8 / 10
8
しおりを挟む
白夜とは、最寄りの駅で待ち合わせをした。
パタパタとシャツを動かし、暑さに項垂れながら待っていると、しばらくして駆け寄ってくる人影がある。
リネンのシャツとカーゴパンツ。目元はサングラス、口元はマスクで覆われていたが、体格と髪色で白夜だと分かる。
俺を見つけて走ってくる姿は確かにイヌ科のようで、花苗から言い出さなければ気づかなかったことを恥じた。
「ごめんね。待たせて」
「いや、待ってない。飲み物ある?」
首を振る白夜に、買ったばかりの麦茶のペットボトルを手渡す。この暑さなら欲しいだろう、と買い求めたものだった。ペットボトルを受け取った白夜は、それを首筋に当てて手で扇ぐ。
少し身体が冷えると、蓋を開け、マスクを下ろして口に運んでいた。
「渡したい物、ってこれ、じゃないよね?」
「飲みもの渡したいからって、わざわざ呼び出すかよ」
これ、と手に持っていた小さな袋を差し出す。会う口実に連絡したあとで買い求めたのだが、ずっと立ち寄ろうか迷っていた店の袋だ。
白夜は両手で袋を受け取ると、中身を覗き込んだ。
「コーヒー豆?」
「プロダクションの近くに専門店があってさ。苦いの好きな人向けのブレンドを選んで貰った。ケーキの礼に」
彼は紙袋の取っ手に腕を通した。腕を伸ばし、俺の頭をわしわしと撫でる。
「嬉しいな。ありがと」
「どういたしまして」
行くか、と促すと、二人連れ立って歩き出す。近くにあの特徴を覚えた香水の臭いはしなかったが、今日たまたま香水をつけていないかもしれない。
耳と鼻をせいいっぱい働かせながら、白夜の隣を歩いた。
「…………今日、なにかあったの?」
「え?」
「たまたま店に寄って、会おうと思ってくれたのかもしれないけど。それにしては────何か、緊張してる?」
言い当てられてしまったのは意外だった。思い起こせば、彼はずっと俺のことを見ているし、仕草や行動の癖を覚えられてしまったのかもしれない。
俺は慌てて首を振る。
「たまたまだよ。友達と話してて、思い付いたから」
「そう。何の話をしていたの?」
「白夜の守り神の────」
ふと、鼻先に臭いが届いた。あの女性が近くにいるのだ。
俺は足を止める。もう自宅は突き止められているかもしれないが、このままご丁寧に案内する訳にもいかなかった。
近くの花壇に視線を向け、ポケットから携帯電話を取り出す。メッセージ作成のための画面を呼び出して、白夜の服の裾を引いて覗き込ませた。
「なに?」
急なことにも関わらず、白夜は俺が促すまま自然に画面を覗き込んだ。勘がいいのも、違和感を口にしないのも助かった。
『このまえはなしたひと ちかくにいる かめらのひと においした』
「…………ああ、そっか」
脚を止めると、臭いの元が背後にあることが分かる。指先を動かして、更にメッセージを綴った。
『このまま まわりみちして えきにもどって おれがあのひと ひきとめる』
携帯電話を仕舞うと、相手が言葉を発する前に身体を反転させた。
一気にトップスピードまで足を踏み込み、臭いの元に向けて駆ける。背後で声がしたような気がしたが、耳に入れなかった。
一つの人影を視界に捕らえる。
上はジャージで下はジーンズ、そしてキャップ。一見、男女が分からないような服装。
けれど、あの臭いがする。手には、携帯電話が握られていた。
「────……っ」
その女性の前に立ち塞がって、息を吐く。今日はメイクのない目元が見開かれたのが見えた。
「すみません。最近、この辺うろうろしてますよね。『──』日と『──』日と『──』日、あと、そうだ『──』日も」
