煩悩と狗は追いかけ去らず

さか【傘路さか】

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【人物】
戌澄 友(いぬずみ とも)
尾上 白夜(おのうえ はくや)



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 狗神の一族。

 俺達の一族は『狗神の魂が分け与えられた存在』と言い伝えられている。

 始祖と呼ばれる存在は数百年生きているとされ、次々と主人を変えながら、まだこの世に存在し続けているらしい。

 俺達と他の人との違いは多くあるが、一番大きな違いは、俺達が人とは別に犬の姿を持つことだ。







 地元を離れて大学生活を送る人間には、働かざる者、で始まることわざが付きまとう。その日も頻繁に予定を入れている動物モデルの仕事に呼び出され、指示されていた会議室へ時間通りに入った。

 俺に続いて、顔馴染みの二人が部屋に入ってくる。

 動物プロダクション社屋の中にある会議室は、白い壁に金属の書類棚、天井にはプロジェクタが設置され、投影用のスクリーンとホワイトボードが隣り合うような事務的な部屋だ。キャスター付きのテーブルを動かし、各々がパイプ椅子を持ち寄って腰を下ろす。

 目の前では同じくバイト仲間の龍屋、花苗の二名が腰掛け、龍屋から、概要は聞いておいた、と俺の前に書類が差し出された。

 いつもクールな龍屋は、蛇神の加護が強くはあっても純粋な人間だ。ただ、花苗は俺みたいに魂が違い、人とは違った別の姿を持つ。彼は犬ではなく、猫だ。

「花苗も一緒の案件か?」

 尋ねると、花苗はちょこまかと可愛らしく首を横に振る。

「この後、別の仕事に成海と一緒に行くからいるだけ」

 成海、は龍屋の下の名前で、彼らは名前で呼び合うくらい親しい仲だ。

「そか。飴やるから食って待ってな」

 社員が席を外さざるを得ず、真面目な龍屋に書類を預けたのだろう。俺が鞄から数個の飴をテーブルに置くと、花苗は素直に礼を言って口に含む。

 差し出された書類を持ち上げると、日付と時間、そして依頼主の情報が書かれていた。

「『──』さんが、急用で席を外してすまない、と言っていた。依頼内容は書類に書かれてある通りだ。俳優の尾上白夜が今度、うちのプロダクションのタレントと共演する映画を撮ることになった。だが、当の尾上白夜は犬が怖いらしい」

「共演者はどの子?」

 挙げられた名前は、こちらも顔馴染みの柴犬の名だった。

 狗神の一族という訳ではない純粋な犬だが、他の犬より抜きん出て賢い子だ。いつも口角を上げてご機嫌そうで、感情の振れ幅が大きいわけでもない。中型犬相応の体躯も、怖い、と思う方が難しいだろう。

 尾上白夜、の事は流石に知っている。若手俳優の中では安定して仕事を得ている人物で、優しげな甘いマスクを武器にしている。かといって、演技に対して手を抜く印象はなく、端正な表情をぼろっぼろに崩しながら泣く様には、もらい泣きした覚えがある。

「あんなかわいこちゃんが怖いのか。……小さい頃に犬に噛まれた、って書いてあるな」

 ぺら、と書類を捲って、ヒアリングの欄に目を通す。

「そうらしい。そこで、相手の様子を見ながら徐々に犬に慣れさせてほしい。……という訳で、この件は戌澄に頼みたいそうだ」

 純粋な犬は、自然な演技をする。

 だが、相手の怖がっている細かな表情まで窺いながら犬慣れさせる、という仕事は難しい。人間がボールを持ってきたのなら、ただひたすらに遊びたがるし、極端に、好き、か、嫌い、の感情を持ちやすい。

