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「おかえり、レナード」

「ただいま」

 最初に泊まった日の翌日に、僕は彼の家の合鍵を受け取った。暗くならないうちに家に来てほしいが、彼が仕事を終えるのは夜だ。だから、僕が合鍵を持っていないと来訪が成立しない、そう言っていた。

 毎日迎えに来てもらうのも良くないか、と僕は鍵を受け取った。それからは、ほぼ毎日のように家を訪れている。

 頻繁に訪れていればすぐに顔色の改善を指摘されて、この習慣は終わると思っていた。だが、レナードはなにも言わない。僕が訪れると嬉しそうに受け入れ、料理を振る舞っている。

 だが、今日の料理人はレナードだけではなかった。彼は肩に掛けていた鞄を下ろし、台所に並んだ食材を見る。

「それで足りるか?」

「大丈夫。挽肉を捏ねて丸めて、野菜と一緒に煮ようと思っているんだ」

 料理を作ってもらってばかりだから、偶には僕が作る、と提案したのだった。全く料理経験がない僕に、彼は料理の提案をして、僕は言われたとおりに食材を買い揃えた。

 料理の準備を整えると、並んで台所に立つ。

「はい、これ」

 皮剥き用の器具を手渡され、もう片方の手には洗った芋を手渡される。誰でもできるような皮剥きを、おっかなびっくりで始める。

 いちいちレナードに確認を取りながら、ようやく一個を剥き終わった。

「料理って、大変なんだな……」

「楽になるこつもあるし、手間を楽しむこともできるよ。はい、もう一個」

 横ではナイフで皮剥きをしている料理人の姿がある。手渡された芋に取りかかると、無言で皮を剥いた。

 僕が二個の芋を剥き終える間に、その他の野菜は皮を剥かれ、切り終わっている。

「交代」

 手元のナイフを渡され、剥き終えた芋で半分の位置を確認する。利き手と反対の手が危ない、と指摘を受け、指先が刃先に近付かないよう丸めた。まずは半分に切り、更に半分に切り進めていく。

 平行に刃を当て、上から手のひらで力を込めるのだが、レナードはもう少し自然に切り落とせた気がする。相手を見て首を傾げると、交代、とお手本が始まった。相手の刃先の動きを見ていると、垂直に押したのが悪かったらしい。

 再度ナイフを受け取って、今度は力を掛けずに切り分けることができた。ほっとしてナイフを置く。

「できた!」

「おめでとう」

 傍らでは湯を沸かし始めており、切られた野菜は沸騰した鍋に放り込まれる。挽肉に野菜と香辛料を加えて捏ねたり整形したり、焼いて更に煮て、と手順は多かったが、導かれるままに工程を踏めば料理は出来上がっていく。

 あとは煮込むだけになった鍋に蓋をすると、休憩、と台所から僕の背を押して出ていった。

「疲れた?」

 珍しく二人並んでソファに腰掛けて、問い掛けられた言葉に首を振る。

「あっという間に終わってしまった」

「そう。じゃあ、また美味しいものを作ろうね」

 こくん、と頷き返し、緊張で強張った名残がある指先を曲げ伸ばした。ことり、ことり、と沸騰している音が細く届き、僕たちが休んでいる間にも何かが変化していく。

 隣に投げ出されている掌に視線をやると、以前にも気になった火傷の痕があった。指を伸ばしてその場所に触ると、こちらに視線だけをやったレナードが、あぁ、と気の抜けた声を上げる。