喉が緊張で動いたのが見えた。逃げようと身体を動かす先に脚を踏み込んで、逃さないように身体で遮る。
その時、カメラの画面が見えた。画面の右下には、前回撮った写真のサムネイルがある。映っていたのは、白夜の浮き上がるような白いシャツと、薄い髪色だった。
「────なに撮ってるんですか」
低く。あえて脅すように語気を強めた。
目の前の鮮やかに塗られていない唇が、色を失うのが見えた。開かれていた唇は、何を言うこともなく、きゅっと引き結ばれる。
その人の脚が踏み込まれるのが見えた。
殴られるような動作に見えて、咄嗟に身を引く。すると、小柄な体格を利用して肩の脇を擦り抜けた。逃がすことも考えた。だが、この脅しで効かない相手ならまた繰り返す。
腕を振り回し、ジャージの裾を掴んだ。
藻掻く腕と、揉み合いになる。落ち着かせようと声を掛けるのだが、その人も諦めずに逃れようとする。傷付けていいのならやりようもあるが、一族の中でさえ、法を逃れつつ飼い主を守ることに苦心する昨今だ。
ぶん、と腕が振られ、その腕を自身の腕で受け止める。その時にあえて振りかぶられた手の甲を叩くように力を込めた。カシャン、と音がする。
拾おうとする手の前に、自らの足を差し入れる。シューズでガードされたような形になり、その人は拾うのを諦めたようだった。
腕を引いて、逃走経路を提供する。相手は意図したとおりに身を翻し、夜闇に駆け去っていった。
遠ざかっていく背を見送り、道路を見下ろす。
「拾得物か……面倒」
はあ、と落とさせた携帯電話を拾い上げる。上手くいくとは思っていなかったが、あまりにも予想通りに動く相手だった。
俺が割れた画面を見下ろしていると、背後から声が掛かる。
「凄いね。終わった?」
「駅に行け、って言っただろ。こっから離れるぞ」
周囲に監視カメラがないことを確認し、彼の背を押して早足で歩き出した。白夜は指示されていた通りに駅に向かわなかったようだ。
俺の体術を褒めるあたり、こっそり見ていたのだろう。
「それ、どうするの? 携帯」
「うちの一族に渡して然るべき措置を頼む。大ごとにしない代わりに、近付くなよ、ってかなり強く脅して貰う」
「へえ。一族、ってそういう事できるんだ」
「飼い主を守るためには、綺麗事を言ってられないこともあるから」
携帯電話の中身を確認すると、俺が家に行くようになる前からの盗撮画像がずらりと並んでいた。白夜のマンションに入る直前の画像もある。
げ、と予想通りながら、俺はがっかりと肩を落とした。
「今日、家に帰らない方がいいな」
「うわ。これは引っ越し確定か。安住の地は遠いなあ」
口調は軽いものの、がっかりしている様子が伝わってきた。俺だって、明日引っ越し、ともなれば落ち込む。
「今日、取りに帰るものがないなら、このまま俺の家に来たら?」
電源オフでも位置情報を示せる機種ではないことを確認し、携帯電話の電源を落とす。カバーもなく、位置情報タグも見当たらない。
電源を点ければ位置情報は拾えてしまうから、次に起動するのはバレてもいい場所で、だ。
「いいの?」
「うん。俺の家の周りは一族の人が多いし、安全だと思う」
付近には一族の人間が所有するマンションがいくつかあり、そちらはセキュリティをがちがちに固めた、飼い主を守るための物件だ。一族同士も手助けできる範囲で互いに守りあう体制が整っている。
彼が飼い主であったのなら、是非そちらに引っ越してもらいたい所だった。
「────付いてくる様子ないな」
