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第一章

はじまりの夢⑵

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 六月に引退したばかりの部活へ来るのは、留年でもしたようで中途半端な気持ちにさせられる。約二ヶ月振りの道着と弓矢は、乱れた精神を統一させてくれた。
 強く矢の手を引いて、狙い、放つ。パンッと紙鉄砲を思い切り振ったような音が鳴り、二本目の矢は的のすれすれに刺さった。

「よしっ!」

 部員の掛け声さえ懐かしく感じる。弓を置く僕の元へ、予想通りに綺原さんが歩み寄って来た。

そよぎくん、どうかした? なんだか、いつもより狙いが少しズレてる」

 指摘通り今日の的中率は低い。なかなかない絶不調だから、余計目に付いたのだろう。

「朝からずっと様子がおかしいようだけど、何かあった?」

 二ヶ月のブランクは、まあまあ大きい。弓の引きは体がやっていたからいいとして、狙いにはどうしても多少のブレが生じる。
 顧問の先生に見られていたら、どうしたのかと根掘り葉掘り問われそうだ。

「少し感覚が鈍ってるのかな。早く取り戻さないと」
「おかしな梵くん。まるで何ヶ月も休んでいたみたいな言い方ね」

 綺原さんは勘が鋭い。何か言いたげな表情をする彼女から距離を置いて、精神を統一する。
 前と同じことを繰り返していれば、何とかやり過ごせるだろう。
 両親や教師の顔色を伺って、生徒会長と部長をこなして、学年首位をキープするために勉強して……。

 本当に、それでいいのか?
 僕の人生は、選択は間違っていないのだと胸を張って言えるのか。

【直江くん、君の生きる時間を私にちょうだい?】

 持病でないのだとしたら、日南菫はなぜ死ななければならなかったのだろう。


 部活が終わって、コンビニで買ったオニギリを頬張りながらピアノ講師の家へ向かった。
 もう小学生の頃からの付き合いになる。高一と中二の子どもがいて、分からない宿題を僕が見てあげることもある。
 先生は夕食も一緒にどうかと誘ってくれるけど、毎回断っている。どうしてかと聞かれると、はっきりした理由は説明出来ない。
 ただ、うちと家庭の雰囲気が違いすぎて息が詰まる。

 自宅の玄関を開けた時には、午後九時を過ぎていた。暗い部屋に電気を付けるのも、僕にとっては日常のことだ。
 父は開業医の歯科医師、母は歯科衛生士。午後八時半まで診療しているため、まだ仕事をしているのだろう。隣の歯科医院は、いつも夜遅くまで電気が付いている。

 午後九時四十分。宿題をしていると、決まった時間に部屋のドアが鳴る。仕事を終えて軽食を済ませた母が覗きに来る時間だ。

「勉強ははかどってる? 眠気覚ましのコーヒー、置いておきますね」
「ありがとう」
「梵なら、必ず四乃しの歯科大に合格出来るわ。期待してるから、頑張って」
「うん、……分かってる」

 ドアが閉まる音を聞いて、ため息がこぼれた。さすがに今日は、これ以上無理だと体が嘆いている。
 過去へ戻ることは、予想以上に精神を費やすらしい。
 休もうと頭では思うのに、湯気の立つコーヒーを目にすると、やらなければならない衝動に駆られるのはなぜだろう。
 湿ったため息がもうひとつ落ちる。シャープペンを握り直してから、やりがいのない復習は未明まで続いた。


***

 何の匂いだろう。ツンと鼻を刺すような独特な香りがする。クンクンと小鼻を動かしてみる。
 ……絵、アクリル絵の具?
 校舎横にある体育館へと続く壁に、描きかけ途中になっている絵が目に入る。色鮮やかな人魚や海の動物たちだ。
 周りには誰もいない。日曜日の学校にでもいるのだろうか。

 より近くに立つ。盛り上がった絵の具は、どうして好奇心をくすぐるのか。滑らかな線と線の境目に出来たぷっくりとした立体に、そっと人差し指を近付けていく。
 優しく触れても、この膨らみは潰れてしまうのか。それとも……。

「触ったら付いちゃうよ? 今、乾かしてるところなの」

 振り返ると同時に、突き出していた指を後ろに隠した。しようとしていた事はバレているのに、下手な言い訳をする子どもみたいな行動。
 ドクドクと心臓から流れ出す血液の音が体中から聞こえてくるほど、僕は驚いていたようだ。

