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第一章
近くて遠い⑴
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十日間の大型連休は、どこかへ出掛けることもなく塾の特訓授業で幕を閉じた。繰り返される毎日は少しずつ変化しているのに、勉強だけは店頭に並ぶ商品のようにどれもが重複したものに思える。
ピアノと書道を取り上げられて、歯科医師を目指す道だけが残された。時間が巻き戻されたことによって生じた代償なのか。
鍵で閉ざされたピアノルームが撤去されるのも、時間の問題だろう。
「僕は……何を間違えた?」
どこから人生の歯車が狂いだしたのか。産声をあげた瞬間には、もう決まっていたことなのか。
蓬を拒絶したあの日以来、夢を見なくなった。もう一度会いたいと願っても、電源を消したままの何もない空間を眺めているだけで、彼女の姿を見ることは出来ない。
全てが僕の作り上げた幻想なら、いつになれば悪夢から目を覚ませるのだろう。
薄暗い雲が、屋上の空を覆っている。連休中に晴天を使い果たしたのか、今にも雨が降り出しそうな顔だ。
虹色の雨が降るような気がして、僕はフェンスに腰を下ろしたまま待っている。
悪魔が囁くような風。ドアが開かれ、近付く靴底の音。期待に満ちた心臓が振り返る先には、綺原さんの姿があった。
「……綺原さんか。こんなところに来るなんて、珍しいね」
軽やかなステップを踏むように、コンクリートへ飛び降りる。心と体は、必ずしも一致するとは限らないらしい。
「あら、期待してた人物と違って悪かったわね。夢の彼女か、もしくは教師の誰かさんかと思った?」
綺原さんは、僕の心を見透かすようなフフッという笑みを浮かべる。上から見ているというより、何か優越を感じている時に彼女がよくする仕草だ。
「そんなんじゃないよ。ただ、最近夢を見なくなったんだ。これって、どういう意味だと思う?」
「さあ、何か意味があるかもしれないし、最初から何の意味も無いのかもしれない。でも、あなたは寂しくて仕方ないのね。夢の彼女に会えなくて」
胸を切り開かれて、心の内を覗かれているのではないか。それとも、全てが顔に出ているのか。綺原さんは超能力者みたいに僕の感情を当ててみせる。
「その人……よくないことをしてるんだ。止めた方が、いいかな」
唇を重ね合う映像が、脳裏をかすめる。拳を握りながら、冷静さを保とうとしていると。
「それ、梵くんが止めたいからじゃなくって?」
すました声は、いつもの綺原さんらしいのだけど、少し苛立ちが混じっているように感じた。
「どういう……意味?」
「気に入らないって顔してるもの。そのよくないこと、やめさせたいのは梵くんでしょう?」
図星をつかれて、カッと頭に血の気が上る。
まるで蓬が好きだから、別れさせたいみたいじゃないか。
「夢に関わらない方が身のためだと思うけど。もしも本当に現実と繋がっているのだとしたら、戻ったときに、よくない今になっている可能性だってあるのよ」
別次元にいる自分に記憶だけが入り込んでいるとして、僕らにとっては、今の過去が現実になっている。
夢での出来事も現実だと言うなら、いつか境界が分からなくなって、意識はここへ戻れなくなるかもしれない。
目が覚めたとき、現実が悪い方向へ変わっていることもあり得る。綺原さんは、そう言いたいのだろう。
「綺原さんは、まだ見てるの? その、未来の夢」
「ええ、相変わらず夜が待ち遠しくってね」
皮肉が込められた言葉は、つぶやきのように空へと消えて行く。
不思議な夢、日南先生や綺原さんとの関係性、そしてピアノの強制没収。どれも経験しなかった過去が、現在の過去には起こっている。
それは紛れもない事実で、きっと、この先に控えている未来も僕の知らない世界のはずだ。
一度、綺原さんから聞いた覚えがある。まだお互いにタイムリープをしていることを明かす前、部活帰りにファストフード店で夢の話をした時。
意味深な笑みを浮かべて、彼女ははっきりと言葉にした。
「……直江先生。綺原さん、僕のことを【先生】って言ったんだ。もしかして、夢の中で未来の僕の姿を見ていたんじゃない?」
少し驚いたような目をして、綺原さんは微かに口角を上げる。何か考える顔をして。
「もしもそうだとしたら、梵くんが死ぬ未来は、この過去では訪れない。そういうこと?」
「僕が知りたいのは、先生と言った理由だよ。そう呼ばれる職種に付いてたって……ことだろう?」
歯科医師、それともピアノ講師かそれ以外なのか。小さな唇が開きかけるたびに、小さく息を呑む。
「ええ、そうなるわね。でも教えない。私が伝えることによって、あなたの選択肢を左右してしまうかもしれないから」
「でも、それで未来が分かるなら」
変えられることも、あるかもしれない。
今、心の中に湧き上がっている迷いが、正しい方向へ向かっているものなのか。
僕から目を逸らすと、綺原さんはため息をひとつ落とした。
「何かを諦めたようだったって言ったら、必然と見えてくるでしょ? 心境までは見えないけど、あなたにとって幸せな未来なのか……表情を見てたら分かるわ」
その後に続く言葉は、否定的なものだろうと解釈出来る。
頭を過ぎったわずかな灯りは消えて、原形をとどめていない蝋だけが残された。必死に、芯を崩すまいと粘っている。
初めから、期待などしていなかったはずなのに、この落胆はすさまじい。このまま突き進めば、僕は後悔と苦痛に溺れる毎日を送るのだろうか。
「梵くん、これだけは覚えておいて。私が見た未来全てが真実とは限らない。これからの未来は、今のあなたによって作られる。私の言葉で悩まないで、今のあなたがどうしたいのか。それが大切よ」
頭では理解しているつもりでも、切り離すことは出来ない。歯科医師の道へ進むのか、ピアノを続ける道を選ぶのか。どちらにしても、後悔が残る気がして、僕の幸せが約束されることなんてないに等しい。
もしかしたら、綺原さんの知る過去の僕は、全てがどうでもよくなって空を飛んだのかもしれない。その未来の方が僕にとっては、一番信憑性があって、理解出来る過去だと思えた。
ピアノと書道を取り上げられて、歯科医師を目指す道だけが残された。時間が巻き戻されたことによって生じた代償なのか。
鍵で閉ざされたピアノルームが撤去されるのも、時間の問題だろう。
「僕は……何を間違えた?」
どこから人生の歯車が狂いだしたのか。産声をあげた瞬間には、もう決まっていたことなのか。
蓬を拒絶したあの日以来、夢を見なくなった。もう一度会いたいと願っても、電源を消したままの何もない空間を眺めているだけで、彼女の姿を見ることは出来ない。
全てが僕の作り上げた幻想なら、いつになれば悪夢から目を覚ませるのだろう。
薄暗い雲が、屋上の空を覆っている。連休中に晴天を使い果たしたのか、今にも雨が降り出しそうな顔だ。
虹色の雨が降るような気がして、僕はフェンスに腰を下ろしたまま待っている。
悪魔が囁くような風。ドアが開かれ、近付く靴底の音。期待に満ちた心臓が振り返る先には、綺原さんの姿があった。
「……綺原さんか。こんなところに来るなんて、珍しいね」
軽やかなステップを踏むように、コンクリートへ飛び降りる。心と体は、必ずしも一致するとは限らないらしい。
「あら、期待してた人物と違って悪かったわね。夢の彼女か、もしくは教師の誰かさんかと思った?」
綺原さんは、僕の心を見透かすようなフフッという笑みを浮かべる。上から見ているというより、何か優越を感じている時に彼女がよくする仕草だ。
「そんなんじゃないよ。ただ、最近夢を見なくなったんだ。これって、どういう意味だと思う?」
「さあ、何か意味があるかもしれないし、最初から何の意味も無いのかもしれない。でも、あなたは寂しくて仕方ないのね。夢の彼女に会えなくて」
胸を切り開かれて、心の内を覗かれているのではないか。それとも、全てが顔に出ているのか。綺原さんは超能力者みたいに僕の感情を当ててみせる。
「その人……よくないことをしてるんだ。止めた方が、いいかな」
唇を重ね合う映像が、脳裏をかすめる。拳を握りながら、冷静さを保とうとしていると。
「それ、梵くんが止めたいからじゃなくって?」
すました声は、いつもの綺原さんらしいのだけど、少し苛立ちが混じっているように感じた。
「どういう……意味?」
「気に入らないって顔してるもの。そのよくないこと、やめさせたいのは梵くんでしょう?」
図星をつかれて、カッと頭に血の気が上る。
まるで蓬が好きだから、別れさせたいみたいじゃないか。
「夢に関わらない方が身のためだと思うけど。もしも本当に現実と繋がっているのだとしたら、戻ったときに、よくない今になっている可能性だってあるのよ」
別次元にいる自分に記憶だけが入り込んでいるとして、僕らにとっては、今の過去が現実になっている。
夢での出来事も現実だと言うなら、いつか境界が分からなくなって、意識はここへ戻れなくなるかもしれない。
目が覚めたとき、現実が悪い方向へ変わっていることもあり得る。綺原さんは、そう言いたいのだろう。
「綺原さんは、まだ見てるの? その、未来の夢」
「ええ、相変わらず夜が待ち遠しくってね」
皮肉が込められた言葉は、つぶやきのように空へと消えて行く。
不思議な夢、日南先生や綺原さんとの関係性、そしてピアノの強制没収。どれも経験しなかった過去が、現在の過去には起こっている。
それは紛れもない事実で、きっと、この先に控えている未来も僕の知らない世界のはずだ。
一度、綺原さんから聞いた覚えがある。まだお互いにタイムリープをしていることを明かす前、部活帰りにファストフード店で夢の話をした時。
意味深な笑みを浮かべて、彼女ははっきりと言葉にした。
「……直江先生。綺原さん、僕のことを【先生】って言ったんだ。もしかして、夢の中で未来の僕の姿を見ていたんじゃない?」
少し驚いたような目をして、綺原さんは微かに口角を上げる。何か考える顔をして。
「もしもそうだとしたら、梵くんが死ぬ未来は、この過去では訪れない。そういうこと?」
「僕が知りたいのは、先生と言った理由だよ。そう呼ばれる職種に付いてたって……ことだろう?」
歯科医師、それともピアノ講師かそれ以外なのか。小さな唇が開きかけるたびに、小さく息を呑む。
「ええ、そうなるわね。でも教えない。私が伝えることによって、あなたの選択肢を左右してしまうかもしれないから」
「でも、それで未来が分かるなら」
変えられることも、あるかもしれない。
今、心の中に湧き上がっている迷いが、正しい方向へ向かっているものなのか。
僕から目を逸らすと、綺原さんはため息をひとつ落とした。
「何かを諦めたようだったって言ったら、必然と見えてくるでしょ? 心境までは見えないけど、あなたにとって幸せな未来なのか……表情を見てたら分かるわ」
その後に続く言葉は、否定的なものだろうと解釈出来る。
頭を過ぎったわずかな灯りは消えて、原形をとどめていない蝋だけが残された。必死に、芯を崩すまいと粘っている。
初めから、期待などしていなかったはずなのに、この落胆はすさまじい。このまま突き進めば、僕は後悔と苦痛に溺れる毎日を送るのだろうか。
「梵くん、これだけは覚えておいて。私が見た未来全てが真実とは限らない。これからの未来は、今のあなたによって作られる。私の言葉で悩まないで、今のあなたがどうしたいのか。それが大切よ」
頭では理解しているつもりでも、切り離すことは出来ない。歯科医師の道へ進むのか、ピアノを続ける道を選ぶのか。どちらにしても、後悔が残る気がして、僕の幸せが約束されることなんてないに等しい。
もしかしたら、綺原さんの知る過去の僕は、全てがどうでもよくなって空を飛んだのかもしれない。その未来の方が僕にとっては、一番信憑性があって、理解出来る過去だと思えた。
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