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あの時の事は、今でもよく覚えている。
身体の小さな私をからかい、神像を壊せと持ちかけたいじめっ子、間に入った高位貴族である『アルファの幼馴染み』。止める間もなく、私を庇った幼馴染みの力で像は砕け散った。
その『かみさま』は、優しい方だと聞かされていた。けれど、神様は幼馴染みを許さなかった。
像を砕いたその瞬間、首をきゅっと絞められるような、厭な感覚があったのを覚えている。
アルファとオメガの間には、番という名の関係性が存在する。一対一であり唯一無二、運命だと自他共に認める関係性は、神によって引き合わされる。
神が落とした雷によって生まれた雷管石。
石に魔力を込めれば、波は永久的に保持される。神殿はその雷管石を受け取り、鑑定士が番として相性の良いアルファとオメガを引き合わせる。
けれど、成長した幼馴染みが魔力を込めた石は、その瞬間に砕け散った。二度、三度と繰り返しても同じだった。彼は、相性の良いオメガと巡り会う手段を失ったのだ。
彼の家にも不運が続き、高位貴族であったはずの家は、名ばかりだと噂されるようになった。
幼馴染みの父……当主も、彼を許さなかった。
幼馴染みを勘当すると言い出した当主に対し、間に入ったのは私の父だった。父は私との婚約を取り纏め、彼を自らの跡継ぎにすると伝えた。
祟りはきっと私の家に移る。そう言われていたが、そもそも弱小で貧乏貴族の我が家には、失うものも然程ない。
彼は婚約を受け入れ、私を庇って祟られた幼馴染みは、伴侶になった。
広い寝台の上で、遠い体温を名残惜しく思いながら身を起こす。
目元を擦り、隣を揺らさないよう慣れた動きで寝台を降りる。幼馴染みであり、現在の伴侶は寝台の上で目頭の皺を深く寄せていた。
彼が安らかに眠っている時間は、いつも酷く短い。つい昔のように指先を伸ばしかけ、拳で握り込んだ。
「…………おはよう」
音にならない程度の声量で呟いて、音を立てないよう部屋を出た。途中で衣装室に入って、外套を羽織る。
外はまだ僅かに明るい程度で、屋敷で起きているのは厨房だけだ。明かりの漏れている場所に顔を出すと、料理長が狭い厨房を歩き回っていた。
「おはよう」
「おや、ティリア様。おはようございます」
こん、と喉を鳴らす。短く吸った空気は乾いていた。
「少し喉が痒くて。お湯を貰ってもいい?」
「それは大変だ。朝食に出す柑橘が余っていますので、搾りましょう」
料理長が持ち上げたのは、太陽の色をした果実だ。果皮が美味しそうに照り返しているのを見て、思わず頷いた。
料理の片手間に湯を沸かし、果汁を搾って砂糖を加える。まかない用のカップに注がれたそれを、ゆっくりと両手で受け取った。
厨房の隅にある休憩用の椅子に腰掛け、中身を啜る。酸っぱくて甘い、初恋に例えるにふさわしい味だった。
「今日もまた、神祠へ?」
自らのカップにも湯を入れ、余った果汁を搾って料理長はカップを口元に当てる。壮年のその人は、物心ついた頃からの顔見知りだ。
一人部屋を与えられてすぐ、眠れない夜には牛の乳を温めてくれた。
「うん。アーキズを祟らないでください、って」
「百の日、途切れることなく願い続ければ叶う、でしたか。そろそろ百に届くのでは?」
私は視線を下げ、首を横に振った。目の前を湯気が覆い、白く曇る。
「まだだよ。発情期が来ちゃうと途切れてしまうし、早く終わらせたいな」
沈んでいく声を支えるように、料理長は少し声を張った。
「そうなった時は、私めが代わりに参ってきましょう。薄汚れた料理人が代理で申し訳ないことですが」
「ううん。その時はちゃんとやり直すよ。でもありがとう、嬉しい」
時折、神祠の祭壇にまだ新しい果物が置かれている事がある。この屋敷で食材を管理するのは、目の前の男だけだ。
温かい飲み物で喉を潤し、カップを返した。
「なんで、神様は私を祟ってくれなかったんだろう」
しょんぼりと肩を落とす私の前で、料理長は手早くカップを濯ぐ。
「神像を壊したのは、紛れもなくアーキズ様ですから。人の社会でも、唆しただけの者は重い罪にはなり辛いでしょう」
「けど、人の社会でも共犯はあるよ。私が神像を壊せと言われたのに、庇うように壊した人だけが祟られてしまった」
雷管石に魔力を込めると砕け散るようになった彼とは違い、私は何事もなく魔力を石に込めることができる。
貧乏貴族なれど、祟られた幼馴染み……アーキズの家ほどの影響を受けた様子もない。
私だけが、逃れられてしまった。
「ティリア様が、アーキズ様が神像を壊せと苛められている姿を見ていたら、どうしましたか?」
「…………お父様を呼びに行った、かな。私は、昔から力がないから」
「やはり、貴方は祟られない。神話に綴られた神々は、大抵、自らを害することを躊躇う者を祟ったりはしませんからな」
キュ、と蛇口を捻る音がする。水が止まり、余韻でぽたりと落ちた。
視線は雫を無意識に追って、ふらりと外れた。
「ごめん、長話して。今日のお願いに行ってくる」
「いってらっしゃいませ。……そうだ、朝食の卵はどうしましょう?」
焼き加減のことだ。私はふっと頬を持ち上げた。
「ふわふわで!」
「かしこまりました」
厨房を出ると、廊下を通り、玄関へと辿り着く。外靴に足を通し、扉を開けて冷たい空気を全身に浴びた。
肌を刺すような冷気は、外套の隙間から滑り込んでくる。
「…………ん?」
視線を感じたような気がして、きょろきょろと周囲を見渡す。
屋敷の窓辺に動きはなく、自分が出てきた寝室のカーテンだけが少し開いていた。
気のせいだったか、と思い直し、足を踏み出す。
凍りかけの地面は、少し経つと音を響かせ始めるだろう。寄り添う番のいない冬が、ひたひたと躙り寄っていた。
神祠、と呼ばれる場所は、屋敷の敷地内にある。白石造りの小さな建物で、神様の分身が宿ると言われている場所だ。
古びた扉を押し開けると、外よりもほんの少しだけ暖かい。
「おはようございます。ニュクスさま」
アーキズを祟った神がもっと苛烈な隣国の神だったら、逆に憎めてせいせいしたかもしれない。
けれど、自国に坐します神は、多くの神話において『寛容』であり、人を救い上げる『温和』な神であると言い伝えられる存在だ。
そんな神を怒らせた所為で、なおさら社会はアーキズは許さなくなった。
「お水、取り替えますね」
供えていた水を植物に与え、蛇口から銀の杯へと新しい水を注ぐ。
水面に映る薄紅色の柔らかく纏まりづらい髪は跳ね散らかっており、薄い金色の目は綺麗な水を通してさえ疲れて濁っていた。
神祠へ戻り、杯を捧げる。続けて掃除用具で埃を丁寧に払い、最後に祭壇の前に立った。
定められた所作を行い、指先を離して姿勢を低くする。
「アーキズの番が、無事見つかりますように」
呟いた声は、小さな室内にうわんと響く。
自分の祈りを、自分の罪を、身に叩き込まれているかのようだった。身を起こすと、背後に人の気配がある。
うっすらと開いていた扉が押し開けられた。光と共に入ってきたのは、見慣れた長身の姿だ。
「また祈っているのか」
「……うん。おはよう、アーキズ」
幼馴染みは苦々しげに頭を掻くと、放り投げるように扉を押し遣った。
大股で踏み込んでくると、皺の刻み込まれた眉間の谷をさらに深くする。それでも、彼は私と同じ所作で祈りを済ませた。
寝間着に外套だけを羽織った姿は、私のそれと同じだ。無意識に自分の跳ねた髪に手を伸ばし、こそこそと整えた。
アーキズ・オーク。幼馴染みであり、結婚制度上の、私の伴侶でもあった。
腕っ節の強い彼は、黒髪を戦闘に邪魔にならない長さに整えている。凜々しい顔立ちの中で、夕焼け色の瞳は柔らかくて好きだ。
「祈るのは好きにすればいいが。何も寒い時間に行かなくとも……」
「今日は視察の出発日だから。早めに、と思って」
アーキズは手元に抱えていた羽織を、私の外套へと重ねた。更に寒さが遠くなる。
白くなった指先を羽織に重ね、少し高い身長を見上げる。
「ありがとう。あったかい」
昔は笑い返してくれたのに、今の幼馴染みは直ぐに視線を逸らしてしまう。
向けられた背を追って、無言のまま屋敷へ帰った。
朝食の為に食堂へと向かうと、父は既に椅子に座り、カップを傾けていた。
「おはよう。アーキズ、ティリア」
私に似た、ほわほわとした顔立ちは、屋敷内では緩みっぱなしだ。
アーキズの父……高位貴族の当主と渡り合い、幼馴染みを引き込んだ時の剣幕は何処へやら、である。
「おはようございます。義父上」
「おはよう、お父様」
母様は昨日の視察で疲れたようで、まだ眠っているそうだ。父は柔らかく微笑んで、給仕が運んできた朝食に向き直った。
いちばん早起きな料理長が用意した食事は、地元の安価な食材を使いながらも、今日も見映えのする出来だ。
手を清め、食事に感謝を述べてから食器を手に取った。冷えない内に、と暫くは食事に集中する。
「────そういえば、ティリア。今日から二人に行ってもらう視察だが」
昨日は父母ともに帰りが遅く、今日の説明を受けてはいなかった。
食事の手を止め、名残惜しくも顔を上げる。
「新しくできた道の件だよね。山の付近を通る道が、賊への対応が難しいから、見晴らしのいい地形に新しい道を引いた。道は神殿が大事にしているナーキア地区へ続く道だから、参拝で使う神官さんが途中で泊まれるように、道沿いに何カ所か宿も用意する、って」
ナーキア地区は自領に近い土地ではあるものの、隣国の領地である。隣国が祀っている、クロノ神に縁のある地だ。
アーキズを祟り、自国で祀られるニュクス神から見れば、クロノ神は父神にあたる。よって、我が国の神殿も縁のある神としてナーキア地区を大事に扱っている。
最近、問題になっているのがナーキア地区へと続く道中での、賊の襲撃だ。人を遣って警戒させても、山道では地形を上手く使って金品をせしめてしまう。
特に被害に遭っていたのが、自国からナーキアへ参拝に訪れる信心深い人々や神官達だった。
人々が安心して通れる道にするため、警備がしやすい見晴らしのいい土地に、広い道路を引くことになったのだ。
私の言葉を父は嬉しそうに聞き、言葉を継いだ。
「数日かけて、その新しくできた道を辿る形で道と宿の視察を行ってもらう。話しそびれていたのは、同行者についてだ」
「同行者?」
問い返したのは、アーキズだった。
泊まり掛けになる、と概要だけを聞き、使用人に荷造りを頼んではいるが、幼馴染み以外の同行者については初耳だ。
「ああ。道ができたことを神殿に報告したところ。大神官様が新しい道に対して祝福を与えてくださる、と。急な話だが、今回の視察にも同行されることになった」
私とアーキズは、無意識に視線を合わせていた。
幼馴染みは、神に祟られた人物だ。神祠はともかく、これまで大神官のいる神殿にはあまり近づこうとはしなかった。
二人の間で、スープの湯気がぼんやりと揺れる。
「勿論、アーキズが同行してもいいかは尋ねてある。大神官様は『構わない』と」
私は、味のしない唾液を飲み込んだ。
神像は神殿の管理物であり、壊したことについて好い気はしないはずだ。けれど、道を作るのは、参拝にナーキアを訪れる神官の為にもなる。
今回の視察については、大目に見てくれるという事だろうか。
「数百年代替わりをしていない、他に類を見ない大神官様だ。彼が国を出て行けば、ニュクス神の加護も国から離れてしまうだろう。くれぐれも、失礼のないようにな」
「私が生まれた時から同じ姿をしているような人に、失礼なんてできる筈ないよ」
神の代弁者、とも扱われる大神官は、少なくとも私が生まれてから姿を変えていない。ずっと青年、と呼べる年齢のままだ。
数百年前の絵姿もまた、同じ顔をしている。強大な神術を行使する彼を、国民は、信徒は、人間だと扱わない。神話に描かれる、神使のような存在と観ている。
「アーキズ。大神官様とは私がたくさんお話しするね。神殿で学ぶような事、少し囓ってたし、祟りが鎮まる方法がないか、探ってみるよ」
一時期、どうにかアーキズに関する祟りを鎮められないかと、神殿で扱う教習本を取り寄せ、神話などにも多く目を通した。
結果には繋がらなかったが、大神官との話題くらいにはなるだろう。
私を見て、伴侶であるはずのその人は、未だ熱いカップを揺らす。
「……ああ。俺は、あまり口を開かないようにする」
一緒に、神話にあった恋物語の頁を捲った日を思い出す。あの時、私は物語越しに、彼の横顔を盗み見ていた。
今、少し不安げに縮んだ肩を支えたくとも、指先は凍り付いている。
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