消えたい僕は、今日も彼女と夢をみる

月都七綺

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第二章

夢境のつづき⑶

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 真正面からじりりとした視線を受けながら、ごくりと喉を鳴らす。行き場のない手は、正座した足の上でこぶしを握っている。

「あなたって人は、ほんとに人の忠告を聞かない人ね」

 パタンと閉じた本をガラステーブルの上に伏せて、綺原さんが長い前髪を耳にかけた。ふと触れ合った瞳から視線を外すと、僕は気まずさを隠せずに頭をかく。

「不倫相手に説教するなんて、いくら夢だと言っても無茶すぎるわ」
「ちゃんと元に戻れたからいいでしょ。それに、夢を壊せって言ったのは綺原さんじゃないか」
「……まあ、丸く収まったならいいんだけど」

 視線の位置に困りながら、妙に落ち着かない手を意味もなく動かす。
 グラスに注がれたお茶をごくりと飲むと、氷がからんと音を立てて、回った。まるで慌てふためく誰かみたいに。
 緊張するなとは、緊張している人間に一番言ってはならない言葉だ。たった今、理解した。
 誰にも聞かれないところで話をしたい。綺原さんに連れられて来たのは、彼女のアパートだった。
 初めて入る女子の部屋は、花畑にでもいるようないい香りがする。こういった経験がないのだから、不自然になるのは致し方ない。

「それで、ここからが本題。ゆめみ祭でピアノを弾くことになったって聞いたけど、どうするつもり?」

 彼女が言っているのは、おそらく練習場所だろう。自宅のピアノルームが閉鎖されていることを話していたから、その心配をしているのだ。
 施錠した鍵は父が持っていて、今は立ち入ることすら出来なくなっている。

「それは……まだ」
「音楽室を借りたらいいんじゃないかしら」
「でも吹奏楽部が使うし」
「ええ、だから」

 スッと上半身が近付いたと思ったら、僕の耳元で手を添えて、綺原さんがささやく。

「えっ、それは、さすがに……」

 人目を避けて家を尋ねた意味が全くない距離感。それに上乗せするような言葉。

「あら、梵くん。まさか怖くて出来ないの?」

 いくじなしとでも言いたげに、綺原さんはクスクスと笑った。
 君は優等生だね。幼い頃から、その言葉を浴び続けて来た。少しでもテストの点数が下がると、「こんな問題も解けないのか。情けない」と父にノートを投げ捨てられる。

『直江くんはクラスのお手本なんだから。出来ないなんて、言わないよね?』

 弱音を吐くことすら、許されなかった。みんな僕に期待しすぎだ。それほど有能な人間じゃない。

「いや……、できないことないけど」

 それなのに、気付くと反論している自分がいる。否定されると、やらなければという潜在意識が発動してしまうらしい。

「じゃあ、明日から練習しましょう」

 涼しい顔でアイスティーを飲む彼女を見て、ハッとする。まんまと挑発に乗せられてしまった。

 翌日、誰もいなくなった校門の前で、僕は制服のまま立ち尽くしていた。辺りは闇に包まれて、街灯の明かりがぼんやり浮かんでいる。
 ほんとにやるのか。
 門扉に手を伸ばしたとき、背後から肩を叩かれた。少し体が跳ね上がるのを、となりに並んだ綺原さんがクスクスと見ている。

「……おどかさないでよ」

 心底ほっとした顔でもしていたのか、さらに声を潜めて笑いを堪えている。いつも冷静沈着なイメージだから、こんなに楽しそうにする彼女が新鮮だった。
 夜風が通り過ぎて、涼しげな空気が体をまとう。

「で、どうして綺原さんまで?」
「あら、提案したのは私よ? 来ない理由なんてないでしょ」

 ──夜の音楽室へ忍び込む。
 最初は大胆で浅はかなアイデアだと思ったけど、練習する場がないのならチャンスを作るしかない。
 豪快に門扉へ足を掛けて、綺原さんがよっとよじ登る。揺れる短めのスカートから視線を外して、僕も慌てて上半身を投げ出した。
 門の向こう側へ着地して、真っ暗な校舎の前へ立つ。より不安が濃くなった。これは、不法侵入とやらにならないだろうか。

「こういうの、一度やってみたかったのよね」
「なんか面白がってない?」
「あら、心配して来てあげたのに。余計なお世話だったかしら?」
「……いや、心強いです」

 正面玄関の鍵が掛けられていることを確認して、裏へ回る。家庭科室の窓をカタカタと動かしながらスライドさせると、鈍い音を立てて開いた。
 どうやら、壊れた鍵がそのまま放置されているらしい。
 窓から入るなんて、家でもしたことがない。ましてや学校に忍び込むなど、今のご時世警察沙汰にならないか不安しかない。
 夜の校舎は、深夜の病院より静かだ。自分たちの足音だけが空間に響いて、まるでホラー映画の中に入ってしまったような感覚になる。
 上履きの中に隠しておいたスペアキーを使って、音楽室を開けた。
 泥棒にでもなったようで罪悪感が込み上げてくるけど、綺原さんは相変わらず平然としている。

「私たち、今とっても不良生徒ね」
「やっぱり面白がってる」

 ピアノの前に立つ綺原さんが、人差し指で音を鳴らした。胸の奥から、うずうずとした気分が沸き立つ。
 鍵盤に指を置けば、静かな空間がたちまち優しい音に包まれる。さっきまでの不安は消えていた。ピアノを弾ける喜びと、あの言葉のせいかもしれない。

『とっても不良生徒ね』

 今日この時間だけは、優等生の直江梵でなくていいんだ。

 ゆめみ祭までの二週間、僕らは毎日、夜の校舎へ忍び込んでピアノを弾いた。学校の警備がとよく聞くけれど、うちはまだそこまで厳しくないらしい。
 家庭科室の窓から出入りする分には、見つかることはなかった。残り一週間を過ぎた頃には、まるで忍者にでもなったようにスムーズに侵入出来た。
 ベートーベンやバッハの視線を感じながら、鍵盤の上を滑るように指を動かす。なめらかなアイスクリームに乗っているイメージで、優しく時には力強く。

「菫先生とは、まだ逢い引きしてるのかしら?」

 隣に座る綺原さんが、躊躇なく口を開いた。

「誤解を招く言い方しないでくれる? 日南先生とは、そんなんじゃないから」

 構わず指を動かしながら、僕は楽譜をめくる。

「あら、だって初恋の相手だったんでしょう? 夢の中で恋した人がすぐ近くにいたなんて、ロマンチックによく出来た物語ですこと」

 しとやかに笑みを浮かべながら、彼女は甘ったるそうなミルクティーをごくりと飲む。
 夢の世界が崩壊して、それ以降は夢を見なくなったこと。夢で会っていた少女が、高校時代の日南先生であったことを綺原さんに話した。
 初めは少し驚いた様子だったけど、彼女がその話を食い入るように聞くことはなく、いつも通りの落ち着いた印象に映った。

「それに、蓬……日南先生には、他に好きな人がいたから。僕のことなんて、これっぽっちも」

 言いかけて違和感を覚える。
 なんだこれ? まるで、僕が恋の相談をしているみたいじゃないか。夢の世界が終わった話をしていただけのはずなのに。
 日南先生と、どうこうなりたいとは思ってない。たしかに、蓬と再会出来たことは感無量というか嬉しかったのだけど、いまいち実感が覚束ない。

 僕は、日南先生のことが好きなんだろうか?

 一瞬、音が止んだのを不自然に思われたか、綺原さんが何かを考えるように首を捻る。もう一度、反対へ傾けて小さな息を吐いた。

「嘘が下手ね。動揺が音に出てる」
「嘘って、なに! それに集中出来ないのは、綺原さんが気の散ること言うから」
「あら、悪かったわね。当日に影響しないようしっかり気持ちは切り替えて」

 ゆめみ祭でピアノの演奏をすることに、快く思わない教員もいる。
 そもそも、日南先生が校長へ掛け合ってくれたと聞いたけど、僕がピアノ経験者だということは誰も知らない。
 時間配分の関係で、吹奏楽によるバンドライブのあとにねじ込まれたこと。さらには、生徒会長だけ特別扱いとみなされるのが、一番の要因のようだ。
 ステージを成功させなければ、評価だけでなく進路へも影響しかねないだろう。ピアノの道は、完全に絶たれてしまう。

『直江、国立を受けないのか。ああ、そうか。実家が歯科なら、歯科医師一択か』

 二年の時、担任から言われた言葉が脳裏を掠めた。

「もちろん、邪心は持ち込まないようにするよ。このチャンスを逃したら、もうあとがないから」
「そうね。せっかく時が戻ったのだから、今だから出来る選択をしていくべきね。お互いに」

 綺原さんが隣にいてくれて、よかった。そうでなければ、こうまでして練習するに至らなかったかもしれない。
 自分が生きている今は間違いじゃないのだと、初めて信じられた気がした。
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