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村雨とは、朗らかに食事を終え、特に連絡先を交換することなく別れた。
ファンであり、アルファであろう相手に下心を感じさせるのも嫌だったし、また映画の話をしたければいつも通り映画館に行けばいるはずだ。
翌週の水曜日も、僕は変わらず映画館へ足を運んだ。その日は快晴で、半袖のシャツを着ていても暑い。日光で赤く腫れる肌にぺたぺたと日焼け止めを塗り足しながら、日陰から日陰へと乗り継ぐ。
映画館の前にあるポスターを眺めて、次の映画の入れ代わり時期を確認する。今日の映画を見終えたら、村雨に会うのはまた先になりそうだ。
「おはよう」
横から聞き覚えのある声が掛かった。振り返ると、ぱたぱたと忙しなく手を振る村雨がいる。服こそ軽装だったが、顔を覆っているものは暑そうだ。
「おはよう。今日はこっち?」
ポスターを指差すと、村雨が頷く。
「じゃあ、また一緒だな」
「そっか。今日もランチ食べてく?」
僕は瞬きをすると、表情がほとんど覆われた顔を見上げる。食事の間は、綺麗な顔がすぐ近くに見えて気分が上がった。
考える前に、頷いていた。
「今日は、奢らなくていいからな」
「俺はどっちでもいいよ。じゃあ、そうしようか」
二人揃って受付に並ぶと、受付係は意外そうに目を見開く。ただ、それを口にすることなく、いつも通りチケットに日付印を打った。
それぞれ規定の料金を支払い、チケットを受け取る。喫茶店にも二人で行って、それぞれテイクアウト用の飲み物を買った。
エレベーターは村雨がボタンを押してくれて、頭を下げながら中に入る。
「この前、喫茶店から出て別れた後でさ。連絡先、聞いておけば良かったな、って思って」
「え? 何か忘れ物でもしたのか?」
直ぐに目的の階に到着し、開ボタンを押された状態のまま外へ促される。また頭を下げて外に出た。
二人してエレベーターから降りると、村雨は頬を掻いた。
「もうちょっと喋りたかったな、って」
「あぁ、僕も」
これだけ言うと、単純に村雨に興味があるとか、取り入ろうとしている、と思われるだろうか。下心が見えないよう、慌てて言葉を続けた。
「あの映画の主演男優の前作について、喋りたかったのを忘れていたんだ」
「…………ああ。そっか、彼が出ていた前作は全くタイプ違いのホラーサスペンスだったね」
「そう。あの国のホラーって、まだ型が作られている最中だから面白くて」
二人揃って壁際に歩み寄り、色褪せた壁に並んでもたれ掛かる。椅子は半分ほど埋まっていた。
静かな空間の中で、大声で喋る訳にもいかずにぽそぽそと声を出した。
「連絡先、なあ……。交換自体は構わないけど、僕の仕事柄、付き合いがあると貴方のほうが周囲にいい顔をされないと思うが」
僕の仕事はライターだ。
とはいっても仕事の範囲は広く、主に物を書く、くらいの意味でライターと名乗っている。映画をよく見るのも、運営しているサイトの一つが映画レビューを取り扱っているからだ。
僕は芸能ゴシップは取り扱わないが、似たような仕事をしている人の中には、そういったものを追いかけている人もいる。
だから、芸能人である村雨と付き合いを持つことを不安に思い、ランチの途中で職業のことは伝えていた。彼は、態度を変えることはなかった。
「教えてもらったサイトも見たし、君の本名で仕事も追えたけど、俺が付き合って都合が悪そうには思えなかったよ」
「仲間に芸能ライターがいたら、とか……」
「そういう人なら、俺が聞く前に自分から連絡先を聞くでしょ」
そりゃそうだ、と同意すると、隣でくすくすと笑い声がした。まったく僕を警戒していない彼にこうやって釘を刺すのだが、村雨は僕を信用する姿勢を崩さない。