臭いを確認するが、それもない。付近でタクシーを拾い、俺の家の住所を告げた。タクシーが走り出すと、息を吐いて座席に凭れる。
ぽんぽん、と肩が叩かれた。
「お疲れ様」
「本当だよ。荒事なんて俺らでもそんなにないんだぞ」
白夜も同じように力を抜く。
彼も緊張していたようだ。確かに、ストーカーと友人が一戦交えるだなんて、見ている方もはらはらする。
道中、当然ながら追ってくる車はなかった。
俺の自宅付近に着くと、タクシーから降りる。料金はさらりと白夜が支払っていた。はんぶん渡そうとも思ったが、面倒がるだろう、と思ってやめる。
「ありがとな。腹減ってるなら簡単なメシは出すから」
「あー……食べてきたけど、確かにお腹空いちゃうかも」
帰宅の道中も周囲を確認しながら歩き、自宅に着いた時にはほっと胸を撫で下ろした。追ってくる筈はないと分かっているのだが、万が一を捨てきれない。
先に家に上がって、軽く片付けてから白夜を呼び込む。
ひとり暮らしらしい狭い部屋だが、ペット可らしく壁は厚いし、風呂とトイレが分かれているのは上等だ。親族経由で借りた部屋だが、この地域自体の利便性もよく気に入っている。白夜の部屋と比べれば、片付いてはいるものの物と色は多い。
白夜は俺の部屋を興味深く見渡している。冷蔵庫から麦茶を取り出して氷を入れ、マグカップに注いだ。
狭いソファへ腰掛けるよう勧め、麦茶を小さなテーブルに置く。
「狭くて悪い」
ソファに座ろうとすれば、ほぼ隣だ。仕方ないことだが、近くに腰掛けて喉を潤した。すぐにカップは空になって、机の上に逃がす。
「あのさ」
白夜の腕が伸び、同じように空になったマグカップが机に置かれた。コトリ、という音にびくりと肩を震わせる。
空いた掌は、俺の手に重なる。
「さっきからずっと、飼い主っぽく扱われてる気がしたんだけど、自惚れていいの?」
ばくばくと胸が鳴った。指先は、逃がさないように、祈りを込めるように覆い被さって離れない。
今日の俺は、飼い主を守るという特性を遺憾なく発揮しすぎていた。彼を飼い主に定めていることが、口調にも表れてしまっていただろう。
俺が黙りこくっていると、肩を掴まれ、彼の方を向かされた。にこり、と赤い唇が笑んだのが見える。
唇が開いたと思ったら、距離を詰められ、唇に噛みつかれた。
「────ッ、ふ」
押し付けてくる身体を手のひらで押し返そうとするが、抵抗しようと思う度に力が抜けていく。
滑り込もうとする舌を遮るように口を閉じると、べろ、と唇を舐められた。
身を引き、口元を押さえる。
「お前な……!?」
「そっか、受け入れてくれるのか。じゃあ……」
腰に手が回され、全身で抱き寄せられる。ぎりぎりまで顔を近づけると、鼻先がぶつかった。
「こう言えばいいの? 『僕を受け入れて』」
藻掻いていた手足が、力を失う。
彼は思った通りの結果を満足そうに笑うと、ちゅ、と額に軽くキスをした。命令に従った犬を、褒めるようだった。
「僕をきみの飼い主にして。恋人にも、そして伴侶にも」
「………………」
黙りこくる俺に、顔を覗き込んで返事を促される。唇を震わせ、諦めに息を吐いた。
彼の巣に入った時点で、俺は逃げる術を失っていたらしい。
「じゃなきゃ、無理やり魂を染めちゃおっか」
「な──!」
この人間ならやりかねない。
あぁ、と負け犬は遠吠えすら叶わず、情けなく声を漏らす。ぼす、と白夜の肩に寄り掛かると、ひくく声を出した。
「……犬にとっての飼い主って、重いんだぞ」
「君にとっていちばん重い存在になりたいんだよ」
