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第二章

君にさよなら⑴

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 ゆめみ祭から一ヶ月半の月日が経ち、終業式を迎えた。小指の固定も取れて、ほぼ元通りだ。
 後夜祭でした綺原さんとのキスは無かったかのように、変わらない日常が過ぎている。彼女が何もなかったものとして振る舞っているのだから、僕も変に意識しないようにしているつもりだ。
 あの意味を知りたくても、聞ける隙を作らないのは彼女らしい。
 何もない真っ白な部屋の床へ横になり、そのままになっている楽譜をペラペラとめくる。病理学や歯科解剖学の教科書より、音符を眺めていた方がよっぽど面白い。

 一週間前の夜。意を決して、父にピアノ関係の仕事をしたい旨を伝えた。歯科医院を継ぐ意思がないと知っても、あの人は顔色ひとつ変えなかった。

「学園祭でのお前のピアノが素晴らしかったと、患者さんから聞いた。また是非聴きたいそうだ。別の人からも、教える機会があったら娘に教えて欲しいと言われた。それほどまでとは、正直驚いた」

 初めて聞く話に胸が熱くなった。ピアノの講師をする夢が開けた気がした。

「じゃあ」
「しかし、仕事は別物だ。お前のピアノは趣味に過ぎん。仕事が欲しいと思う人間がいる中で、すでに完成された場所が準備されているお前は幸せだと思わなければならん。将来について、もう一度よく考えろ」

 あれから、父とは言葉を交わしていない。
 乾いたため息が、だだっ広い空間にひとつ落ちる。
 でも、この憂いを含んだ吐息の原因はそれだけではない。


 半袖のカッターシャツに手を通して、制服のズボンを履く。登校日でないにも関わらず、僕は夏休み中の校門をくぐった。
 運動部がグランドを走るなか、校舎へ足を踏み入れる。そのまま屋上へ向かうと、僕を待つ背中があった。

「来てくれないかと思った」

 長い髪を耳にかけながら、にこりと笑う日南先生。
 後夜祭で約束をすっぽかしてから、顔を合わせづらくてまともに話せていなかった。避けているのを知ってなのか、夏休みに入る前日、屋上で会えないかと言われていたのだ。

「あの、すみませんでした。後夜祭の日、行けなくて」

 今更謝るのは違う気がするけど、いつまでもうじうじ黙っているのもいけない気がして。

「いいのよ。何かあったんだろうなって思ってたから」

 どんな反応が来るのか身構えていたけど、笑ってしまうくらいあっさりしていて、普通だった。
 気まずい空気をまとっていたのは、自分だけだったのだ。それが逆に虚しかったり。

「でも、理由くらい教えてくれても良かったのに」
「えっ?」

 完全に油断して、風船の空気が抜けるような声が出た。

「来なかった理由、苗木くんから聞いたよ。綺原さんのこと探してたんだってね」

 振り返った日南先生に、ドクンと脈が波打つ。
 人形みたいに大きな目をして、それでいて瞬きすらしない。じっと僕を見据えながら、微かに笑みを浮かべて歩み寄る。

「あの、せんせ……?」

 一歩下がると、一歩詰めてくる。いつもの日南先生ではないようで、瞳に影が落ちて見えた。浮気した恋人を責め立てるみたいな。

「どうして彼女を優先したの? 先に約束してたのは、私の方なのに」
「……すみませ」
「ねえ、直江くん。一緒に飛ぼっか」

 掴まれた腕をとっさに払った。前にもこんなことがあったけど、今回は脅しじゃないと分かる。
 ふらつきながら後ろへ進み、日南先生が校舎の端へ足を乗せた。

「せんっ、あぶな……!」

 何か唇を動かしているけど、何も聞こえない。一筋の雫がこぼれ落ちたと思ったら、彼女の体は青空の下へと消えた。

「日南先生──っ‼︎」

 ありったけ振り絞った声は、徐々に大きくなって、やがてその絶叫で目を覚ました。
 掛け布団を握りしめながら、息を切らしている。しばらく天井を見つめて、頭の中を整理する。
 今のは……夢、なのか?
 スマホ画面を確認して、今日が約束の日であると知り、心底ホッとした。
 半袖のカッターシャツに手を通して、制服のズボンを履く。