人がいい。まだしっかり話したのはあの一度きりなのに。
「僕みたいなのを、あんまり信用しないでくれ」
「まあ、君ときちんと話したのは今日で二度目だけど、近くをうろちょろしていたら、分かることもあるよ。チケットを買うときに話してる内容とか、こうやって席を譲っている事とか、いつも後ろの席を選んでるとか。あとは、そうだな、今日の映画は君がパンフレットを買うんじゃないかな、とかね」
村雨の言葉は図星だ。不思議な設定とラブストーリーを組み合わせたようなこの作品のあらすじは、興味を引くものだった。
恋愛もの自体は忌避感なく見るのだが、すこしぶっ飛んでいるくらいの話が豪快で好きだ。
ただ、よくあることだが、監督も出演者もあまり馴染みがないのが不安だった。
「なんで?」
「面白い作品を見た後、パンフレットないかな、って売店スペースを見てるから。見てた作品の傾向で」
「本当にちゃんと人の観察をしているんだな。職業病?」
「……まあね」
視線を天井に投げている横顔を、不思議に思いながら見上げる。こうやって見上げていると、相手がアルファだということを実感する。
僕はオメガの典型である繊細な容姿は持ち合わせておらず、ベータに思われることばかりだ。仕事柄、都合良く勘違いを利用することが多いが、今回もそれに助けられている。
ライターという職業も、オメガという性別も、ファンだという事実も、彼に近寄るには、都合が悪い要素ばかりだ。だからずっと、話しかけたりなんてしなかった。
シアターの扉が開かれ、係員にチケットを見せながら中に入る。村雨はいつもの席に向かって歩き始め、僕は別れるようにその場に留まろうとした。
数歩さきに進んで、村雨はこちらを振り返る。
「たまには、もうちょっと前で観るのはどう?」
こっち、と手招きされた先は、彼がよく座っている席の隣だった。躊躇いがちに近付き、一つ空いた座席に座ろうとすると、僅かに眉が下がる。
本当に表情が分かりやすいな、と思いながら、席を詰めた。
「お邪魔します」
「どうぞ」
別に隣で見る必要はないのに、彼は僕を、新しい友人だ、とでも思ってくれているんだろうか。座り慣れない席で、もぞりと尻を浮かせた。
村雨の存在を意識していたのも映画の序盤までで、ストーリーが進むにつれてスクリーンしか目に入らなくなる。
不思議設定は極彩色の画で描かれ、現実に戻って来てラブストーリーが進行する時には一気に現実の風景へと引き戻された。予算も潤沢ではないだろうに、セットは丁寧で、つい部屋の隅に視線を向けてしまった。
海辺のラストシーンからエンドロールが終わり、はっと現実に引き戻される。一気に隣の存在が輪郭を浮かび上がらせ、僕はばっとそちらを見た。
「面白かったね」
「うん。面白かった」
「パンフ買う?」
「……あったら買うと思う」
僕の言葉に、村雨は予想通り、とでも言いたげに唇をゆるめる。人が捌けていくのを見送り、行くぞ、と彼の肩をはたいた。
普段は一人で出て行くシアターの扉を、二人して潜る。飲み終えたカップをゴミ箱に捨てると、階段を降りて喫茶店に向かった。
今日は外は晴れ。時間も丁度よく、外から見ると店内は客で埋まっていた。ランチに同意していてなんだが、彼が素顔を晒して食事をするには店が狭いように感じてしまった。
入り口付近で、彼の服の裾を引く。
「……あのさ。他の客が多いのに、いいのか? ちょうど満席みたいだし、ほか探す?」
「あぁ……」
村雨も同じように中を見て、満席に見える店内に踏みとどまる。他の店の案について話をしていると、マスターが入り口の扉を開いた。
「こんにちは」
「あ、こんにちは。すみません、満席みたいだったから。どうしようかなって……」
村雨の言葉に、マスターは店内に視線をやる。
