を傾げる。
「力を奪われてるな。この姿のまま変化できなくなってる」
「はぁ。神使としての姿に、固定されてしまったようなものですか?」
「そんな感じだ」
そもそも、これが神です、とひゃんひゃんと鳴いている大型犬を指さされても困る。
今まで祈っていたのは、何だったのだろうか。私が呆然としていると、目の前に申し訳なさげに尻尾を垂らした犬が歩いてくる。
『申し訳ない。百日の祈りが届いたから、祟りを鎮めなくちゃ、って思ったんだ。けれど、その際、父上に相談したら面白がられてしまって』
百日の祈り、とは神祠で毎日捧げていた祈りのことだろう。
届いていたのか、という感動と、それを知っている目の前の存在が確かに神であることの動揺に、気が遠くなってくる。
「ち、父上、とは……?」
「隣国、キルシュ国を守護するクロノ神のことだ」
「……ああ。ナーキア地区に縁のある方、ですね」
クロノ神。その名で呼ばれる隣国を守護する神の伝説には、いくつか目を通した。
岩を割って水を湧かせた、というような民に寄り添う逸話も数多いが、他の神と比べて異色なのが、騒動の起点となる逸話だ。
善にも悪にも寄らず、ただ混乱を面白がる。遊び好きの性質が、その性質が招いた騒乱が、現在進行形で増えている。
恋話もお好みのようで、『二人が結ばれる』というような神託が多いのも、クロノ神の特徴とされていた。
「ええ、と。つまり、ニュクス神は、私の祈りを聞き届けて、アーキズへの祟りを鎮めようとしたけれど。出来ず」
そこまで言ったところで、犬の頭が更に下がった。尻尾も地べたに沈んだ。
つい手を伸ばし、頭を撫でてしまう。
「父神であるクロノ神に相談したところ、『叶えてほしくば明日の昼までに神の泉に辿り着け』そう言われた、と」
『でも、ずっと探してるのに父上が泉を隠して、探させないようにしてるんだよ……。力も奪われちゃったし……』
ニュクス神はその場に伏せ、またひゃんひゃんと鳴き始めた。
隣に屈み込んだサフィア大神官は、べしり、と犬の頭をはたく。
「しかもアーキズって奴、人質に取られたぞ。『賭けに勝ったら貰う』そうだ」
『えぇ……』
犬は情けない声を上げ、床を転がっている。
端から見れば可愛らしい光景だが、あの犬の中身は自国の神である。こんなに心中複雑な気分になることもそうあるまい。
サフィアは私たちに少し待つように言うと、自室から紙の束を持って戻ってきた。
「これは神の泉があるとされる、山の地図だ。ニコ、今までどういう経路で泉を探っていたのか教えてくれ」
「『ニコ』?」
尋ねると、黒犬は得意げに鼻先を持ち上げた。
『愛称だよ』
「ニュクス神、だから?」
『そう。呼びやすいでしょう』
君もそう呼んでもいいよ、と言い置いて、犬は地図に近づいていく。
ぺたり、ぺたりと汚れた肉球を置きながら、辿った経路を示していく。それらを書き記していたサフィアは、突然困ったような声を上げる。
私も地図を覗き込む。道として図示されている場所は、既に通った、と赤い印が全て書き込まれていた。
「殆どの道は通ってるし、虱潰しに歩けてはいるな」
『二日間、探すのに歩き通しだったからね』
誇らしげに胸を張る犬の頭を、サフィアはぐりぐりと撫でたくる。
つまり、物理的には調べ終えたのだが、神の泉はどこにも見つからない、という状況だ。
二人の横で、私はそっと手を上げる。
「神の泉、というのはあの伝説にある泉ですよね。この世のものとは思えないほど、綺麗な水が湧き出す場所。けれど、泉のある土地には、招かれなければ入ることはできない」
「そうだ。賭けとしては最悪の内容だよ。なんで受けた?」
犬は、今度は耳を垂らした。
話を聞く限り全てが後手後手なのは間違いないのだが、追求されてしょんぼりしている姿を見ると、こちらが悪いことをしている気分になってくる。
『承諾した後で、賭けの内容を言われたんだ……』
「勉強になったな。お前の父上、割と性格悪いぞ」
『それは、身に沁みた』
はぁ、と息を吐くニュクス神……と呼ぶには可愛らしい存在を撫でると、サフィアは地図を持ち上げる。
漏れがないか確認している様子だが、赤で塗りつぶされた地図に、白は見当たらなかった。
「取り敢えず、現地へ行きませんか? 歩いていたら、うっかり見つかるかもしれないし」
「そうだな。クロノ神がいなくなって、行動の縛りはなくなった」
その場に立ち上がり、服を着替えると、鞄を抱えて部屋を出る。先に出ていた二人を追って部屋に行くと、こちらも準備は整っていた。
サフィアは鞄を持ち上げ、犬に取っ手を咥えさせる。
「……そういえば、大神官様は、なんでその。クロノ神に従っていたんですか?」
「従わされてた、って感じだな。ニコも押さえられてたし、妙なこと喋ろうとしたら喉が絞まってた。悪かったな」
「いえ。協力してくれるのは、有難いです」
彼は、私たちを包み込むように指先で円を描く。
だが、指先で引こうとした線は途中で掻き消えてしまう。
「あ」
「あ?」
「転移術を使おうと思ったんだが、ニコの力の大部分が封じられてるんじゃ、大きな術は使えないな。移動、どうするか……」
顎に手を当てて考え込んだサフィアに対し、大型犬は鼻先を擦りつける。
遠慮なく押し退けられ、再度ひゃん、と鳴くと、犬は口を開く。
『雪車を出してくれたら、僕が引いていくよ』
「まあ、それくらいなら今の力でも出せるが……。ナーキアは遠いぞ」
『全力疾走すれば、朝までには着く』
サフィアは今度は細い線を引き、両手を広げた大きさに収まるほどの円を描く。
円の中心からは雪国で使われる雪車と、引く動物に取り付けるための胴輪が出てくる。かなり古いもののようで、壊れては継ぎ接ぎして使い続けられていることが窺えた。