 夏休み中の校門をくぐり、運動部がグランドを走るなか、校舎へ足を踏み入れる。屋上へ向かうと、夢と同じ、僕を待つ背中があった。

「来てくれないかと思った」

 長い髪を耳にかけながら、にこりと笑う日南先生。

「あの、すみませんでした。後夜祭の日、行けなくて」
「いいのよ。何かあったんだろうなって思ってたから」

 これは、一度目の記憶じゃない。昨日見た夢の展開と全く同じだ。先に起こることを想像して、背筋がゾッとする。
 まさかと思いながらも、とりあえず腕を掴んだ。この行動に意味があるのかと問われると、頷ける自信はないけど、保険みたいなものだ。
 不思議そうに、日南先生が首を傾げる。そして、気付いた。細い手首に巻きつけられた包帯。

「……その手」
「ああ、これ? 朝起きたらベッドから落ちてて、手首を捻挫しちゃったの」

 日南先生が、ハハッと軽く笑う。
 顔から血の気が引いて、心臓が不穏な音を立てる。
 ベッドから……落ちた?
 脳裏で何度も繰り返される夢の光景。僕には、それを偶然という言葉では消化しきれなかった。


***

「それで、せっかくの夏休みを満喫中に急遽呼び出されたってわけね」

 クーラーのよく効いた図書館で、綺原さんが積み上げられた本を開く。
 日南先生と別れたあと、会えないか連絡を入れた。彼女のアパートから自転車で十分たらずの場所にある市立図書館を指定して。

 二十分もしないうちに駆けつけてくれたことから、すぐ支度をして出て来てくれたのだと分かった。
 チラリと視線が絡み合う。ぎこちなく逸らしてしまった。
 なんでもないような態度でいるけど、綺原さんとキスをしたのだ。少しも意識していないと言ったら嘘になる。
 わざとらしく咳払いが響いて、綺原さんの目が訴えかけてくる。早く話せと。

「夢の世界が崩壊してから、ほとんど夢は見てなかったんだ。日南先生の怪我といい……何か意味がある気がして」

 何も言わないで、綺原さんは上から三番目の本を引き出す。
 僕の前に差し出したのは、『夢とシンクロニシティ』というタイトルの本。他のものと比べて、まだ真新しい色をしている。

「共有夢って、知ってるかしら」
「聞いたことはある。二人の人間が同じ夢を見るってやつだよね? 前に見ていた夢は、それに近いのかなって勝手に思ってた」

 現在、夢には二種類の仮定があると言われている。
 脳が夢を作り出し、脳内で繰り広げられている神経作用に過ぎないこと。
 もう一つは、夢という別の空間があり、それらを知覚している可能性がある説だ。
 科学的根拠は証明されていないが、二人が同じ夢を見ていた事例は何件も出ているらしい。

「たしかに、前の梵くんの夢はそうだったのかもしれない。でも今回、菫先生は否定しているんでしょう?」

 変な夢を見なかったかと聞いた時、日南先生は首を振った。
 微かに唇の端を上げて、儚んでいるような、何かを隠しているような表情に読みとれた。
 綺原さんが見ている未来を映し出す夢になってしまわないかと、不安もある。

「同じ夢を見るって表現が正しいのか。それとも、夢が侵食されていると捉えるのか」
「どういう意味?」
「他人の夢に入り込むことが、不可能じゃないって言ってるの」
「それって、現実で? SF映画じゃなくて?」

 本を開いたページに、明晰夢めいせきむと書かれている。夢だと認識しながら、自分の行動がコントロールできる状態にある夢のことだ。

「たしかに、今は架空の物語に過ぎない。でも、実際に私たちの身に起こり得ないことが起こっているのも事実でしょ」

 タイムリープに夢の世界。どちらも言葉で説明したところで、理解してくれる人はほぼいないだろう。
 本をパタンと閉じて、さらに僕の前へ置くと、

「今度またおかしな夢が現れたら、私を出してくれないかしら」
「……出すって、夢に? どうやって?」
「梵くんの夢は特殊。もしも行動をコントロール出来るなら、念じた人物を出せるかもしれない。そしたら、夢を共有することが出来る可能性があるわ。日南先生の時と同じように」

 蓬の夢を見ていた時、意識がはっきりしていた。現実ではないと知りながら、向かう方向や発言をコントロール出来た。
 反対に、動けと命じても動けないこともあった。全てが思い通りになるわけではないけど、可能性はゼロじゃない。

「……やってみるよ」

 根拠のない約束。それをしてどうなるかも分からない。想像を積み上げて、不安を紛らわせているだけ。
 だけど、何もないよりマシだ。
 手の中にある『夢とシンクロニシティ』という文字を見るだけで、綺原さんの落ち着いた眼差しを思い出すだけで、大丈夫だと思える。


 再び夢を見たのは、それから三日後のことだった。
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