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しおりを挟む国立病院の隅も隅。患者が森林浴に使うための庭の中に、僕の住居兼、仕事場はある。
昔は院内にある医療魔術師が集まる課に籍を置いていたが、当時、上司と気が合わずに辞職のための届を出した。
そのまま国外の大病院にでも職場を移そうかと思っていたが、僕が構築した医療魔術式を手放したくない、という思惑があった国の意向が僕を留めた。
国からの指示で病院の片隅にあった小屋が改修され、僕だけの一人部署が作られた。
『これまで僕が構築した魔術式を病院で使用させること。そして、定期的に新しい医療魔術式を構築し、病院に提供さえすれば従来どおり給料を払う』
僕は提示された条件を飲み、使う時間も少なかった住居すらそちらに移したのだった。
木造の小屋は、一人で住むには十分であるはずの広さだ。だが、部屋の中には荷物が多すぎる。
模型、書籍、実験器具に薬の材料。他人が立ち入るのならもっと片付けるが、一人で全てが完結する以上、本の横に干した動物の骨が転がっているほうが効率的だ。骨の使い方は隣に置いてある本に書かれている。
天井と壁は木目の落ち着いた色味だが、部屋の中は様々な色で溢れかえっている。模型の中には来訪者に怖がられるような代物も多く、雑多な印象は否めなかった。
「…………眠い」
だが、その日は例外だった。
朝早くに毛布の塊から顔を出し、通い慣れた飛び石を踏むように部屋を突っ切る。実験場と化している台所で、まだ黴が見えないパンを咥えた。そのまま部屋に戻り、おそらくソファを置いていたであろう場所の本を魔術で浮かし始めた。
今日は、病院の同僚が挨拶に来る予定だ。
彼女は子どもが生まれることを理由に病院を休職中である。子も大きくなり復職予定だが、その前に挨拶に来たい、と連絡をくれた。院内で関係の深かった相手の打診には、人避けしているとはいえ直ぐに承諾した。
そして、こうやって彼女が座る場所を確保している。
ソファが顔を見せ始めると、舞った埃を逃がすために窓を開け放つ。ついでにぱたぱたとはたきを掛け、玄関からこの部屋までの通路を確保した。部屋が汚いのはいいが、埃は良くない。
「どれくらいの風を起こしたものか……」
下手すると書類が吹き飛びかねない。まずは浮きやすい物を避難させてから、風を起こす魔術を使った。部屋中の埃が窓の外に運ばれていき、すう、と吸った空気に透明感が戻る。
ふむ、と顎に手を当てた。
「もう少し磨き上げるか」
埃が吹き飛んだとしても、吹き飛ばない微小な存在たちはいる。
まだ新しい布地を取り出し、水で湿らせて机とソファを拭き上げた。更に水の中に薬品を落とし、固く絞って同じ場所を拭く。
一度やり始めるとつい夢中になってしまって、客人が通るかもしれない部屋を次々と拭き清めていった。まだ上がっていなかった日が視界に入るようになり、昼らしく日差しも強くなる。
途中で鏡の前を通る。
髪は、他者に提供するために伸ばし続けている。くすんだ草色の髪は、結う暇もなく背に広がっていた。同僚から貰った髪留めを鏡近くに挟んでいたのに気づき、首あたりで軽く留める。
日差しと同じ色の瞳と視線が合うが、時間に追われてさっと逸らした。
真っ黒になった雑巾を洗い終わり、客に出すものが何も無いことに気づいた瞬間、呼び鈴が鳴った。
清潔な水以上に人を選ばない飲み物はない。そう言い聞かせながら、玄関で同僚を出迎える。
病院内での陽だまりのような同僚は、今日は見慣れぬ華やかな色の私服を身に纏っていた。ただでさえ明るい日差しを、惜しみなく振りまくように挨拶をする。
「久しぶり! ニッセ。……相変わらずみたいね。肌が毛羽立ってるし隈も酷いわ。ねえ、ちゃんと食事取ってる?」
「久しぶりだな、ミィヤ。君の素晴らしい観察眼が曇っていなくて良かった」