俺の背を抱いて、ぽんぽんと叩かれる。息を吸い込むと、今日の白夜も他の臭いは混ざっていなかった。
この腕の中がいちばん好きだ。息をする度、彼の匂いでいっぱいになる。
腕を伸ばして、その背を抱き返した。
「拾って、くれ」
「喜んで」
ぎゅう、と力が篭もる。頬に、こめかみに、と、ちゅっちゅとやられ、居心地の悪さに唸った。
ご機嫌な声は、そこかしこで跳ね回っている。
抵抗せず好きなようにやらせていると、もぞもぞと服の下に手が入り、慌てて上から叩いた。
「…………な!? な、っに、を!」
「だって、必要なんでしょ。魂を染めるの」
かっと頬を染めると、それをいいことに指先が背を撫でた。暴れるべきか、受け入れるべきか迷って、染められる誘惑の甘美さに足踏みする。
俺を見ていた白夜は、更に駄目押しした。
「僕だけの犬になりたくない?」
きゅう、と胸が引き絞られる。潤したばかりの喉はからからに渇いて、あ、と戸惑いが濁った声で漏れた。
追い詰める手は止まない。
「きっちり君に首輪を掛けてあげる。僕は、君だけの飼い主になってあげられる。だから、その代わり────」
欲望はストレートに言葉に溢れ出している。耳元に唇を寄せ、低い声が耳朶を震わせた。波は皮膚の浅いところを滑っていく。
ぞくぞくと身体の芯が熱を帯びる。
「君は、飼い主に服従しないとね。──できる?」
視線が交わった。逆らって、勝てないと分かる強い瞳だった。
犬が腹を見せて寝転がるように、俺は静かに降伏した。
「……できる」
改めて指先が背を伝い、ぞくぞくした感覚を伝えてくる。深いスキンシップに身を委ねていると、耳元に声を吹き込まれる。
「いい子だ」
パタパタとシャツを動かし、暑さに項垂れながら待っていると、しばらくして駆け寄ってくる人影がある。
リネンのシャツとカーゴパンツ。目元はサングラス、口元はマスクで覆われていたが、体格と髪色で白夜だと分かる。
俺を見つけて走ってくる姿は確かにイヌ科のようで、花苗から言い出さなければ気づかなかったことを恥じた。
「ごめんね。待たせて」
「いや、待ってない。飲み物ある?」
首を振る白夜に、買ったばかりの麦茶のペットボトルを手渡す。この暑さなら欲しいだろう、と買い求めたものだった。ペットボトルを受け取った白夜は、それを首筋に当てて手で扇ぐ。
少し身体が冷えると、蓋を開け、マスクを下ろして口に運んでいた。
「渡したい物、ってこれ、じゃないよね?」
「飲みもの渡したいからって、わざわざ呼び出すかよ」
これ、と手に持っていた小さな袋を差し出す。会う口実に連絡したあとで買い求めたのだが、ずっと立ち寄ろうか迷っていた店の袋だ。
白夜は両手で袋を受け取ると、中身を覗き込んだ。
「コーヒー豆?」
「プロダクションの近くに専門店があってさ。苦いの好きな人向けのブレンドを選んで貰った。ケーキの礼に」
彼は紙袋の取っ手に腕を通した。腕を伸ばし、俺の頭をわしわしと撫でる。
「嬉しいな。ありがと」
「どういたしまして」
行くか、と促すと、二人連れ立って歩き出す。近くにあの特徴を覚えた香水の臭いはしなかったが、今日たまたま香水をつけていないかもしれない。
耳と鼻をせいいっぱい働かせながら、白夜の隣を歩いた。
「…………今日、なにかあったの?」
「え?」
「たまたま店に寄って、会おうと思ってくれたのかもしれないけど。それにしては────何か、緊張してる?」
言い当てられてしまったのは意外だった。思い起こせば、彼はずっと俺のことを見ているし、仕草や行動の癖を覚えられてしまったのかもしれない。
俺は慌てて首を振る。
