消えたい僕は、今日も彼女と夢をみる

月都七綺

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第三章

名前のない物語⑴

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 その日は朝から薄曇りの天気で、私は折り畳み傘を持って駅へ出向いた。
 待ち合わせは、いつも最寄り駅だった。車で迎えに来てくれると言った彼に断りを入れたから。
 テラコッタのワンピースと黒いレースアップブーツを身にまとい、駅に背を向けて彼を待つ。

 数分もしないうちに、彼が駅から出て来た。サラサラした黒髪に端正な薄顔の持ち主は、私を見つけて優しく微笑む。
 でも、それは偽りの笑顔だと知っている。デートをしても手を繋いでも、二人の間には決して壊せない壁がある。

 なぜなら、私たちは親の決めた婚約者だから。お互いに愛情の一欠片ひとかけらもない。


 綺原宗一そういちの娘。それが、物心付いた時からの私の名称だった。実家は県内で名のある老舗旅館桜花蘭おうからんを経営している。
 三姉妹の末っ子に当たる私は、望まれて生まれてきた子どもじゃない。
 直接そう言われたわけではないけれど、祖父母も両親も喉から手が出るほど、跡継ぎになる男の子を期待していたようだから。

 三人目が女だと知った時、相当気を落としたらしいと周りの大人から聞かされた。
 まだ小学生の子どもに、絶望的な話をするような下衆げすい人間を信じたわけではないけど、きっと母の立場なら思っても仕方ないのだろうと理解出来る。

 幼い頃から、姉の後ろを金魚のふんのように付いて歩いていた私は、将来の女将を期待された彼女たちとはどこか違っていたように思う。
 着せてもらえる着物は、姉たちよりも品質の下がるもの。
 礼儀作法も一通り習うのだけど、それなりに習得出来れば良いと干渉はされず。姉たちは、涙と汗が枯れるまで祖母にしつけられていたというのに。

 将来、この子はどこかへ嫁いでゆく子という意識があったからだろう。この家にとって、三女は【要らない子】なの。
 だから必死にしがみ付こうと茶道、華道、それに加えて琴も習った。名のある老舗旅館の娘だと恥じぬように、手元に置いておきたいと思ってもらえるように。

 けれど、どれだけ日本の和伝統を身に付けようが、彼らの心には響かなかった。
 二十五歳になった今、祖父の知り合いを通して、旅館とは縁のない人と婚約させられたのだから。


 今日は四度目のデートで、夕方から開演するクラッシックのコンサートを鑑賞することになっている。
 はっきり言って気が乗らない。
 毎回のことだけれど、それは彼も同じ気持ちだと思っている。
 そうでなければ、一度も下の名前を呼ばないなんて事にはならないだろうし、何度もデートを重ねないで、今頃は結婚をしているはずだから。
 私たちは、恋愛して婚約したわけではない。知人の紹介といっても、お見合いみたいなもの。

 直感で無理だと思えば断れた話だけれど、他に三度も断っているからそうも出来ない。
 これまでの紹介相手とは違って、【年齢が離れすぎている】とか【話し方が生理的に受け付けない】【DNAが拒絶している】という理由が思い浮かばなかったのが本音でもある。

 コンサートまでに少し時間があるため、私たちは駅近くにある古民家カフェへ入った。大正時代から営む店舗を改装した内装は落ち着いた雰囲気で、畳みの部屋に囲炉裏いろりがあったりとノスタルジックを感じさせる造りになっている。
 和と洋を取り入れたテイストを売りにしているデザート店で、抹茶のレアチーズケーキや餡子あんこの入ったカスタードシュークリームが人気らしい。

「……おいしい」

 心の声が漏れると、向かい合って座っていた彼が皿を見たまま「そうですね」と、愛想笑いを浮かべた。
 私のことなど、まるで興味がない。女として魅力がないと言われているようで時折寂しくなる。
 人のことを言える立場ではないのだけど、この人からは嬉しさとか悲しみの感情を感じられない。

 何かに執着することもなく、当たり障りのない会話をして今日も別れるのだろう。
 私にとっても、それが一番楽ではあるけれど、この上なく退屈で無駄な時間なのでしょうね。


 クラッシックのコンサート会場へ入って、互いに目を合わせることなく座席へ着いた。ペチャクチャと雑談をするような場ではないから、ごく自然な態度なのだろう。
 それでも、冷め切った熟年夫婦のような空気が流れていることに、この先も耐えられる気がしない。
 いつ話を切り出そうか、開演するまでそればかりを考えていた。

 美しいピアノ演奏が終わり、肩を並べてクラッシックホールを出る。会場を出てしまったら、また次の約束をして別れるだけ。
 だから今回こそ、何度も心の中で唱えていた文句を言葉にした。

「梵さん、私たち別れましょう」

 意を決して口を開いたのに、隣に立つ彼には聞こえていない様子。ただ一点を見つめて動かないでいる。

「あの、梵さん? 聞いてるかしら? 私たち、気持ちもなく……」

 まだ話している途中で、彼は私の横を通り過ぎていく。
 本当に無神経で自由気ままな人。頭の中で思った時、目に飛び込んで来たのは、展示してあるピアノを前にして立ち尽くす彼の姿だった。
 大人の薄汚い世界を知って色をなくしたような瞳は、子どもが欲しかったおもちゃを見つめているように輝いて見える。

「ピアノ、お好きなんですか?」
「ああ、高校生の頃まで弾いていたんだ。途中で辞めたけど、懐かしくて」
「今日プロが演奏していたものと同じモデルですって。展示品だけど、ご自由に触れて下さいと書いてあるわ。この場所は人通りも少ないし、弾いてみたらどうかしら?」

 意外だった。私に合わせてクラッシックを聴きに来ただけだと思っていたのに、彼がこんな風に目の色を変えるなんて。
 一組のカップルが掃けてから、私たちは一段上がったピアノの前へ立った。

 琴の稽古を辞めてから、少しだけピアノを習ったことがある。認めてくれない親族への反発として弾いていたのだけど、子どもの悪あがき程度にしかならなかった。

 結局、何をしようと無意味だったのだから。
 一向に、彼はピアノに触れようとしない。
 だから、私が先に鍵盤けんばんへ両指を置いた。
 昔の記憶を手繰たぐり寄せ、近所のお姉さんが教えてくれた曲を奏でる。湖畔こはんの水が流れるような優しい音色で、安心感の中に不思議な切なさが混ざっている。

「それ……」
「夢境のつづき。目が覚めても夢の世界が続いていて、次第に現実と境目が分からなくなっていくって意味らしいわ」

 これは決して、安らぎの中にある夢を語ったものではない。真実が見えなくなってしまった作曲家が、至福を求めて彷徨っている曲なのだと教えられた。

 何も言わずに隣へ来て、彼はそっと左手をピアノに添わせる。アイスクリームの滑らかな舌触りのような音を出して、私の右手からの音と重なっていく。一人で弾いているかのように、リズムとテンポの呼吸が合っていた。
 いつの間にか、周りには十数名の人集りが出来ていて。曲を弾き終えると同時に、拍手が巻き起こる。

 逃げるようにその場を離れようとする彼に手を引かれて、私は軽く会釈えしゃくをして会場から立ち去った。
 胸が弾むような不思議な感覚。これを擬音語で表せと言うのなら、おそらくワクワクやドキドキなのだろう。

 外へ出ても繋がれたままの手のひらを、少しばかり意識してしまう。
 手を繋いだとことくらいあるはずなのに、どうしてだろう。妙に胸が締め付けられて苦しくなる。

 ああ、そうよね。
 この人は私のことなんて、これっぽっちも好きじゃないから。肌だけが触れ合っているむなしさを感じるの。


 オレンジ色に包まれた夕暮れの駅で、さよならをする。いつものように、次会う約束をするのだと思っていた。
 さっきは別れを切り出そうとしたけれど、もう少し様子を見ても良いのかもしれない。そんな思想が頭を過ぎる。
 でも、彼は私の後方を見つめて何も話さない。

「あの、これからどうする……」
「……日南先生?」

 横を駆けて行った後ろ姿を、今でも鮮明に覚えている。
 反対側から走って来る目深帽子の男。その手には鋭利な刃が見えた。

「梵さん!」

 追いかけようと思ったときには、女性を抱き庇ったまま、長い階段上から消えていた。
 生きてきた中で、出したことのない悲鳴を上げた。階段の下側から同じような声が上がるのを聞いて、手足の震えが止まらなくなる。

 空が泣いているのか、絹のような雨が降り出して、気付いたら私の頬をも濡らしていた。


 九月十八日、婚約者である直江梵の葬儀が行われた。
 元交際相手に襲われかけた女性を助けて、駅の階段から転落した事故死。刃物男は逃走したのち、逮捕された。
 幸いにも女性は擦り傷だけで済み、葬儀にも参列していた。

「私を助けるために、直江くんが……。ほんとに、なんと言ったらいいのか……申し訳ありません」

 涙を流しながら彼の両親と私に頭を下げた彼女の名は、日南菫と言うらしい。元高校の美術教師で、彼の担任もしていたようだ。

「あなただけでも助かったことで、梵は報われただろう。でも、もう二度と、私たちに顔を見せないで頂きたい」

 寄り添ってもらわなければ、母親は立つことすらままならないほど憔悴していた。
 父親は、ああ言っていたけれど、私は彼女に興味を持った。ピアノ以外には何も関心を示さなかった直江梵が、本能で動き命を掛けて助けた女性。

 きっと彼は、日南菫に特別な感情を抱いていたに違いない。
 そこまで想われていた彼女は羨ましく、また憎らしくもある。それは少し、嫉妬にも似た感覚だった。
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