「間違いであって欲しかったわ。貴方が健康に暮らしてるって事だもの」
差し出された手土産を受け取り、靴箱の奥から引き出した室内履きを差し出す。僕は手土産を持ち上げ、彼女に尋ねた。
「茶菓子がないんだ。今からこれを食べないか?」
「だと思った。どうせ茶葉も無いんでしょう、わたしはお湯も好きよ」
すまん、と手短に謝罪をする。彼女は苦笑して室内履きに足を通した。
磨き上げた廊下を抜け、洗面台を貸して手を洗う彼女を見守った。それから居間へと向かう。ミィヤは部屋が片付いていることに驚いていた。だが、軽く片付いていない部屋の扉を開けてみせると、懐かしそうに声を上げた。
僕は台所に入り、洗っておいたカップに沸かした湯を注ぐ。ソファの前にあるテーブルにカップを置き、彼女からの手土産を開封して並べた。中身は小分けされた焼き菓子だ。
「美味そうだ」
「でしょう」
彼女をソファに座らせ、僕は向かいに持ってきた古い椅子に腰掛ける。ミィヤはお湯を一口啜り、美味しい、と皮肉った。
僕が窓に視線を逃がすと、けらけらと笑う。
「相変わらず忙しそうね」
「あぁ。だが仕事だしな。ミィヤも……女の子だったか、家族が増えてから生活は落ち着いたか?」
「ぜんぜん落ち着かないわね。でも、仕事を再開する目処は立ったかなって所かしら」
「ああ、悪い。そういった事に疎くて」
彼女の前に貰った焼き菓子を包装ごと積み上げると、ミィヤは指先でその塔を崩した。
転がり落ちた包みを拾い上げて中身を取り出し、口に含む。ふわふわとした生地が歯でほろりと崩れた。
「いいの、忙しさを愚痴りたかっただけ。……復帰は来月からになりそうなの。また頼ることもあると思うわ、よろしくね」
「ああ。復帰後、部署は変わらないのか?」
「異動になるわよ。意図してはいなかったけど、子どもが生まれてから接しているうちに、あの年齢の魔力の傾向が掴めてきたのよね。だから、折角だしそっちの部署に異動することにしたの」
医療魔術師である彼女は、口から喉、そして体内では呼吸に関わる範囲が担当だったはずだ。異動後は、子ども特有の病を担当する部署に移るらしい。
僕には担当というものはないが、子ども特有の病と、その際に魔力の波がどう変化するかにはあまりにも疎い。これまで構築してきた魔術にも、その分野のものはなかった。
口から菓子を離し、包み紙の上に置く。
「羨ましいな。子どもの魔力はぶれが大きく、身体への影響も固有のものがある。体内の育ち方だって違うし、接触が少なければ実用の経験が積みにくい」
「そうね。わたしにとっても、思いがけないところで知識が得られたというか。波にもぶれが大きい上に、身体が小さくて魔力が与える影響も大きい。魔術を使うのも一苦労なのよ」
彼女は僕と同じくオメガだが、彼女の娘もまた魔力が多いらしい。言葉で子ども特有の事情について説明してくれるのだが、感覚的なものを差し引いても真新しい情報ばかりだった。
顎を撫でながら、ミィヤの話に聞き入る。
「羨ましい。小児への縁がなくてなぁ……、実家に帰れば甥姪には会えるんだろうが」
「ニッセは帰る暇もないでしょうね」
それだけが理由でもないのだが、話す理由もない。建前上、彼女の言葉に同意する。
「仕事に時間を使うのを否定はしないけれど、仕事から離れるのも悪くはなかったわよ」
ミィヤはさらりと言い切り、自分の手土産の包みを開いた。柔らかく手元で生地を割り、口に運ぶ。
チチチ、と窓の外で鳥が鳴く。
カーテンを開けた光の届く部屋で、のんびりと菓子を食べているのが不思議な気分だった。仕事を終えれば次の仕事を用意する。こうやって誰かとただ話すだけの時間を作るのは久しぶりのことだ。
「ニッセは。最近、変わったことはあった?」
彼女が首を傾げると、綺麗に梳かれた髪が耳から落ちる。仕事の話をすれば引っぱたかれかねない、と数少ない私事を引っ張り出した。