「たまたまだよ。友達と話してて、思い付いたから」
「そう。何の話をしていたの?」
「白夜の守り神の────」
ふと、鼻先に臭いが届いた。あの女性が近くにいるのだ。
俺は足を止める。もう自宅は突き止められているかもしれないが、このままご丁寧に案内する訳にもいかなかった。
近くの花壇に視線を向け、ポケットから携帯電話を取り出す。メッセージ作成のための画面を呼び出して、白夜の服の裾を引いて覗き込ませた。
「なに?」
急なことにも関わらず、白夜は俺が促すまま自然に画面を覗き込んだ。勘がいいのも、違和感を口にしないのも助かった。
『このまえはなしたひと ちかくにいる かめらのひと においした』
「…………ああ、そっか」
脚を止めると、臭いの元が背後にあることが分かる。指先を動かして、更にメッセージを綴った。
『このまま まわりみちして えきにもどって おれがあのひと ひきとめる』
携帯電話を仕舞うと、相手が言葉を発する前に身体を反転させた。
一気にトップスピードまで足を踏み込み、臭いの元に向けて駆ける。背後で声がしたような気がしたが、耳に入れなかった。
一つの人影を視界に捕らえる。
上はジャージで下はジーンズ、そしてキャップ。一見、男女が分からないような服装。
けれど、あの臭いがする。手には、携帯電話が握られていた。
「────……っ」
その女性の前に立ち塞がって、息を吐く。今日はメイクのない目元が見開かれたのが見えた。
「すみません。最近、この辺うろうろしてますよね。『──』日と『──』日と『──』日、あと、そうだ『──』日も」
喉が緊張で動いたのが見えた。逃げようと身体を動かす先に脚を踏み込んで、逃さないように身体で遮る。
その時、カメラの画面が見えた。画面の右下には、前回撮った写真のサムネイルがある。映っていたのは、白夜の浮き上がるような白いシャツと、薄い髪色だった。
「────なに撮ってるんですか」
低く。あえて脅すように語気を強めた。
目の前の鮮やかに塗られていない唇が、色を失うのが見えた。開かれていた唇は、何を言うこともなく、きゅっと引き結ばれる。
その人の脚が踏み込まれるのが見えた。
殴られるような動作に見えて、咄嗟に身を引く。すると、小柄な体格を利用して肩の脇を擦り抜けた。逃がすことも考えた。だが、この脅しで効かない相手ならまた繰り返す。
腕を振り回し、ジャージの裾を掴んだ。
藻掻く腕と、揉み合いになる。落ち着かせようと声を掛けるのだが、その人も諦めずに逃れようとする。傷付けていいのならやりようもあるが、一族の中でさえ、法を逃れつつ飼い主を守ることに苦心する昨今だ。
ぶん、と腕が振られ、その腕を自身の腕で受け止める。その時にあえて振りかぶられた手の甲を叩くように力を込めた。カシャン、と音がする。
拾おうとする手の前に、自らの足を差し入れる。シューズでガードされたような形になり、その人は拾うのを諦めたようだった。
腕を引いて、逃走経路を提供する。相手は意図したとおりに身を翻し、夜闇に駆け去っていった。
遠ざかっていく背を見送り、道路を見下ろす。
「拾得物か……面倒」
はあ、と落とさせた携帯電話を拾い上げる。上手くいくとは思っていなかったが、あまりにも予想通りに動く相手だった。
俺が割れた画面を見下ろしていると、背後から声が掛かる。
「凄いね。終わった?」
「駅に行け、って言っただろ。こっから離れるぞ」
周囲に監視カメラがないことを確認し、彼の背を押して早足で歩き出した。白夜は指示されていた通りに駅に向かわなかったようだ。