「いや、あの、これは……あれ? 君ってたしか、虹色の雨が降った時に……」

 目の前に立っていた少女は、前に夢で見た結芽岬高ここ校の生徒だ。さらさらした肩丈の茶色い髪、大きな目は間違いなくそうだと言い切れる。

「ほんとだ。昨日、屋上で会った人?」
「えっと、これは夢……なんだよね?」
「分からないけど、そうだと思うよ。キミは実在する人? その制服、結芽高の生徒なの?」

 僕を覗き込むように、少女がグイッと顔を近付けて来る。ガラス玉みたいに透き通るような瞳。

 ──綺麗だ。

 風に揺れる髪から、甘い果実と花を思わせる上品な香りが運ばれてくる。香りまで伝わって来るとは、やけにリアリティのある夢だ。
 ごくりと喉を鳴らしながら、接近する少女を避けるようにして後退した。少女が一歩前進する。僕の肩は壁画へ追い込まれた。

「男の子なのに、睫毛長いね」
「睫毛?」
「うん、くるんってしてる。目も鉛筆の芯みたいに黒いね」
「鉛筆の芯……?」
「冗談だよ。夜の空みたいに綺麗な色」

 目の前で微笑む少女の頬に触れたら、どうなるだろう。柔らかそうな白い肌は、手を伸ばしたら爆ぜて失くなってしまいそうだ。
 でも、夢なのだからそれも良いかもしれない。促すような鼓動は徐々に加速していく。
 そっと伸ばした指先が、白玉のような少女の頬へ触れた。赤ちゃんの手を握っているような柔らかな感触が伝わってくる。

 次の瞬間、テレビの電源を消したように、たちまち視界は真っ暗闇となった。


 不思議な夢だった。目が覚めた時、人肌の感触が指先に残っている気がした。
 夢であって、でも実際に起こっていたような感覚。それが要因になったのかは分からないけど、僕は弓道場へ行く前に土曜日の学校へ寄った。
 校舎横に並ぶ体育館用階段の側面壁そくめんへきを確認するためだ。

 入学した当初から、何か描いてあったことは認識していた。通り過ぎるだけの日常背景だった壁に、どんな絵が描いてあったかまでは気にならなかった。つい、昨日までは。

「紫の……人魚」

 壁一面に広がっていたのは、ヴィーナスの誕生のように芸術的な人魚と海の生物。夢では未完成だったけど、こちらではしっかりと完成された絵が目の前に写し出されている。

 鮮やかだった色味は、太陽や雨によって色褪せた写真のように薄い。角の下には、製作された日付けらしき数字とローマ字で名前が記入されている。もしかしたら、あの子の名前があるかもしれない。
 屈んで顔を近付けてみると、消えかけて読めない場所がある。もう少し、目を凝らしてみたら……。
 僕は何を必死になっているんだ?
 糸のように細めていた目が元の大きさへ戻る。こんなこと、どうでもいいじゃないか。

「絵に興味あるの?」

 風の知らせもなく、頭上から声が降って来た。見上げると、日南先生の顔がすぐ近くにあって、変な声を上げた僕の腰は地面へと崩れた。

「……いったぁ」
「驚きすぎよ。大丈夫?」

 差し伸べられた細い手を掴むか躊躇する。でも、あっという間に腕は引っ張り上げられ、両足の靴底はコンクリートを踏みしめた。
 触れられた二の腕から手の柔らかさが伝わってきて、知らないはずなのに覚えている。夢で感じた感触と似ている気がした。

「直江くんって、絵に興味あるの?」

 日南先生は、同じ質問を繰り返した。

「ずっと、この壁画を熱心に見ていたから」

 隣に立ちながら、僕はもう一度人魚を見た。
 表情のない顔立ちが、しばらくすると微笑んでいるように錯覚してくる。夢と現実の境界が曖昧であるように。

「僕が興味あるのは、これを描いた人です」

 変な奴だと、笑われると思った。
 予想とは違い、日南先生はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべる。

結芽高ここの卒業生。学祭のために美術部が描いたのよ」
「美術部?」
「そう。だから私としても、この壁画はとても思い入れがあるの」
「どうしてですか? 確か去年でしたよね、日南先生が転任して来たのって」
「だって」

 言いかけたとたん、校舎から音楽が流れ始める。聴き慣れたクラッシックのメロディが、彼女の言葉をわざと遮ぎったように聴こえた。

「もうこんな時間なのね。直江くん、弓道場行かなくていいの?」
「……行きます」
「そろそろ、先生も美術室へ行こうかな。じゃあ、また明日ね」
「はい」

 理由を聞けないまま、会話は途切れてしまった。
 今日の僕は、どうかしている。
 夢で会った少女を、日南先生が知っているかもしれない。そんな馬鹿げたことを真剣に考えたなんて。
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