犬はうきうきした気持ちを隠さないまま胴輪を取り付けられ、車体の部分を私たちに向ける。
「え……? あの、外に運んでから乗った方が……」
犬の形状をした自国の守護神が朝まで走り続けるつもりである事にも、若干引いていたが、それよりも室内で雪車に乗ろうとしている事にも理解が追いつかない。
私の言葉に、サフィアは納得したように頷く。
「確かに、窓開けないとな」
広い窓を開け放つと、外から冷たい風が吹き込んでくる。
サフィアは私に構うことなく、荷台の部分に乗り込んだ。室内で出発準備を整えている犬と、荷台の後ろ半分を残して乗り込んでいる大神官。
笑いたいのに笑えない私が、心底可哀想だった。
視線で圧を掛けられ、荷台に乗り込む。
『出発!』
「進行」
二人が声を揃えた途端、ふわりと雪車が空中に浮き上がる。二人して身を屈めて窓を通り抜けると、サフィアは手慣れた様子で外から窓を閉める。
何もない空中にあたかも道があるように、犬は四つ脚を動かす。雪車は、前進を始めた。
「ティリアは、高いところは平気か?」
「大丈夫です。……なんですかこれ?」
「足の裏に神の力を纏わせて浮く、って方法で浮いてる。昔、信徒が少なくて、神様として力がまだ弱かった時、よく使ってた技だな。だから、力の大部分を奪われても作動する」
本来、ニュクス神としての力はもっと強大なものだそうだが、誓約をしてしまった所為で担保として父神……クロノ神に力を握られてしまっているらしい。
雪車で空中を駆けながら、実はもっと力のある神で、と説明されるのだが、犬に言われても納得しかねるのが正直なところだった。
寒い中で空中を駆ければ冷たいはずなのだが、周囲には熱が保たれている。力の出所は、大神官からのようだ。
「もし、昼までに神の泉に辿り着けなかったら、クロノ神はアーキズをどうするんですか?」
「あちらの神殿から出られないようにされて、小間使いとして使われる、とかかな」
「大目に見てくれることは……?」
「まあ、数年働いたら飽きてくれるかもしれない」
数年、とは私にとっても、彼にとっても長い期間だった。結婚の適齢期である彼を、その時期が過ぎるまで神殿に閉じ込めることになるのは、あまりにも心苦しい。
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「ああ、あれ。当時の国境を跨いでたから埋めた」
「埋めたんですか!? 神の井戸を?」
「知らずに子どもが遊びに使ってて、割と大事になってさ」
ううん、と頭を抱え、細かい記述を思い返す。
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「飴食べる?」
「大神官様。なんでちょっと場慣れしてる感あるんですか?」
「場慣れしてるんだよ。あの方と数百年渡り合ってるからな」
確かに自分の信仰する神が力を封じられ、その父神に脅されながらも、割と平然と仕事をこなしていたように思う。
はぁ、と飴を受け取り、口の中に転がした。果汁にはない甘みが口の中を満たす。
「……アーキズが隣国の神殿に入るなら、私も入ろうかなぁ」
「お、いいぞ。その意気だ。大体のことは、何とかなるもんだからな」
しばらく黙って飴を転がしていると、上方には満天の星が見える。
ニュクス神は、星空を統べる神だ。一条の流れ星のように、雪車は冬空を滑空する。
「なあ」
「なんですか」
「アーキズのこと好きなの?」
つい飴を詰まらせそうになって、ごほごほと咳き込む。
原因を作った大神官様は丁寧に、私の背を撫でた。
「……もうずっと、片思いです」
「だろうなと思った。まあ、いい男だよな。自分の身を顧みず、誰かを守れる」
「あの。でも、ニュクス神には悪いことを……」
そう言いかけると、ぴん、と立っていた犬の耳が萎れた。
「ニコ。謝らなくていいのか?」
『……いやだ』
「お前な」
『いくらサフィアでも、あの像を大切に思っていた僕の心を蔑ろにすることは許さない』
「だったら、ティリアを守りたかったアーキズの感情だって大切にしろ」
犬はぎり、と牙を噛みしめると、ふい、と顔を逸らした。
祟った事でアーキズに起きた不都合を解消してくれるつもりはあるが、当時の怒りはまだ収まっていないようだ。
幼馴染みが壊した像は、サフィアを模したものだと言っていた。
本人は許しても、他人が許さない事はままある。本人の自己愛よりも重い愛を、その人に抱く人物が、この世には存在するからだ。
「ニュクス神」
『なにかな?』
「当時、お怒りだった気持ちは、私には動かしようがないものです。けれど、アーキズも十年、とても苦しみ、私は、その姿を近くで見てきました」
指先を、祈りの形に合わせる。
百日まで、あと何日だっただろうか。未だ届いていないのに、神は声を聞き届けてくれた。
「彼に下さった慈悲に、感謝しています。いま、共に神の泉へ駆けてくれることも」
ぴくり、ぴくりと黒い耳が揺れた。
前脚が強く空を蹴り、ぐん、と雪車は速度を上げる。風が頬を撫で、過ぎった。
はは、と隣で大神官が笑う。
「この神様。純粋な祈りに弱いんだ。困ったときは願うといい、聞いてはくれるからさ」
『サフィア、後で覚えてな、よ!』
また、ぐん、と速度が増す。犬の口は開き、ハアハアと息を零す。
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見据える先には、闇が広がっていた。
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