俺の体術を褒めるあたり、こっそり見ていたのだろう。
「それ、どうするの? 携帯」
「うちの一族に渡して然るべき措置を頼む。大ごとにしない代わりに、近付くなよ、ってかなり強く脅して貰う」
「へえ。一族、ってそういう事できるんだ」
「飼い主を守るためには、綺麗事を言ってられないこともあるから」
携帯電話の中身を確認すると、俺が家に行くようになる前からの盗撮画像がずらりと並んでいた。白夜のマンションに入る直前の画像もある。
げ、と予想通りながら、俺はがっかりと肩を落とした。
「今日、家に帰らない方がいいな」
「うわ。これは引っ越し確定か。安住の地は遠いなあ」
口調は軽いものの、がっかりしている様子が伝わってきた。俺だって、明日引っ越し、ともなれば落ち込む。
「今日、取りに帰るものがないなら、このまま俺の家に来たら?」
電源オフでも位置情報を示せる機種ではないことを確認し、携帯電話の電源を落とす。カバーもなく、位置情報タグも見当たらない。
電源を点ければ位置情報は拾えてしまうから、次に起動するのはバレてもいい場所で、だ。
「いいの?」
「うん。俺の家の周りは一族の人が多いし、安全だと思う」
付近には一族の人間が所有するマンションがいくつかあり、そちらはセキュリティをがちがちに固めた、飼い主を守るための物件だ。一族同士も手助けできる範囲で互いに守りあう体制が整っている。
彼が飼い主であったのなら、是非そちらに引っ越してもらいたい所だった。
「────付いてくる様子ないな」
臭いを確認するが、それもない。付近でタクシーを拾い、俺の家の住所を告げた。タクシーが走り出すと、息を吐いて座席に凭れる。
ぽんぽん、と肩が叩かれた。
「お疲れ様」
「本当だよ。荒事なんて俺らでもそんなにないんだぞ」
白夜も同じように力を抜く。
彼も緊張していたようだ。確かに、ストーカーと友人が一戦交えるだなんて、見ている方もはらはらする。
道中、当然ながら追ってくる車はなかった。
俺の自宅付近に着くと、タクシーから降りる。料金はさらりと白夜が支払っていた。はんぶん渡そうとも思ったが、面倒がるだろう、と思ってやめる。
「ありがとな。腹減ってるなら簡単なメシは出すから」
「あー……食べてきたけど、確かにお腹空いちゃうかも」
帰宅の道中も周囲を確認しながら歩き、自宅に着いた時にはほっと胸を撫で下ろした。追ってくる筈はないと分かっているのだが、万が一を捨てきれない。
先に家に上がって、軽く片付けてから白夜を呼び込む。
ひとり暮らしらしい狭い部屋だが、ペット可らしく壁は厚いし、風呂とトイレが分かれているのは上等だ。親族経由で借りた部屋だが、この地域自体の利便性もよく気に入っている。白夜の部屋と比べれば、片付いてはいるものの物と色は多い。
白夜は俺の部屋を興味深く見渡している。冷蔵庫から麦茶を取り出して氷を入れ、マグカップに注いだ。
狭いソファへ腰掛けるよう勧め、麦茶を小さなテーブルに置く。
「狭くて悪い」
ソファに座ろうとすれば、ほぼ隣だ。仕方ないことだが、近くに腰掛けて喉を潤した。すぐにカップは空になって、机の上に逃がす。
「あのさ」
白夜の腕が伸び、同じように空になったマグカップが机に置かれた。コトリ、という音にびくりと肩を震わせる。
空いた掌は、俺の手に重なる。
「さっきからずっと、飼い主っぽく扱われてる気がしたんだけど、自惚れていいの?」
ばくばくと胸が鳴った。指先は、逃がさないように、祈りを込めるように覆い被さって離れない。