 この動物プロダクションの所属タレントなら、ほぼゼロ距離で迫ってくるだろう。彼らは、与えられた愛を返すことに慣れている。

「他にも一族はいるけど、……あぁ、スケジュールが変則すぎるのか。じゃあ俺だ」

 大学生で、かつ単位に余裕ができた俺は、最近はバイトに勤しんでいる。報酬も悪くない金額で、スケジュールが変則とはいえ有り難い仕事だった。

 龍屋に承諾の返事をし、クリアファイルに纏めた資料を鞄に仕舞う。

「他に何か、言伝された事ある?」

「いや、特にはないな」

 龍屋は花苗から残った飴を手渡され、かさかさと大きな手で包装を剥く。龍や蛇というよりは、熊が木の実でも剥いているような仕草だ。

 飴を口に入れる前に、彼は思い出したように口を開く。

「……最近はどうだ、『飼い主』は。見付かりそうか?」

「全然。こればっかりは運命の采配だから、仕方ないんだけどな」

 うちの一族の特徴としては、一目惚れ、が多い。魂のかたちの所為で、決めた人に従えられたくて堪らなくなるのだ。

 神の姿は、信じる人が決める。人が認識する狗神の印象が柔らかくなってきた昨今では、一族の飼い主への感情もまた柔らかく変化している。それでも、前提が主従であることは変わらない。

 ずっと、自分に首輪をしてくれる相手を探している。

「犬が求める飼い主と、猫が求める飼い主は違うけど、花苗が羨ましいよ」

 両頬を飴で膨らませた花苗が、あどけなく笑う。

 花苗の飼い主……というか、恋人は隣にいる龍屋だ。猫神の一族であることも明かしており、魂の色が綺麗に混ざるほど深く愛し合っている。いずれ、龍屋の色に染まった花苗の魂を分ける……子を授かることも一族から打診されるんだろう。

「へへ、いいでしょ。でも、成海は飼い主って感じじゃないなー……。やっぱり、犬と猫じゃ求めてるものが違うのかもね」

「そうだな。龍屋は花苗をあからさまに束縛したりしないだろうし」

 自分の場合は、そのあからさまな束縛、を求めている性格もあり、相手選びには苦労している。

「そういや、龍屋。こんど技の練習したいから相手して。お前もそこそこ鈍ってきただろ」

「まあな。場所を用意するから、それから予定立てよう」

 龍屋と共通の趣味である武道の話、そして仕事の話。近況報告を交わしていると、あっという間に花苗の仕事の時間が近づく。会議室の備品を元に戻し、部屋を出て空室のタグへと差し替える。

 じゃあ、と公私ともにパートナーとなった二人と手を振り合った。少し離れて振り返ると、花苗の手が伸び、龍屋の手を取った様子が見えた。お熱いことで、いいことだ。

 ひと気の少ない廊下を抜け、プロダクション所有の建物を出る。日陰を出た瞬間に、眩しい光が目を刺した。外は蒸し暑く、シャツの首元を引く。

「……いいなぁ、飼い主。兼、恋人」

 思春期の頃は、恋人を作ろうと足掻いていた時期もあったが、付き合う、に発展する前に俺が冷めてしまう。相手が強く自分を求めてくれなければ、強く自分を縛ってくれなければ恋に落ちきれない。

 難儀だ、と浮いた汗を拭い、渇いた喉に唾を送り込んだ。








 尾上白夜との対面は、プロダクション内の小さな撮影ルームを借りて行われることになった。俺が犬の姿になったまま待機する必要があるため、龍屋の手を借りて尾上を案内して貰う。

 そして、ふたりきりになった所で龍屋に席を外して貰うことになっていた。俺は特殊な一族のために用意された更衣室で服を脱ぎ、姿を犬のものに変える。

 更衣室の端にある鏡に姿を映した。

 くりくりとした黒い瞳を持つ、真っ白いポメラニアン。人の姿を見た者がいたら想像もつかないような可愛らしいこの姿は、ちいさかった頃の俺が望んで固定した姿だった。

 幼い頃は、愛される姿になりたかった。誰もが目を向け、可愛いと黄色い声を上げるような姿になりたくて、ふわふわしていた魂をこの貌に定めた。人の姿との齟齬が表面化したのは、思春期になって順調に背が伸び始めた頃だ。