「引き攣った部分は残るかもしれないけど、いずれ薄くなるよ。気になる?」

「ああ、どうしたのかと思って」

「躓いて、湯だった鍋に思いきり押し付けた」

「聞くだけで痛い」

 顔を歪めると、彼はくつくつと喉だけで笑った。ニッセも気を付けて、と言われ、返事をする。

「そういう時、料理が嫌になることはあるか」

「下準備も片付けもある。だから、いつでもそうだよ。それでも、いつも美味しいものができると上書きされる。ニッセはそういうことはない?」

 魔術式を作ること、魔術式を試すこと、魔術式を起動すること。これらの中に、僕は何かを見出していただろうか。

 僕は答えを求めようとして、呆然としてしまった。

「……僕が魔術師になったのは、魔力が多かったからだな」

「適性があったから、ってこと?」

「ああ。人命に関わる魔術式を作る課程には、途方もない試行が要る。だから、魔力を多く持っているのは都合がいい」

 膝の上で指先を組んだ。僕の述べた理由、にレナードは煮え切らないように唸った。

「魔術式を作るのは好き?」

「……好きか嫌いよりも、それがやるべきこと、だから」

「それは、人命が懸かっているから?」

 問いかけは静かだったが、低い声音を僕は恐れた。察しが悪い訳ではないから、あえてそう声を作っているに違いない。

 暴かれたくない部分を、掘り起こそうとする声だ。

「…………そうだ。でも、それは根本的な理由ではない」

 彼は言うだけいって黙りこくった。これから先は僕が言わなければ意味がない、とでも言いたげだ。

 巧妙に逃げ道を防がれたことに気づいていながら、僕は捕らえられることを是とした。

「母は、僕を産むときに体内の多くを傷付けた。覚えている最も古い記憶の母は、ずっと寝台で過ごしていた。僕が学校に通うくらいの歳には段々と起き上がれるようになったが、それは医療技術の発展に伴う幸運に過ぎない」

 何かの歯車を掛け違えれば、母はもうこの世にいなかった。だから、僕は母方の関係者には頭が上がらない。神殿に雷管石を持っていくなんて面倒なこと、他の誰から要求されても断っていた。

「適性もあった。だが、一番の理由は償いだと思う。好き、も、嫌い、も持ちたくない、どちらも失った時に、やりたくなくなってしまうから。僕は、装置や機構のように、使える時間の精一杯まで、この仕事がしたい」

 誰かに、ここまで深い話をしただろうか、と思った。隣にいるアルファは、僕の話を黙って聞いている。

 大きさの違う掌が伸びてきて、手が捕まった。

「俺が家に誘ったのは、迷惑だった?」

 答えを間違えたら、関係を壊すだろうな、と思った。だから、黙り込んで言葉を選ぶ。

「……普段の僕なら、そうだったと思う。でも、何だか。分からなくて」

「分からない?」

「料理が美味しいことも、居心地がいいことも、よく眠れることも。そんなもの、僕の身体が持つのなら放っておくべきなんだ。償いたいと思うのなら、自分の……幸せだと感じることは、選ぶべきではない、のに、僕はずっとそればかり選んでしまって……」