今日の俺は、飼い主を守るという特性を遺憾なく発揮しすぎていた。彼を飼い主に定めていることが、口調にも表れてしまっていただろう。
俺が黙りこくっていると、肩を掴まれ、彼の方を向かされた。にこり、と赤い唇が笑んだのが見える。
唇が開いたと思ったら、距離を詰められ、唇に噛みつかれた。
「────ッ、ふ」
押し付けてくる身体を手のひらで押し返そうとするが、抵抗しようと思う度に力が抜けていく。
滑り込もうとする舌を遮るように口を閉じると、べろ、と唇を舐められた。
身を引き、口元を押さえる。
「お前な……!?」
「そっか、受け入れてくれるのか。じゃあ……」
腰に手が回され、全身で抱き寄せられる。ぎりぎりまで顔を近づけると、鼻先がぶつかった。
「こう言えばいいの? 『僕を受け入れて』」
藻掻いていた手足が、力を失う。
彼は思った通りの結果を満足そうに笑うと、ちゅ、と額に軽くキスをした。命令に従った犬を、褒めるようだった。
「僕をきみの飼い主にして。恋人にも、そして伴侶にも」
「………………」
黙りこくる俺に、顔を覗き込んで返事を促される。唇を震わせ、諦めに息を吐いた。
彼の巣に入った時点で、俺は逃げる術を失っていたらしい。
「じゃなきゃ、無理やり魂を染めちゃおっか」
「な──!」
この人間ならやりかねない。
あぁ、と負け犬は遠吠えすら叶わず、情けなく声を漏らす。ぼす、と白夜の肩に寄り掛かると、ひくく声を出した。
「……犬にとっての飼い主って、重いんだぞ」
「君にとっていちばん重い存在になりたいんだよ」
俺の背を抱いて、ぽんぽんと叩かれる。息を吸い込むと、今日の白夜も他の臭いは混ざっていなかった。
この腕の中がいちばん好きだ。息をする度、彼の匂いでいっぱいになる。
腕を伸ばして、その背を抱き返した。
「拾って、くれ」
「喜んで」
ぎゅう、と力が篭もる。頬に、こめかみに、と、ちゅっちゅとやられ、居心地の悪さに唸った。
ご機嫌な声は、そこかしこで跳ね回っている。
抵抗せず好きなようにやらせていると、もぞもぞと服の下に手が入り、慌てて上から叩いた。
「…………な!? な、っに、を!」
「だって、必要なんでしょ。魂を染めるの」
かっと頬を染めると、それをいいことに指先が背を撫でた。暴れるべきか、受け入れるべきか迷って、染められる誘惑の甘美さに足踏みする。
俺を見ていた白夜は、更に駄目押しした。
「僕だけの犬になりたくない?」
きゅう、と胸が引き絞られる。潤したばかりの喉はからからに渇いて、あ、と戸惑いが濁った声で漏れた。
追い詰める手は止まない。
「きっちり君に首輪を掛けてあげる。僕は、君だけの飼い主になってあげられる。だから、その代わり────」
欲望はストレートに言葉に溢れ出している。耳元に唇を寄せ、低い声が耳朶を震わせた。波は皮膚の浅いところを滑っていく。
ぞくぞくと身体の芯が熱を帯びる。
「君は、飼い主に服従しないとね。──できる?」
視線が交わった。逆らって、勝てないと分かる強い瞳だった。
犬が腹を見せて寝転がるように、俺は静かに降伏した。
「……できる」
改めて指先が背を伝い、ぞくぞくした感覚を伝えてくる。深いスキンシップに身を委ねていると、耳元に声を吹き込まれる。
「いい子だ」
24
お気に入りに追加
207
あなたにおすすめの小説

目標、それは
mahiro
BL
画面には、大好きな彼が今日も輝いている。それだけで幸せな気分になれるものだ。
今日も今日とて彼が歌っている曲を聴きながら大学に向かえば、友人から彼のライブがあるから一緒に行かないかと誘われ……?