「あー……。親戚から連絡が来て、魔力を込めた雷管石を神殿に持ってこいと言われた」
「え? そんなことがあるの?」
「母は、元は貴族の出なんだ。父が古くからある商人の家だったから結婚自体は問題なかったが。……それで、貴族である母方の親族経由で、『位の高い貴族が厄介な病に罹って、至急、番を探さなければいけなくなった』と。だから『雷管石を神殿に提出していない者は差し出すように』と言われた」
自国の中で、アルファ、そしてオメガについては特別な扱いを受ける。
オメガは命さえも産み出す生命力を転じることで魔力を多く有し、魔術師への適性がある。アルファは体格や力、知性に優れ、国の中枢を担っている。そしてこの両者が番となることでの益が大きいため、神殿がアルファとオメガを積極的に取り持つのだ。
神が雷を落とせばその場には雷管石が生じ、石は魔力の波形を吸収して保持できる。雷管石に魔力を込め、神殿に預ける。そうすると所属している鑑定士が、番として相性のよい人を込められた魔力から読み取り、紹介してくれるのだ。
「位が高い貴族の番を見付けるために、雷管石を神殿に集める、ねぇ……。そんな事ができるものなのね」
ああ、と頷いて連絡があった頃を思い出す。
もし、番として相性がいいアルファが見付かっても正直なところ面倒だ。だが、母方の関係者からの連絡であることが、断ることを許さなかった。仕方なく魔力を込めた雷管石を神殿へと預けたのだが、取り返したい気持ちでいっぱいだ。
僕は腕を組み、長く息を吐く。
「実際、もうその貴族の番は見付かったらしいんだ。だから僕はお役御免なのに、神殿は雷管石を返してくれなくて」
「そりゃ返さないでしょ……」
引いたように声量を落とすミィヤからみても、神殿に石を返せ、と言う事は有り得ない感覚なようだ。番が見付かることは良い事とされているし、そもそも僕が預けたのだろう、と言われれば、首は縦にしか振れない。
「番が見付かってしまったら、仕事の調整をしなくてはならない。人命が懸かっているから、病院も国もあれが欲しいこれが欲しい、といくら魔術式を作っても次を要求する。忙しいままでいたら、相手と一緒に食事をしているあいだ頭の中で魔術式を作りかねないぞ」
「流石にそれは仕事の方を調整してあげなさいよ……。番ができたんなら国だって病院だって黙るでしょ。皮肉として言うけど、貴方の才能を継いだ次代だって欲しいはずよ」
「別に皮肉じゃなく事実だろう。僕の魔力量は珍しいから、僕自身も魔力の質が良いアルファを捕まえてみたい、という好奇心はある」
目の前でミィヤがげっと口を歪める。彼女らしくない、反射的に出てしまった表情だった。
「分かってると思うけど。それを理由に番を選ぶんじゃないわよ」
「第一希望は、番はいらない、だ。選ばざるを得ないなら……。────自分の身体は他人を巻き込まない優秀な実験材料だ、と僕は常々思っている」
唇を持ち上げてみせると、ミィヤは笑い返したりはしなかった。太腿の上に肘を突いて、手のひらに顎を預ける。
「……実体験から言うけど、もし相性の良い相手が見付かったら、その実験は捨てることになると思うわ」
彼女は静かにそう言う。番を持つオメガとしての声色は、示唆に富んでいた。
二人の間に静寂が横たわり、葉が擦れる音さえも届く。気まずさではなく、僕は彼女の言葉を受け止め、自分が発した言葉を反芻していた。
あ、と、何事かを思い出したようにミィヤが手を叩く。彼女はごそごそと鞄を開くと、中から数枚の封筒を取りだした。
机に広げた封筒の宛名には、僕の名前がある。
「これ。病院に寄った時に預かってきたの、ニッセへの手紙」
「……ああ。…………────あれ、これは神殿の」
神殿からの手紙を裏返すと、神殿に属する鑑定士の名前がある。
『ドワーズ』
