画仙紙に揺れる影ー幕末因幡に青梅の残香

冬樹 まさ

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3章

6.その男、詫間樊六②

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 五月下旬、朝から雨が落ちてきそうな暗い空であった。
 根本家の画室で誠三郎は、三幅対の「琴棋書画図」の模写をしていた。「琴棋書画図」は、狩野派による深山幽谷での世俗を解脱した境地を描く本来の型がある。根本が描いた絵はがらりと画風が異なり、風雅を愉しむ人物を賑やかに配している。鮮やかに松葉緑青や辰砂を使い、写生画法を使っているのだ。
 誠三郎はその色遣いを学ぶべく、夢中で輪郭線を写しては色を載せていった。

「こう蒸すと、絵に汗が垂れるのを防ぐのに苦労する」

 物ぐさに袖で汗を拭っては、筆を握り直す。擂り鉢で胡粉を擦りながら要之介が隣に来た。

「誠三郎の汗は粘っこいからな。その脂汗が絵の具に混じると、色合いが変わるであろうよ」

 摺り鉢を畳に置いた要之介は、こめかみや首筋に荒々しく手拭いを押し付けてくる。

「痛いな、貸してみろ」手拭いを奪い取って、誠三郎は身を反らせた。

 離れで嗅ぎなれた要之介の甘酸っぱい香が鼻先を掠め、余計に汗が噴き出していた。
 昼下がり、出仕していた根本が帰宅した。
 画室に入ってきた根本は一旦、上座へ腰を下ろす。

「ひと雨降ってくれんと、蒸し暑くてかなわん」

 弟子らの挨拶を受け終えると、根本は誠三郎たちの脇へ来た。

「二十士は津田様やら重臣六家に分かれての謹慎と決まった。まだここだけの話だ、よいか」

 羽織を脱ぎながら、根本は誠三郎と要之介に小声で告げる。要之介は片膝を立てて身構えた。

「詫間先生は、どちらの屋敷に行かれるのでしょうか」
「わからぬ。どちらにしても、厳しく見張られることになる。いずれは二十士皆が、一家の屋敷に集められるとの噂よ。集められた時には、厳しい処罰が下ると言われておるが、まだなんとも」

 要之介は黙って項垂れた。
 怖れていた処断の時が着々と迫っているのは、明らかだった。いつまでも謹慎のままでは彼らも辛かろうが、生きてさえいれば、活路が開ける日が来るというものである。

「他家の屋敷へ移る前に、ご実家の詫間先生に今ひとたび会っておかねば。ああ、急がねばならん!」

 要之介は立ち上がり、今にも駆けさんとの勢いで踏み出す。
 誠三郎は、要之介の袴の裾を掴んだ。

「落ち着け、要之介! 行く時は抜かりなく支度して、用心して向かわねばならん」

 荒い息遣いで振り返った要之介は、血走った目で誠三郎を睨みつけた。その場にどさりと腰を下ろし、拳を畳に打ちつける。

「いかにも、誠三郎の言う通りだ。無闇に駆けつけるのでなく、思案を重ねて、用意周到に出向くことにしようぞ」

 根本はそう言って、自身が仕上げの途中だった牡丹と猫の花鳥画を広げて色を載せていく。誠三郎たち弟子の描いた模写二枚も見分し、朱筆を入れていった。
 実弟である弟子の雪峨に、いくつか彩色の手直しの指図を与えてから廊下へ出た。相変わらず筆さばきが早く、豪快な描き振りである。寝込んだ際に痩せた肉付きは戻ってないが、顔の色艶はよくなってきた。

「襖絵下絵の色直しを手伝ってもらいたい。今日は夕飯を食っていかれたらよい」

 雪峨が新たに絵の具を調合しながら、誠三郎に声をかけてきた。微妙な色味を修正して、全体の色調を整える作業に携われるのが嬉しい。使った面相筆を濯ぎ、襖絵下絵の前に身構える。要之介は降りだした雨を眺め、縁に立ち尽くしていた。

 夕餉の膳は猛者もさ海老のうま煮と豆腐の田楽であった。

「いや、これは馳走であるな。猛者海老は煮付けが好物よ」

 塞ぎこんでいた要之介は目を輝かせて箸を取った。旬の終わりを迎えた海老は濃厚な味わいで、つい飯が進む。根本は所用で遅れて膳についた。

「二人とも童のようによく食べるな。これも食べよ」そう言って円らな目を細めて、自身の皿から海老を取り分けた。

 膳が下がると、詫間家に樊六を訪ねる手はずを相談した。

「明日は無理だが、二日後の晩でどうだ。手土産に酒をわしが用意する。詫間どのと、夜通し汲み交わしたいものよのう」
「今度こそ我が師と間近で話ができますな」

 おう、と何度も応える根本は要之介の白い貌を酔い痴れるごとくに見つめていた。
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