虐げられている魔術師少年、悪魔召喚に成功したところ国家転覆にも成功する
あかのゆりこ
BL
主人公のグレン・クランストンは天才魔術師だ。ある日、失われた魔術の復活に成功し、悪魔を召喚する。その悪魔は愛と性の悪魔「ドーヴィ」と名乗り、グレンに契約の代償としてまさかの「口づけ」を提示してきた。
領民を守るため、王家に囚われた姉を救うため、グレンは致し方なく自分の唇(もちろん未使用)を差し出すことになる。
***
王家に虐げられて不遇な立場のトラウマ持ち不幸属性主人公がスパダリ系悪魔に溺愛されて幸せになるコメディの皮を被ったそこそこシリアスなお話です。
・ハピエン
・CP左右固定(リバありません)
・三角関係及び当て馬キャラなし(相手違いありません)
です。
べろちゅーすらないキスだけの健全ピュアピュアなお付き合いをお楽しみください。
***
2024.10.18 第二章開幕にあたり、第一章の2話~3話の間に加筆を行いました。小数点付きの話が追加分ですが、別に読まなくても問題はありません。
いとしの生徒会長さま
もりひろ
BL
大好きな親友と楽しい高校生活を送るため、急きょアメリカから帰国した俺だけど、編入した学園は、とんでもなく変わっていた……!
しかも、生徒会長になれとか言われるし。冗談じゃねえっつの!
貴族軍人と聖夜の再会~ただ君の幸せだけを~
倉くらの
BL
「こんな姿であの人に会えるわけがない…」
大陸を2つに分けた戦争は終結した。
終戦間際に重症を負った軍人のルーカスは心から慕う上官のスノービル少佐と離れ離れになり、帝都の片隅で路上生活を送ることになる。
一方、少佐は屋敷の者の策略によってルーカスが死んだと知らされて…。
互いを思う2人が戦勝パレードが開催された聖夜祭の日に再会を果たす。
純愛のお話です。
主人公は顔の右半分に火傷を負っていて、右手が無いという状態です。
全3話完結。
夢では溺愛騎士、現実ではただのクラスメイト
春音優月
BL
真面目でおとなしい性格の藤村歩夢は、武士と呼ばれているクラスメイトの大谷虎太郎に密かに片想いしている。
クラスではほとんど会話も交わさないのに、なぜか毎晩歩夢の夢に出てくる虎太郎。しかも夢の中での虎太郎は、歩夢を守る騎士で恋人だった。
夢では溺愛騎士、現実ではただのクラスメイト。夢と現実が交錯する片想いの行方は――。
2024.02.23〜02.27
イラスト:かもねさま

完結·助けた犬は騎士団長でした
禅
BL
母を亡くしたクレムは王都を見下ろす丘の森に一人で暮らしていた。
ある日、森の中で傷を負った犬を見つけて介抱する。犬との生活は穏やかで温かく、クレムの孤独を癒していった。
しかし、犬は突然いなくなり、ふたたび孤独な日々に寂しさを覚えていると、城から迎えが現れた。
強引に連れて行かれた王城でクレムの出生の秘密が明かされ……
※完結まで毎日投稿します
六日の菖蒲
あこ
BL
突然一方的に別れを告げられた紫はその後、理由を目の当たりにする。
落ち込んで行く紫を見ていた萌葱は、図らずも自分と向き合う事になった。
▷ 王道?全寮制学園ものっぽい学園が舞台です。
▷ 同室の紫と萌葱を中心にその脇でアンチ王道な展開ですが、アンチの影は薄め(のはず)
▷ 身代わりにされてた受けが幸せになるまで、が目標。
▷ 見た目不良な萌葱は不良ではありません。見た目だけ。そして世話焼き(紫限定)です。
▷ 紫はのほほん健気な普通顔です。でも雰囲気補正でちょっと可愛く見えます。
▷ 章や作品タイトルの頭に『★』があるものは、個人サイトでリクエストしていただいたものです。こちらではいただいたリクエスト内容やお礼などの後書きを省略させていただいています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる