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【人物】
山吹 稔(やまぶき みのる)
村雨 永登/村雨 映人(むらさめ えいと)

叶 隆生(かのう りゅうせい)
/鹿生 隆(かのう りゅう)

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 水曜日の最初の上映回。左右から見たら中央あたり、前後で見たら後ろあたり。同じ座席にあのアルファは座っている。

 村雨映人。

 テレビや映画を見るなら先ず耳にする名だ。子役時代から俳優を続け、若手と呼ばれなくなってからも、途切れることなく出演作品を増やしている。

 コメディ物の主演、恋愛物の当て馬、刑事物のおちゃらけた片腕。

 好青年、と誰から見ても言われるくらい毒の無い顔立ちで、役以外では髪型はすっきりと整っている。濃茶の髪色も、あまり薄く染められることはない。

 彼の顔を思い出すときは、朗らかな笑い顔を思い浮かべることになる。同じように芸歴を重ねてきた叶隆生と比較して、二枚目と三枚目、と言われがちな、顔は整っているわりに損な役どころが多い人物だ。

 それでも僕は、二枚目よりも三枚目の彼をよく目で追い、インタビュー雑誌を手に取ったり、出演作には目を通すようにしていた。

 最初に興味を持ったのは初期の出演作で、評判は芳しくない作品だった。今は有名な俳優として活躍している彼にしては、なんというか、そのネームドな筈の登場人物は、一通行人と言えるくらい覇気が無かった。

 次に観たのは、新しい作品だった。同じ人物が演じているかと思うくらい、画面をその登場人物が彩っていた。一人の人間が、こんなにも変化する、という事実が面白かった。

 恋愛対象というより、一介のファンのつもりでいる。だから、近付きたいという欲はなく、ずっと通っている映画館でなかったら、恐れ多くて行くのをやめているだろう。

 オフで映画館にいる時の村雨映人に笑みは少なく、真剣にスクリーンを見つめている。

 僕は、彼に気づかれないように整った顔立ちごと、スクリーンを視界に収めるのだ。








 水曜日は映画館の割引デーだ。

 自宅から最寄りのその小さな建物は、大規模なシネコンとは違い、単館系と呼ばれるような映画館である。

「うわー……、どんどん雨脚が増していないか?」

 今日は朝から雨で、行くまいかと迷った。だが、まあまあ見たい映画だったのだ。ばさばさと傘の水滴を落とす。

 ガラスの自動扉に、何の面白みもないオメガの姿が映る。

 髪は学生時代に薄く染めていたら、あまり濃く色が入らなくなってしまった。そろそろ染めなければ、という斑な色味はどこかうす汚い。縛れるか縛れないかくらいの長さの髪を、今日は湿気の所為で無理やりゴムで纏めている。

 大きめのTシャツにジーンズ、という服装は、今の時期は無難オブ無難だ。ちなみに冬はパーカーになる。体型が隠れる服は、細すぎる体つきをベータに紛れさせる上で都合がよかった。

 入り口に設置してある細いビニール袋を貰い、閉じた傘を入れた。

 飴色の床は磨き上げられ、所々に水滴が散っている。塗り拡げないように気を付けながら、歩を進めた。

 一階には年季の入った喫茶店と、同じく年季の入った受付があり、カウンターにはいつも同じ、年季の入った腕を持つ受付係が座っている。

「おはようございます。『────』の午前の回を一枚ください」

「はい、おはようございます。すこしお待ちくださいね。パンフレットもありますよ」

 トン、とゴムの日付印を押す音がした。

「僕がパンフレット買いそうな映画でしたか?」

「……今日は雨だから。紙は湿気ってしまうかしらね」

「チケット、買うの止めてもいいですか」

「──円です。現金が使えますよ」

 言葉の強さに、くっ、と笑いながら紙幣を出すと、目の前の受付も、ふふ、と笑いながら紙幣を受け取った。結局チケットは買うことになってしまった。まあ、自分で観なければ外れとも言いがたい。