 長身、という訳ではなかったが、平均身長としては十分なくらい背が伸びた。そして、狗神の一族では主人を守るために戦う術を得ることが美徳とされ、俺も例に漏れず身体を鍛え、色々な武術を学んだ。

 そうなると、段々と白いポメラニアンではなく、もっと中型犬で活発な犬のほうが合っていたのでは、と思い始めた。もう、姿を固定しきっていて後の祭りだったが。

 人の姿の俺は、武術に邪魔にならない程度にしか髪は伸ばせないし、維持が面倒で髪も染めずにいる。適度に筋肉も付いた身体は、スポーツマンと自称できるくらいには服を押し上げる。

 キャンキャンと可愛らしく鳴くのが似合うような、この姿とは似ても似つかないのだ。犬の姿から人間の顔を連想するなら、もっと可愛らしく、それこそ花苗のような美少年であるべきだろう。

 可愛らしいポメラニアンになりたかった頃は通り過ぎたが、人と犬の姿の齟齬はふいに頭を擡げては、苦い思いをさせるのだった。

『詮無い、ってこういうことを言うんだろうな』

 ペット用のドアをくぐり、待っていた龍屋を見上げる。飛びかかって脛を後ろ脚で蹴り上げると、ぐっ、と苦しげに上の方から息が漏れる音がした。

『行くぞ』

「……小型犬でも、全力で掛かられると痛いんだが」

 龍屋は怒ることもなく、俺を先導して歩き始める。ごめん、の意味を込めて歩く足に擦り寄ると、一度立ち止まり、屈んで背を柔らかく撫でられた。

 廊下を少し歩き、撮影ルームに辿り着く。俺はロックを外してもらったペット用のドアをくぐる。ドアの前にいる龍屋は、そのまま尾上が来るまで待機するつもりらしい。

 撮影ルームは明るさが印象的な部屋だ。プレイマットが敷いてある柔らかな床のスペースとふかふかとしたソファ。そして部屋の端には犬用、猫用のおもちゃが入った箱がある。

 採光に優れた大きな窓のある部屋だが、今は開いている厚いカーテンを閉じてしまえば、設置してある大きな照明も使うことができる。動物用の撮影スペースだけあって、空調もしっかりしたものだ。

 俺は室内にあるソファにジャンプして乗り上がると、身体を丸めた。エアコンの効いた室内は涼しく、寝そべっていると、うとうとと睡魔が訪れる。

 部屋の外から喋り声が聞こえたとき、俺はゆっくりと身を起こした。

「どうぞ。こちらです」

「ありがとう。お世話になります」

 扉を開けて入ってきたのは、記憶にある尾上白夜そのままの人だった。素でもカメラ越しの姿と変わらないということは、生来の美形なのだ。

 マッシュスタイルに整えられた髪は染められ、次の役柄のためか、明るいグレー色をしている。肌色は白く、長い睫に垂れ気味の目元は色っぽい。龍屋と変わらないくらいの長身に、俺ほどではないが適度に鍛えられていることが分かった。

 くん、と鼻を動かすと、オーク系の香水の匂いがした。嫌な匂いという訳ではないが、必要だとは思えなかった。

 身を起こし、ほう、と見惚れてしまったが、向こうにはポメラニアンが何か見ているな、としか思われてはいないのだろう。

 尾上と視線が合った。途端、怯えの色が浮かぶ。

 俺はその場に座り直した。近付いてこようとしないことに、彼がほっと息を吐いたのが分かった。

「こちら、うちのプロダクションの『シロ』といいます。小さいですが、もう成犬です。落ち着きがあって、呼ばなければ無闇に近寄ってくることはありません。その点は、ご安心ください」