たしか、僕の石を受け取った鑑定士の名だったはずだ。
封筒を見下ろして、ミィヤは目をぱちぱちと瞬かせる。
「何だろ。雷管石を返してくれるのかしらね?」
「そうだと良いがな」
「…………開けないの?」
「仕方ないな」
封筒を開き、中の紙を取り出して開いた。ざり、と皮膚と紙が擦れて濁った音が立つ。
『────同じ時期に多数に連絡する都合から、お手紙にて失礼します。先日お預かりした雷管石を元に、魔力相性の良い相手が見付かりました。なるべく早くご紹介したく思っています。つきましては────』
文字に素早く目を通して、便箋ごと目の前の机に放り投げる。拾い上げてもいいのか、ちらちらと視線を向けているミィヤに、好きにしろ、と呟いて目元を手で覆った。
彼女はそっと便箋を拾い上げ、丁寧に中身を読み進める。窓から差す光が角度を変え、便箋の裏に影を作った。
「…………あら。噂なんてするものじゃないわね」
「全くだ」
しばらく頭を抱えて動かなくなった僕に、ミィヤは手元にある菓子の包みを二つばかし僕の側に寄せる。
頬袋よろしく両頬に菓子を詰め込むと、彼女は愉快そうに笑いを堪えていた。
神殿と連絡を取り、魔力相性の良い相手、とやらを紹介してもらうことにした。逃げられるものなら逃げたかったが、相手からも断られる様子はなく、頷く他ない。僕にだって罪悪感はあるのだ。
相手は、数年前から雷管石を神殿に預けていたようだ。僕が石を預けなかったから、こうやって会う時期が延びてしまった。
朝から長く伸びた髪を後ろに流し、丁寧に梳る。思考を纏める間に指先を動かして耳の上で編み上げ、背後で纏めた。髪を手入れする時間は、思考に適している。辿り着いた結論が、会ってみて考えよう、という逃げだとしても。
「服か……」
手持ちの中で、顔色がましに見える服を選んで身に付ける。母から贈られた品は生地が上質で、選ばれた装飾は小振りの花のように適度に慎ましい。鏡の前に立つと、普段の自分よりは幾分かましに見えた。
よそ行き用の靴は埃を被っていた。破れがないことにほっと胸をなでおろし、足を通す。
小屋の結界を念入りに閉じ、慣れない靴で固めた土の上を歩いた。病院の敷地を抜け、街中に出る。叩く地面が石畳へと変わり、靴底との間で聞き慣れない音を立てた。
たくさんの不安と、奥にある高揚。コトン、コトン、と等間隔に思えるも、僅かに整いきれない音が耳に届く。
「ゆっくり街を歩くのも。久しぶりだな……」
呼び込みの声を躱し、広い道を選んで神殿へ向かう。受付のような場所で受け取った手紙を元に話すと、話が通っていたようで個室へと案内された。
部屋は小さいが、窓からの光が届く清潔感のある部屋だ。話をするのに使われる部屋らしく、机と椅子以外には目立った家具もない。
椅子に腰掛けていた青年は、僕の顔を見ると立ち上がる。以前、世話になった鑑定士のドワーズだった。
服は白を基調としており、ゆったりとした所作、纏う空気も神官に似ている。
「お久しぶりです。結果が出るのが遅れてすみません。普段ならその場で結果をお伝えするのですが、なにぶん一気に雷管石が届き、神殿も手間取っておりまして……」
謝罪の言葉に、いや、と気にしないよう伝える。もっと遅くてもいいくらいだ。
「それで、相性がいいと言われたお相手の方は……」
「まだいらっしゃっていないようです。掛けてお待ちください」
勧められた椅子に腰を下ろす。向かいに腰掛けたドワーズに、興味本位で問い掛けた。
「雷管石が一気に届いた、というのはやはり僕と同じく……」
「ええ、ヴィリディ家から出た通達の影響ですね。我々もここまで雷管石が皆様の手元にあったとは思いもせず、人員配置が追いつかなくて」
「あぁ……。僕も何と言うか、時期を逃した、とでも言いましょうか」
僕が気まずげに言うと、ドワーズはいえ、と穏やかに言葉を返した。
「それぞれに事情がおありでしょうから。神殿を訪れた時が、来るべき時だった、と思いますよ」
「そう、いうものですか……?」
「ええ。……でもこれ、まるっきり神官の受け売りなんですが」
茶目っ気のある声音にほっと表情を和らげたところで、部屋の外から扉を叩く音がした。ドワーズが返事をする。
扉から顔を出したのは、この部屋に案内してくれた職員だった。
「失礼します。面会の予定だった──……」
僕の視線は、その人物の背後にいる人物に釘付けだった。
長身で身体を動かすことに慣れた体格。短く切った髪は金髪よりも橙に近い色味で、視線が合った瞳は晴天を映した色をしていた。
前髪が短い所為か、長い睫もぱっちりとした瞳も見えやすい。その瞳が見開かれたのもすぐに分かった。
引継ぎが終わり、進み出た男が僕に手を差し伸べる。躊躇いをおくびにも出さず、その手を取って名乗った。
「初めまして、ニッセといいます」
「レナードです、どうぞよろしく」
快活に笑う男は、手をきゅっと握り締めた。オメガ相手に気を遣っているのだろう、力はやんわりとしたものだ。
腕は太く、重たいものを持ち慣れている事が分かる。掌の皮は分厚い。そして、指先には火傷の痕が残っていた。
「鋳金、にしては範囲が狭い。……料理、をする仕事…………?」
ふと、考えが口に出てしまった。僕の言葉に彼は驚いたように目を丸くして、こくこくと頷いた。
「そう! よく分かったね。食いしんぼうなのが顔に出てたかな」
「いや、髪型と手でそう思った。……だが、言われてみれば、その口は食べるのが好きそうだ」
とと、と言い過ぎた気がして口元を押さえるが、気分を害した様子はない。
自己紹介を終え、絡んだ視線を解くと、レナードは思い出したように紙袋をドワーズに差し出した。鑑定士は礼を言いながら受け取っている。
「ニッセ。君には店のお菓子じゃなく、俺に作らせてね」
「…………どうも」
胸に手を当てて言う彼に、押されるように礼を返した。
ドワーズは、僕とレナードに雷管石の入った小箱を返却する。神殿はこの後は関知しない、とのことだが、部屋は話をするのに使ってもいいそうだ。
レナードとの間で事務連絡と少しの雑談をして、ドワーズは退室していった。
「少し、話をしてもいいかな?」
明るさの中に僅かな緊張を感じて、背筋を伸ばす。
彼はドワーズが座っていた椅子に腰掛けると、僕に微笑みかけた。アルファにしては、攻撃的なところがない。
「俺は、近くの通りで店をやっているんだ。生まれはもっと南のほうで、地元で何年か修行して、こっちで店を始めた。一度、ニッセにも食べに来て欲しいな」
南国の空が焼き付いたような瞳だ、とひとり納得した。
「ああ、そうだな。僕は国立病院で医療魔術師をしている。住んでいるのも病院の敷地内だ。だから、店まではそう遠くない」
「そうなんだ。俺の家も店の近くだよ、よければ家にも来ない?」
僕は言葉を溜め、彼を見つめ返した。にこにこと上機嫌な彼に、下心は欠片も見えない。表面上は、ただ僕に菓子を振る舞いたいというだけの料理人だ。
僕は机の上に両手を差し出す。
「レナード。もう一度、手を借りてもいいか?」
「どうぞ、喜んで」
彼は大きな手を差し出し、僕のそれと向かい合わせに握った。意識して魔力の境を崩し、相手の魔力を受け容れる。魔力にとげとげしいものはなく、ただ暖かく揺蕩うような魔力だった。けれど、探っていくと僅かに妙な波がある。
彼の掌を手繰って、腕にぺたぺたと指を這わせる。
「生死に関わる訳ではない、が、身体に困ったところはないか……?」
彼の精神は崩れていないが、不安が見え隠れする。僕の言葉に、ほう、とレナードは息を吐く。
「伝えようと思っていたんだけど、ほんとうに医療魔術師を相手に隠し事はできないんだね」
彼は目を伏せ、僕の手のひらを両手で包み込んだ。隠していた不安の波が、表に出てくる。
「実は、勃たないんだ」
「…………ああ。勃起不全か」
「伝わって嬉しいよ」
レナードは一年ほど前に、入院するほどの事故に遭ったらしい。
近くを通っていた馬車が泥道に蛇行し、巻き込まれた形だった。全身の骨があちこち折れ、復帰までには数ヶ月かかったそうだ。料理ができる位に身体は戻ったが、それを機に人を管理する立場へと仕事も転換することにした。
「復帰した直後は、仕事の立て直しに忙しすぎて気づかなくて。『何処かの打ち所が悪かった』んだろう。めっきり勃たなくなっていた。身体はもう元通りの筈だから、精神的なものかもしれない、と。定期的に通院をして、原因を探っているところだよ」
「うちの病院か?」
「そうだね。ニッセにも見覚えがあるよ」
だから、ああも驚いていたのだろうか。
続けて魔力を流してみるが、身体の構造に問題はなさそうだ。機能が回復した後で、身体が戻ったことを認識できていないような気がする。
真剣に探っている僕に、レナードは申し訳なさそうに言葉を続けた。
「神殿にはもう石を預けてしまっていたから、事故の後で回収しようと思っていたんだけど、身体はいずれ治るのでは、と断られてしまってね。……もし、君と番いたくとも、俺は、発情期に入れないかもしれない」
「いや。発情期に入っても勃たない。……だろう……から。治してから発情期には入った方がいいな」
「そうか。……君は俺を探しに神殿に来てくれたのに、こんな時期に会うことになるなんて」
しょんぼりと肩を落とす彼は、先程の快活さとは打って変わって厭な波が身体を支配している。精神が身体に負荷を掛けているとき特有の形状は、続けていたら治るものも治らない、医療魔術師が嫌がる波だった。
力がなくなってしまった手を、逆に握り締める。
「僕も忙しくて、レナードとしっかり時間が取れるか不安に思っていた。それに、僕にとっても初めての事で、ゆっくり関係を進めていけるなら好都合だ。身体だってまだ若い、神殿が言うように、いずれ治るさ」
ぽん、と手の甲を叩くと、厭な波が和らぐ。
折角だから、と僕の魔力を流し込んだ。相性がいい、と言うだけあって、上手く受け容れて変化していく。いっそ変化した波で魔力を上書きする方が、刺激になって回復に繋がるかもしれない。
僕にとって、彼は都合が良い相手、だった。これから付き合いをしなければならないとしたら、何もかもが理想の相手だ。
「ニッセが許してくれるなら。これからも時々、会ってくれる?」
「ああ、構わない」
レナードは、僕の手のひらを愛おしげに擦った。彼の魔力は触れていても嫌悪感がない。鑑定士の見立てというのは、正確なようだ。
「今日、これから家に招待してもいいかな? 俺は、その。君をどうこうしたりはできないし、何なら玄関を開けっぱなしにしても、ずっと離れた場所にいてもいい。……少しでも、いいところを見せたくて」
彼は甘い笑みとともに、とっておきの口説き文句を口に出した。
「甘いもの、好き?」
同僚が大量に入った菓子を選んで持ってくるほど、僕は甘いものには目がない。というか、自分で作ることができない分、手作りの料理に魅力を感じる質だ。
口の中に唾が湧いて、ごくり、とそれを飲み干す。
「…………好きだ」
「良かった。市場に果物を選びに行かない? 好きなもので料理するよ」
こくん、と頷き、彼と視線を合わせる。あまりにも見つめてくるものだから、気恥ずかしくて視線を落とした。
ずっと繋ぎっぱなしだった手が目に入る。僕が見つめていることに気づいて、そっとレナードは指先を離した。
離れていく魔力に抱いた感情は見知らぬもので、指を見つめて握り込んだ。ふわふわと空の上にでも浮かんでいるような、妙な心地だった。
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