 二階以上の階にはスクリーンがある。

 とはいってもこの建物は三階まで、スクリーンはただ二つだ。未だに人力の受付でも、のんびり並ぶことなくチケットが買える。

 続いて喫茶店でテイクアウトの飲み物を買い求め、スクリーンのある階へと上がった。赤い扉のエレベーターはところどころ塗装が剥げ、プラスチックのボタンは黄ばんでいる。

「今日は、家でのんびりしてりゃ良かったかな」

 思いもしない言葉を呟いている内に、箱はぐんと吊り上げられた。

 扉が開いた先、上映室の扉は閉まっていて、扉の前が待合スペースになっている。

 村雨映人はいつも設置してある椅子に座ることなく、壁にもたれ掛かって携帯を見たり、文庫を開いたり、ただぼうっとしたりしている。彼に流れる時間はゆったりとしたものだ。

 今日も同じようにビニール袋に包まれた傘を持ち、ぼうっと窓の外に視線を向けていた。目元は薄い色の眼鏡で隠され、口元はマスクが覆っている。しかし、上等な服と整った体格は隠しようがなかった。

 自分だって、オメガにしては身長が低くはない。だが、高身長、というカテゴリに入る村雨を見ようと思えば、かならず見上げる形になるだろう。しっかり肉が付いているわけでもない身体は、彼の後ろに立てば隠れてしまう。

 僕と村雨以外は、ほとんどが年配の人々ばかりだ。平日の朝、椅子を譲って立ったまま待つ、僕と彼だけが浮いている。

 時間になると、係員が来て上映室の扉が開かれる。観客は思い思いの席に散っていった。

 よほどの映画でなければ、座席は先着順だ。村雨はいつもの席に座り、僕はその斜め後ろあたりに座る。扉の近くに座るのは、体調が悪くなったときに外に出て行きやすいからだ。

『──────』

 いつも通りのアナウンスがあり、映画が始まる。

 コメディ系の映画だったこともあり、上映中に笑い声が起きた。この場の習慣的なものを言えば、そういうものだ。ここで面白い映画に、笑い声を堪える必要はない。

 良く言えばおおらかで、悪く言えば熱心に観たい人の都合を気にしない。おそらく古くからあるこの館、独特の文化で、他のミニシアターはまた別の文化を持っているはずだ。

 控えめにつられ笑いをして、コン、と喉を鳴らす。斜め前でも、口元に手を当てている村雨がいた。彼もよく笑っている。

 軽快な音楽と共に最後に全員でダンスをして、大団円を迎える。

 受付係のあの絶妙な表情を思い出す。パンフレットを買うかといえば、同じような展開を見慣れていて控えるかもしれない。だが、誰かと笑う時間というものは、ひとり暮らしにとっては悪くなかった。

 ぞろぞろと捌けていく人々を見送って、自分も立ち上がる。ふと、視線を向けた先に傘が置き忘れられていた。

「あれって……」

 おそらく、村雨の持ち物であるはずだ。近寄って持ち上げると、やっぱり彼が持っていた色の傘だった。

 傘を持ち、慌てて駆け出す。途中で空のカップをゴミ箱に投げ入れ、普段は使わない薄暗い階段を早足で下りる。一階に着いたところで、階段を上がろうとしていた男と鉢合わせた。