 シロ、は俺の芸名だ。ぱっと外見と印象が一致しやすい名前を選んだ。

 龍屋は尾上から離れ、俺に向かって手を振る。

「シロ」

 俺は小走りに龍屋へと近寄ると、その両手の中に顔を埋めた。クウクウと鳴いて、甘えていることを全身でアピールする。

 まずは、怖くない犬であることを彼に示さなければ。俺はその場で寝転がって、腹を見せて恭順を示した。勿論、普段はやらない仕草だ。飼い主以外には、あまりやりたくない仕草でもあった。

 ただ、背に腹は代えられない。

「こんな風に、シロは呼ばれれば来ますが、呼ばれなければ大人しくしています。人なつっこく、歯もこんなものです。噛みませんし、噛んだとしても痛みはありません」

 くい、と両手で顎を開かれても、大人しくされるがままになる。意図がなにも分かっていないような犬のふりをして、目をぱちぱちと瞬かせた。

 尾上は、それでも近寄ってこようとはしない。彼の恐怖心が根深いものであることを窺わせた。

「あの、元々はシロと二人きりで、という話でしたが、俺も同席しましょうか?」

 龍屋の提案に、尾上は首を振る。

「いや、その……シロがどうこうするとは思わないし、予定通りで構いません。犬と同じ空間にいることすらしてこなかったから、今日は、それを目標にしようかな、と思っています」

「そのくらいのペースでいいと思います。では、予定通り三十分ほどしたら、またお伺いしますので」

「はい、お世話になりました」

 龍屋は俺に視線を送ると、頷き返したのを確認して部屋から出て行った。尾上の視線が、こちらを振り返る。

 呼び掛けようとしたのか口が開かれたが、声は発せられないまま閉じられた。しばらく見つめ合っていたが、ふい、と視線を逸らされる。そのまま、彼は俺が座っていたソファではなく、撮影用に使われていた椅子へと歩み寄って、腰掛けた。

 手を組んで膝に肘を突き、じい、とこちらを見つめている。俺はこのまま見つめ合っていてもな、と元いたソファにとてとてと歩いていった。

 当然のように、尾上と俺との距離は開いたままだ。それから十分ほど、可愛いところでも見せるか、と無駄に毛繕いをする俺を彼は黙ったまま眺めていた。

 携帯電話はポケットに入れたまま、触り出すとか、興味が無いような仕草も見せない。しっかりと彼の視線は俺を追って、慣れたいのだという意志を感じさせる。

 埒があかない、と俺は身を起こし、そろそろと尾上に近付く。半分ほど距離を縮めて、その場に伏せた。ころり、と横になって、遠くで腹を見せる。

「…………本当に、可愛いな。さすがモデルだね」

 くすり、と彼の唇が笑みの形になった。蕾が花開くような、凝縮された美に当てられて俺はこてんと床に頭を倒す。

 矢に胸でも射貫かれたような心地だった。

 尾上は椅子から立ち上がると、俺との距離を半分だけ詰めた。そして、その場にしゃがみ込む。

「おいで、シロくん」

 呼ばれた声に引かれるように立ち上がると、とと、と自然に早脚になる。伸ばされた腕に顎をしっかりと閉じて鼻先を擦り付ける。

 ほんの少しだけ、彼の手のひらがヒゲを撫でた。彼はぐっと拳を握り締めると、二度なでてくれはしなかった。手を引いて、元いた椅子に戻っていく。

 俺はぽかんとその様を見送り、どうしよう、と困ってその場で脚踏みした。やっぱり、この姿とはいえ犬は怖かったのだろうか。

 俺は手持ち無沙汰になり、おもちゃ箱へ向かう。お気に入りの噛み心地のボールを引き出すと、自ら頭を振って部屋の隅に投げた。だだ、と駆け、追いついたボールを咥える。二度、三度とそれを繰り返して、ふと振り返った。

 尾上は、やはり俺を見ている。

 仲良くしたいのならもっと触れ、と叫びたかったが、吠え声を聞かせたくなくて黙ってボールを投げる。

 龍屋が戻ってくる頃には、走りすぎてへとへとになった俺が床でばてていた。


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