 縋るように、繋いだ手を握り返した。立ち止まっている場所から、手を引かれてでも抜け出したかった。

「…………迷いながら、明日もまた僕はここに来るんだと思う」

 はっきりと、静かな室内に声が響いた。彼の手が、繋いだ手を持ち上げた。ぶらり、と二人の間で揺れる指を見つめる。

「いま、君をすごく抱きしめたいんだけど。飛び込んで来てくれる?」

「それは……、たぶん駄目だ」

「俺が嫌いだから?」

「……居心地がいいところ、だから」

 くく、とレナードは笑って、僕との距離を詰めた。強い力で肩を抱かれ、腰を持ち上げられて、彼の胸元に飛び込む形になる。

 満足そうに喉を鳴らす音に、僕は諦めて力を抜いた。

「ニッセは、俺が困っている、と言った症状を治そうとするよね?」

「ああ」

「同じだよ。俺は君にも、何事もなくあってほしい」

 美味しい料理を食べて、居心地がいい場所で過ごして、よく眠ってほしい。僕が選ぶべきではないことを、彼は選んでくれ、と言う。

「君が償いたい、と思う気持ちは尊重したい。けれど、君が少しでも俺を大切だと思ってくれるのなら、俺が守りたいものも守ってね」

 抱きしめられ、ただ僕の頭を撫でるだけだ。胸がぎゅう、と引き絞られて、ずっと煩い。毛布を経由した匂いじゃなく、間近に彼の匂いがある。

 抱き返せもせず、ただ近くにある服だけを握り締めた。鼓動を隠すには、あまりにも周囲が静かすぎる。

「────そろそろ、鍋を見てくるね」

「……あ。……うん、よろしく頼む」

 鍋から漏れる匂いが変わったのか、時間を意識していたのか。彼は身体を離して立ち上がった。

 料理の出来は良かったらしく、深い皿に盛り付けてくれる。自分の中から雑味が消えていったような心地で、自分で切った芋も、捏ねた肉も文句なく美味しかった。

 交代で身体を洗い、貰った寝間着を身に付ける。

 編まない所為で広がる髪を櫛で丁寧に解かしていると、背に流れた分はレナードが梳いて軽く纏めてくれた。

 そろそろ寝ようか、という時間になった頃、僕は考えていた提案を切り出す。

「今日は僕がソファで寝る」

「え? いや、俺の方が頑丈だよ」

「いつもソファで寝ていたら、身体だって強張る。それに、肉体仕事なのはレナードのほうだ」

 譲らない、と言うようにソファに沈み込むと、彼は困ったように頭を掻いた。すぐに諦めるだろうと思ったが、我慢比べのようにどちらも引かない。

「俺が大切にしているものを守って、ってお願いしたばかりだよ」

「だったら、僕が大事にしてるものだって守ってくれ。同じことだ」

 互いが互いを思い遣っているが故の平行線だった。

 初めて喧嘩のように意見が対立したのだが、それにしては内容は平和だ。視線を合わせられても、ぜんぜん怖くない。向けられた瞳を同じだけ見つめ返した。

 はあ、と諦めたのはレナードだった。

「分かった。床を掃除して布団を広げるから、端っこと端っこで寝よう」

「はしっことはしっこで寝るのなら、別に同じ寝台で良くないか」

 ぴたり、と彼の動きが止まり、視線が僕から逸らされる。

「布団を下ろして、寝るときの距離を離そうと努力したところで、何が変わるとも思えない」

 僕が言い募ると、その言葉は刺さったようだ。諦めたように息が吐き出された。

「俺は、君を番候補だと思ってるアルファだよ」

「家に招く時に、僕に手を出せないから安全だ、という体で招いておいて、そう言うのは矛盾している」

「…………ニッセに口で勝てる気がしない」

 これまで散々丸め込んできたのだから、お互い様だ。立ち上がり、行くぞ、と腕を引くと、項垂れた図体のでかい男がとぼとぼと付いてきた。

 慣れた手順で照明を操作して、もう何日も泊まった寝台に潜り込む。後を追うようにいつも嗅いでいた匂いの主が毛布を持ち上げた。

 隣に寝転がると、思った通り匂いが強い。彼のほうの寝間着を捕まえると、ぎょっとしたように身を引かれた。

「別に、男性器を触ったりしないが」

「触ったら俺は悲鳴を上げるよ!」

 おずおずと近付くことを許す姿勢に、どちらがアルファか分かったものではないな、と目を丸くした。けれど、それからは僕が近寄っても極端な反応をすることもない。

 首筋に鼻先を寄せて、息を吸った。

「触ったら、勃つかもしれないのに?」

「そうでも駄目。ニッセが一緒に寝たいのなら尚更だよ」

 レナードが憂えていることを取り除きたい。出来ることを試したいのに、目の前の男は頑なだ。

 そっと足先を伸ばして、彼の脚の間に挟み込んだ。そのままするりと太腿を擦り付ける。

「…………ニッセ」

「脚もだめか」

「動揺したし、この変化が良い効果を齎すかもしれないけれど、もう……許して」

 萎んでいった声に、悪いことをしたなと眉を下げる。ごめん、と呟きながら抱き付いて、もぞもぞと毛布の中で彼の背に手を回した。ぎゅう、と抱き付くと互いの鼓動すらも聞こえそうだ。

「あのね……」

「抱き付くのもだめか」

 背から手を離すと、互いの隙間を作って寝転がる。番候補だとか言ったのは向こうなのに、意見が揺れるのがもどかしい。

 隣から手が伸びて、僕の手を握った。互いの指を絡め、簡単には離れないようにする。

「手を繋ぐのはいいのか」

「そうだね」

 ゆるりと境を解いて、彼の魔力に己のそれを混ぜる。上手くやらないと気づかれてしまうし、相性が悪ければ体調を崩しかねない。けれど、疲れていたのか、隣からはさほど経たずに寝息が聞こえてきた。

 相手が寝ているのをいいことに、繋いだ掌を手繰って身体を寄せる。ぴったりとくっつけば、容易く体温は移ってしまった。




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