「うわ……!」

「あ……っと、ごめんなさい」

 僕が両手に持っている傘を見て、あ、と声が上がる。僕は傘の中央に持ち替え、取っ手を差し出した。

「これ。忘れ物じゃないですか?」

「はい、粗忽者の忘れ物です。ありがとう」

 雨脚は少し弱まっていたが、帰りようがなかっただろう。思わぬ遭遇に続ける言葉を持たず、では、と頭を下げて去ろうとすると、くい、と服の裾が引かれた。

 え、と声が漏れてしまう。

「もう少ししたら、雨、止むらしいよ。雨宿りがてら、一杯奢らせてくれないかな?」

 彼は喫茶店のメニュー看板を指差す。頷くか断るか躊躇って、人生すべての経験が仕事の糧だ、と言っていた仕事仲間の言葉を思い出した。

「……じゃあ。有難くいただきます」

「よかった」

 手招きされ、一緒に喫茶店の看板を眺める。

 今日のコーヒー豆、として書かれていたのは角が立たない味わいのそれだ。都合がいい、と眺めていると、ランチセットの記載もある。

 まだランチには早い時間だが、時刻は範囲内に入っていた。

「お腹空いてる?」

「まあまあ、ですかね」

 うーん、と村雨は唇から声を漏らした。

「俺のこと、わかる?」

 僕は唇を閉じた。

 どう答えるのが彼にとって都合がいいのだろう、と悩む。だが、おそらくこの誘いも僕が気づいていることを察してのことだろう。

「分かります」

 ファンであることが伝わらないよう、無害であることをアピールするように、抑揚を押さえつけて言う。だよね、と村雨は一度マスクを下ろした。マスクのない顔立ちは、画面越しに観るそのままの美形だ。

 どくん、と胸が跳ねた。あまりにも衝撃が強すぎる。

「俺がここに通い始めて暫くして、視線を感じるな、と思ってて……」

「え」

 僕は、気づかれていたのか、と気まずく思って肩を落とす。いや、と村雨は身体の前で手を振った。

「でも、見守られてるような気がしたんだ。それに、別にどこにも情報が漏れたりしてないし、ほんとに偶然、時間が被ってるんだろうなあ、と分かって」

「はい。水曜はチケット代が安いし、仕事の関係で朝の回が都合が良くて。別に村雨さんとタイミングを合わせたとか、そういうことはありません」

 誤解の無いようそう言うと、村雨は頷いた。

「だよね。観てる映画がバラッバラだから、映画が入れ替わってすぐ、曜日と時間でしか選んでないんだろうな、って予想してた。答えが分かって良かったよ」

 村雨は会話が脱線していることに気づいたのか、頬を掻いて軌道修正する。

 手の振りも大きいし、ちょこちょことよく動く。若い頃は舞台での仕事も多かった。癖になっているんだろうか。

「バレてるんなら、口止め料も払わないと。ランチにしようか」

「元々、誰にも言うつもりはありませんでしたよ?」

 いつも扉が開くと、作品の登場人物が待っている。映画に来る上での楽しみの一つを、みすみす手放すのは惜しかった。

 マスクの下で、口元が持ち上がったのが分かった。この人は、顔全体で笑うのだ。

「じゃあ尚更、奢らなきゃだな」

 促され、ランチのメニュー表を見るのもそこそこに喫茶店に入った。映画館で飲むものを買うことはあっても、食事で席に着くのは初めてだ。

 床は映画館と同じ材質の飴色だ。カウンターは傷はあれど丁寧に磨き上げられ、その前に赤い座席の丸椅子がいくつか並ぶ店内は、今では逆に珍しい景色だろう。窓辺にはテーブル席もあるが、数は多くない。

 店の隅には広い木製のラックが置かれ、マスターが好きであろう映画のパンフレットが置かれている。何人もの人に読まれ、何度も補修されたであろう紙は黄ばんで縁も欠けているが、何とも味があった。

「お好きな席にどうぞ」

 カウンターの内側で、店主が言う。お冷やを用意する音が続いた。窓の外が見える席に決めると、奥の席を譲られる。

 素直に言われるがまま席に着くと、手書きのランチメニューを改めて見直した。サンドイッチを中心に、甘党向けにフレンチトーストもある。

「あれ、フレンチトースト……」

 表のメニューにはサンドイッチのことだけで、フレンチトーストは載っていなかった。顎に当てた手から、悩んでいるのが分かる。

 何となく、気持ちが分かる気がした。ランチだと思って食べに来ているのに、甘いものだけ、というのも何となく物足りない気がする。だが、写真に映っている分厚いフレンチトーストは本当に美味しそうだ。