「ああ。狭くてもよろしければ、奥に一室あるので。そちらはどうですか?」
村雨と顔を見合わせる。個室の方が都合がよく、二人して頷いた。
通されたのは、カウンターの横に設けられている扉の奥だ。扉を開けて中に入ると、テーブルが一つと椅子が四つだけ置かれた部屋になっていた。
広いとはいえないが、喫茶店と同じように落ち着いたレイアウトで、人目に付かないのは有難い。
「いい席ですね」
「ありがとうございます。普段は満席になることもないので閉めていて、管理が行き届いていなかったら申し訳ない。でも、ゆっくりできますよ」
そう言われるが、特に埃っぽくもない。
マスターは部屋の隅に開きっぱなしにされていた古いパンフレットを閉じると、本棚に並べ直し、部屋を出て行った。
お冷やの用意をしているであろうマスターが戻ってくるまでに、メニューを決める。といっても、お互いに前回と変わりなかった。
水と交代に注文を伝え、マスターが去っていくと一気に静かになる。店内のざわめきも遠かった。
「最近は映画館によく来るけど、オフなのか?」
「うん。映画の撮影も落ち着いたし、ちょっと休養中というかね……」
切れ味の悪い言葉に、突っ込んで聞くべきか迷った。だが、たった二度目の食事相手に、語ってくれるような事でもないだろう。
唇にグラスを当て、ざらついた表面を湿らせる。
「たまにはいいんじゃないか。僕も休むのが苦手で、長く休むと逆に何をしていいか分からない」
「そうなんだよなぁ。あんまり長期休暇を経験してこなかったから。……なんか、これをしたら、ってオススメなことはある?」
「うーん。色々、あるけど……僕は単純に家にいないかな。家にいても、あんまり書くネタが生まれないから────」
脳が電気信号で動いている、と実感するのはその時だ。人の動き、自然の流れ、自分の身の回りに起きる出来事が、次の記事への刺激を結んでいく。
締め切り前はもちろん家に籠もるのだが、だからこそ、外へ出ることが僕にとって興味を引くことだ。
拙くしか伝えられない話も、村雨はゆったり相槌を打ちながら聞いてくれた。
「俺ももっと外に出ないと、だね」
「そのうち何か見付かるかもしれないしな」
「うん。いいかも。……山吹くんも付いてきてよ」
試すような視線の先、眦はゆるりと垂れている。朗らかで人当たりの良い顔なのに、本気か冗談か分からないのだけは難だ。
「暇だったらな」
「今日は暇?」
「締切に余裕はある。が、今から出歩くなら……」
どうしようか、ふだん行く場所、二人で行くと楽しい場所を思い起こす。いっそ、彼が行きそうにないような場所がいいだろうか。
「思いっきり外がいいかな。海、山、川、プール……、遊園地、動物園」
「いま挙げた場所、確かに撮影以外じゃ行かないなあ」
「もう昼だし、今から移動するなら遊園地とか動物園かな。つっても暑いし、移動しつつ時間潰して、夜間開園あるとこ探す? 夜なら、村雨さんがマスク外したってまあ、ばれないだろ」
「夜間開園かぁ……夏って感じがする」
彼の声が跳ね上がる。興味を持ったらしい様子にほっとしつつ、どうせ夜に動こうとするのなら、予定を立てる間を時間潰しに当ててしまえばいい。
「食べ終わったら本屋に行くか。雑誌見て、行くとこ決めよ。時間の都合が悪かったら別日に時間作るから」
「そう? 嬉しいなあ」
近くにある遊園地の話をしていると、ランチメニューが届いた。マスターはまた気を効かせて取り皿を用意してくれ、ゆっくりと個室を出ていった。今日も二人で分けよう、と示し合わせていたのが分かってしまったらしい。
半分ずつ取り分け、うきうきと小ぢんまりしたシロップの入ったポットを傾ける村雨を見守る。この部屋は涼しいが、外はぎらぎらとした日差しが肌を灼くことだろう。
憂鬱なはずなのに、唇は楽しみにするかのように上向きに曲がっていた。
ファンであり、アルファであろう相手に下心を感じさせるのも嫌だったし、また映画の話をしたければいつも通り映画館に行けばいるはずだ。
翌週の水曜日も、僕は変わらず映画館へ足を運んだ。その日は快晴で、半袖のシャツを着ていても暑い。日光で赤く腫れる肌にぺたぺたと日焼け止めを塗り足しながら、日陰から日陰へと乗り継ぐ。
映画館の前にあるポスターを眺めて、次の映画の入れ代わり時期を確認する。今日の映画を見終えたら、村雨に会うのはまた先になりそうだ。
「おはよう」
横から聞き覚えのある声が掛かった。振り返ると、ぱたぱたと忙しなく手を振る村雨がいる。服こそ軽装だったが、顔を覆っているものは暑そうだ。
「おはよう。今日はこっち?」
ポスターを指差すと、村雨が頷く。
「じゃあ、また一緒だな」
「そっか。今日もランチ食べてく?」
僕は瞬きをすると、表情がほとんど覆われた顔を見上げる。食事の間は、綺麗な顔がすぐ近くに見えて気分が上がった。
考える前に、頷いていた。
「今日は、奢らなくていいからな」
「俺はどっちでもいいよ。じゃあ、そうしようか」
二人揃って受付に並ぶと、受付係は意外そうに目を見開く。ただ、それを口にすることなく、いつも通りチケットに日付印を打った。
それぞれ規定の料金を支払い、チケットを受け取る。喫茶店にも二人で行って、それぞれテイクアウト用の飲み物を買った。
エレベーターは村雨がボタンを押してくれて、頭を下げながら中に入る。
「この前、喫茶店から出て別れた後でさ。連絡先、聞いておけば良かったな、って思って」
「え? 何か忘れ物でもしたのか?」
直ぐに目的の階に到着し、開ボタンを押された状態のまま外へ促される。また頭を下げて外に出た。
二人してエレベーターから降りると、村雨は頬を掻いた。
「もうちょっと喋りたかったな、って」
「あぁ、僕も」
これだけ言うと、単純に村雨に興味があるとか、取り入ろうとしている、と思われるだろうか。下心が見えないよう、慌てて言葉を続けた。
「あの映画の主演男優の前作について、喋りたかったのを忘れていたんだ」
「…………ああ。そっか、彼が出ていた前作は全くタイプ違いのホラーサスペンスだったね」
「そう。あの国のホラーって、まだ型が作られている最中だから面白くて」
二人揃って壁際に歩み寄り、色褪せた壁に並んでもたれ掛かる。椅子は半分ほど埋まっていた。
静かな空間の中で、大声で喋る訳にもいかずにぽそぽそと声を出した。
「連絡先、なあ……。交換自体は構わないけど、僕の仕事柄、付き合いがあると貴方のほうが周囲にいい顔をされないと思うが」
僕の仕事はライターだ。
とはいっても仕事の範囲は広く、主に物を書く、くらいの意味でライターと名乗っている。映画をよく見るのも、運営しているサイトの一つが映画レビューを取り扱っているからだ。
僕は芸能ゴシップは取り扱わないが、似たような仕事をしている人の中には、そういったものを追いかけている人もいる。
だから、芸能人である村雨と付き合いを持つことを不安に思い、ランチの途中で職業のことは伝えていた。彼は、態度を変えることはなかった。
「教えてもらったサイトも見たし、君の本名で仕事も追えたけど、俺が付き合って都合が悪そうには思えなかったよ」
「仲間に芸能ライターがいたら、とか……」
「そういう人なら、俺が聞く前に自分から連絡先を聞くでしょ」
そりゃそうだ、と同意すると、隣でくすくすと笑い声がした。まったく僕を警戒していない彼にこうやって釘を刺すのだが、村雨は僕を信用する姿勢を崩さない。
人がいい。まだしっかり話したのはあの一度きりなのに。
「僕みたいなのを、あんまり信用しないでくれ」
「まあ、君ときちんと話したのは今日で二度目だけど、近くをうろちょろしていたら、分かることもあるよ。チケットを買うときに話してる内容とか、こうやって席を譲っている事とか、いつも後ろの席を選んでるとか。あとは、そうだな、今日の映画は君がパンフレットを買うんじゃないかな、とかね」
村雨の言葉は図星だ。不思議な設定とラブストーリーを組み合わせたようなこの作品のあらすじは、興味を引くものだった。
恋愛もの自体は忌避感なく見るのだが、すこしぶっ飛んでいるくらいの話が豪快で好きだ。
ただ、よくあることだが、監督も出演者もあまり馴染みがないのが不安だった。
「なんで?」
「面白い作品を見た後、パンフレットないかな、って売店スペースを見てるから。見てた作品の傾向で」
「本当にちゃんと人の観察をしているんだな。職業病?」
「……まあね」
視線を天井に投げている横顔を、不思議に思いながら見上げる。こうやって見上げていると、相手がアルファだということを実感する。
僕はオメガの典型である繊細な容姿は持ち合わせておらず、ベータに思われることばかりだ。仕事柄、都合良く勘違いを利用することが多いが、今回もそれに助けられている。
ライターという職業も、オメガという性別も、ファンだという事実も、彼に近寄るには、都合が悪い要素ばかりだ。だからずっと、話しかけたりなんてしなかった。
シアターの扉が開かれ、係員にチケットを見せながら中に入る。村雨はいつもの席に向かって歩き始め、僕は別れるようにその場に留まろうとした。
数歩さきに進んで、村雨はこちらを振り返る。
「たまには、もうちょっと前で観るのはどう?」
こっち、と手招きされた先は、彼がよく座っている席の隣だった。躊躇いがちに近付き、一つ空いた座席に座ろうとすると、僅かに眉が下がる。
本当に表情が分かりやすいな、と思いながら、席を詰めた。
「お邪魔します」
「どうぞ」
別に隣で見る必要はないのに、彼は僕を、新しい友人だ、とでも思ってくれているんだろうか。座り慣れない席で、もぞりと尻を浮かせた。
村雨の存在を意識していたのも映画の序盤までで、ストーリーが進むにつれてスクリーンしか目に入らなくなる。
不思議設定は極彩色の画で描かれ、現実に戻って来てラブストーリーが進行する時には一気に現実の風景へと引き戻された。予算も潤沢ではないだろうに、セットは丁寧で、つい部屋の隅に視線を向けてしまった。
海辺のラストシーンからエンドロールが終わり、はっと現実に引き戻される。一気に隣の存在が輪郭を浮かび上がらせ、僕はばっとそちらを見た。
「面白かったね」
「うん。面白かった」
「パンフ買う?」
「……あったら買うと思う」
僕の言葉に、村雨は予想通り、とでも言いたげに唇をゆるめる。人が捌けていくのを見送り、行くぞ、と彼の肩をはたいた。
普段は一人で出て行くシアターの扉を、二人して潜る。飲み終えたカップをゴミ箱に捨てると、階段を降りて喫茶店に向かった。
今日は外は晴れ。時間も丁度よく、外から見ると店内は客で埋まっていた。ランチに同意していてなんだが、彼が素顔を晒して食事をするには店が狭いように感じてしまった。
入り口付近で、彼の服の裾を引く。
「……あのさ。他の客が多いのに、いいのか? ちょうど満席みたいだし、ほか探す?」
「あぁ……」
村雨も同じように中を見て、満席に見える店内に踏みとどまる。他の店の案について話をしていると、マスターが入り口の扉を開いた。
「こんにちは」
「あ、こんにちは。すみません、満席みたいだったから。どうしようかなって……」
村雨の言葉に、マスターは店内に視線をやる。
「ああ。狭くてもよろしければ、奥に一室あるので。そちらはどうですか?」
村雨と顔を見合わせる。個室の方が都合がよく、二人して頷いた。
通されたのは、カウンターの横に設けられている扉の奥だ。扉を開けて中に入ると、テーブルが一つと椅子が四つだけ置かれた部屋になっていた。
広いとはいえないが、喫茶店と同じように落ち着いたレイアウトで、人目に付かないのは有難い。
「いい席ですね」
「ありがとうございます。普段は満席になることもないので閉めていて、管理が行き届いていなかったら申し訳ない。でも、ゆっくりできますよ」
そう言われるが、特に埃っぽくもない。
マスターは部屋の隅に開きっぱなしにされていた古いパンフレットを閉じると、本棚に並べ直し、部屋を出て行った。
お冷やの用意をしているであろうマスターが戻ってくるまでに、メニューを決める。といっても、お互いに前回と変わりなかった。
水と交代に注文を伝え、マスターが去っていくと一気に静かになる。店内のざわめきも遠かった。
「最近は映画館によく来るけど、オフなのか?」
「うん。映画の撮影も落ち着いたし、ちょっと休養中というかね……」
切れ味の悪い言葉に、突っ込んで聞くべきか迷った。だが、たった二度目の食事相手に、語ってくれるような事でもないだろう。
唇にグラスを当て、ざらついた表面を湿らせる。
「たまにはいいんじゃないか。僕も休むのが苦手で、長く休むと逆に何をしていいか分からない」
「そうなんだよなぁ。あんまり長期休暇を経験してこなかったから。……なんか、これをしたら、ってオススメなことはある?」
「うーん。色々、あるけど……僕は単純に家にいないかな。家にいても、あんまり書くネタが生まれないから────」
脳が電気信号で動いている、と実感するのはその時だ。人の動き、自然の流れ、自分の身の回りに起きる出来事が、次の記事への刺激を結んでいく。
締め切り前はもちろん家に籠もるのだが、だからこそ、外へ出ることが僕にとって興味を引くことだ。
拙くしか伝えられない話も、村雨はゆったり相槌を打ちながら聞いてくれた。
「俺ももっと外に出ないと、だね」
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「うん。いいかも。……山吹くんも付いてきてよ」
試すような視線の先、眦はゆるりと垂れている。朗らかで人当たりの良い顔なのに、本気か冗談か分からないのだけは難だ。
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どうしようか、ふだん行く場所、二人で行くと楽しい場所を思い起こす。いっそ、彼が行きそうにないような場所がいいだろうか。
「思いっきり外がいいかな。海、山、川、プール……、遊園地、動物園」
「いま挙げた場所、確かに撮影以外じゃ行かないなあ」
「もう昼だし、今から移動するなら遊園地とか動物園かな。つっても暑いし、移動しつつ時間潰して、夜間開園あるとこ探す? 夜なら、村雨さんがマスク外したってまあ、ばれないだろ」
「夜間開園かぁ……夏って感じがする」
彼の声が跳ね上がる。興味を持ったらしい様子にほっとしつつ、どうせ夜に動こうとするのなら、予定を立てる間を時間潰しに当ててしまえばいい。
「食べ終わったら本屋に行くか。雑誌見て、行くとこ決めよ。時間の都合が悪かったら別日に時間作るから」
「そう? 嬉しいなあ」
近くにある遊園地の話をしていると、ランチメニューが届いた。マスターはまた気を効かせて取り皿を用意してくれ、ゆっくりと個室を出ていった。今日も二人で分けよう、と示し合わせていたのが分かってしまったらしい。
半分ずつ取り分け、うきうきと小ぢんまりしたシロップの入ったポットを傾ける村雨を見守る。この部屋は涼しいが、外はぎらぎらとした日差しが肌を灼くことだろう。
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