「初対面の相手に、シェア、かぁ……」

「え?」

「僕、ホットサンドにしようと思っていて、半分ずつ、って出来たら良かったんですが。今日が初対面の相手に提案することじゃないなあ、と」

 はは、と苦笑してみせると、村雨は目の前で首を振った。マスクと色付きの眼鏡を外し、それぞれケースに仕舞う。

 息を呑んだ。カメラに写ることを商売にするような人間を、じっくりと間近で見るのは初めてだ。

「ホットサンドが半分になってもよければ。是非」

「じゃあ、それで」

 僕がメニューを畳むと、マスターがお冷やを二つ運んできた。つやつやと水滴を含んだグラスが目の前に置かれる。

 銀色の盆を脇に挟み、ご注文は決まりましたか、と尋ねられる。

「ホットサンドとフレンチトーストのセットを一つずつ。飲み物は、俺はアイスコーヒーを」

「僕は『今日のコーヒー』で」

 マスターはメモを取ることなく、机の上からメニュー表を回収する。雨で客の少ない店内は、僕たちの他には客がいない。

「かしこまりました」

 落ち着いた声音が響くと、カウンターの奥へと消えていった。ザァ、と雨の音が思い出したように浮かんでくる。

 一緒に貰った布のお手拭きで手を拭い、たたみ直して金属のトレイに戻した。

「ほんとに雨、止むんですか?」

「調べた限りでは止むらしいよ。……そういえば、名前、聞いてもいい?」

「山吹稔です。敬語、外した方がいいですか?」

「無理にとは言わないけどね」

 僕は冷えたグラスを持ち上げると、唇を湿らせた。

 冷房の効いた室内は寒く感じるほどだ。身長は平均的にあるのだが、筋肉は付きづらい体質をしている。

「じゃあ、外そうかな」

 そう言うと、村雨はほっとしたように肩を下げた。

「よかった。声は掛けないにしても、もう、けっこう長いこと認識してたから。警戒されてたらどうしようかと思った」

「警戒……はしないが、声を掛けなかったのは、ひとがオフの時に、そういうことをしたくなくて」

 カラン、と手元のグラスの中で氷が鳴る。

「俺も基本的にはそう、なんだけど。同じ時間によく見る人だから、ずっと声を掛けてみたくてさ」

「確かに、帰り道に感想を聞きたい映画がいくつかあった」

「そうそう。それ。今日のさ────」

 目の前で持ち上がった唇が、滑らかに動き始める。

 年齢が上がるにつれて、誰かと映画を見る機会は減っていた。仕事柄、本数を観ることが必要だから尚更だ。

 今日、印象に残ったシーンを語って、語り返して、もう一度楽しむ。この体験が蘇ってくるのが懐かしい。

 段々と別の映画に話題が移っていっても、会話の間が増えても、語る手は止まなかった。

「……盛り上がっているところ、失礼しますね。料理も冷えてしまいますので」

 二人して、マスターの言葉に、あ、と黙り込んで。ひと呼吸おいて、くすくすと笑い出す。

 適度な大きさに割られた、分厚いフレンチトーストにはクリームとシロップが添えられている。ホットサンドは焼きたてで、湯気を経由してチーズの匂いが香った。

 脇には付け合わせのサラダと、ココットに入った焼きプリンが添えられている。お、と思って、視線を上げると、幼くきらきらと輝く瞳があった。

 手や足と同じように、瞳もまた雄弁だ。正直者やおちゃらけた役、ふられて同情を誘うような役を監督が与えたがるのも分かる気がした。

「村雨さん、プリン好きなんだ?」

「うん。大好きだ」

 へらっと溶けてしまう表情に、唇がつられた。

 脇から、マスターが取り分け用の皿を差し出してくれる。礼を言って受け取った。

「助かります」

「いえ。ごゆっくりどうぞ」

 空いたスペースに飲み物を置き、マスターはまたカウンターの内側へと戻っていった。

 ホットサンドの半分を小皿に載せ、村雨へと差し出す。彼は皿に鼻先を寄せて、まだ豊かに上る香りを楽しんだ。

「美味しそう。いただきます」

「いただきます」

 きつね色のパンを噛み締めると、香ばしい味わいが口元に滑り込んでくる。ふたりして歓声を上げながら、食事に舌鼓を打った。

 あんなに聞こえていたはずの雨の音は、店を出ても蘇ってはこなかった。






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