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3章
4.城下にて、新たな春④
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詫間樊六は京で同志と事変を起こし、尊皇の志士として天下に名を轟かせた後は処罰を待つ身となった。時代の激しく大きなうねりの中を生きている。
日々顔を合わせて道場や手習いで切磋琢磨した竹馬の友であったのに、樊六だけが藩の枠を飛び超え、暗雲立ち込める空に浮かぶ綺羅星として仰ぎ見る存在になったと思っていた。
こうしてやっとのことで再会してみれば、胸の内が深く通い合う友諠に変わりはない。誠三郎は来た道を引き返しながら、樊六のためになにもできぬ己の無力を恨んでは地を蹴って歩く。
ふと、えずきを覚えるほどの腐臭が鼻をつき、誠三郎は立ち止まった。
袋川の手前である。
濃くなった闇の中で、目を凝らして足下を確かめた。
道の真ん中に、嘔吐物が大量に零れている。吐かれて間がないようで、臭いが濃く立ちのぼっていた。草履の先についた汚物を土になすりつけ、誠三郎はそこを避けて歩んだ。あまり見ぬようにしたものの、点々と黒ずんだ血が混じっているのが目に焼きついた。
大榎町の屋敷に帰り着いても、鼻孔に臭いが残っているようだった。井戸端で顔を洗ってから、庭伝いに離れの自室に向かう。
障子を開けようとして、沓脱ぎ石に見慣れぬ雪駄が脱ぎ棄てられているのに気づいた。
息を呑んで、中に声をかける。
「おい、誰がいるのか、開けるぞ」
返事が聞こえぬうちに、勢いよく障子を開けた。
「いつでも来てよいと言っておったな、誠三郎。また世話になることにした」
馴れた様子で炬燵に足を突っ込んでいるのは、要之介である。
振り返って、勿体ぶった笑みを向けてくる。左目の下の傷は、依然黒ずんで残っている。生涯消えぬであろうか。
「こちらは構わんが、根本先生は知っておられるのか、随分急なことではないか?」
「今日は、根本先生に裏切られた。わが師の城下入りを俺に教えんなど、あり得ぬこと。あれほどに、俺が詫間先生と再会できる日を待ち焦がれておったのを知りながら」
思いの深さを知っていたからこそ、様子を見てから伝えようとしたのだといくら諭しても、聞く耳を持たなかった。要之介がここに来たのは嬉しいが、根本に怒りを抱いて屋敷を飛び出した体なのは遺憾であった。
「根本先生には、屋敷を出ると申し伝えた。後日、荷物を取りに寄るとな」
「先生は、なんと言っておられた?」
要之介は片頬を持ち上げ、薄笑いを浮かべる。
「気を落ち着けてくれ、今宵は共に帰ろうと言われたが、断って別れてきた」
「それはよくない。戻って、先生と話し合って来い」
「いや、もう戻らぬ。……済まんが、俺は腹が減っておる」
それきり根本の話はせぬまま、離れで夕飯をとった。
「二十士は藩主の為に賊臣を討った忠義の士であるから、臣下として重用せよと進言する者もおるのだ。先生はわが藩の宝、厳罰を下すなどあってはならんことよ」
そう息巻いて、要之介は飯を頬張る。
「どうも見通しはたたんな。切腹ではなく斬首にすべしと厳しい仕置きを訴える者がおる一方、大方の藩士は日和見を決めておるのよ。長州は表向き幕府に恭順を示したままで、水戸の天狗党は京を目指しての行軍の末に劣勢となり、先の十二月に加賀で降伏した。勤皇派に不利な状況下、二十士にお咎めなしとはいかんだろう」
眉根を寄せて要之介は声を荒げる。
「沙汰が下る前に、先生を必ずお救いするからな。おうっ、この酒は美味いな」
根本からもらったと言わず酒を注ぎ足してやると、要之介は目を輝かして盃を干し、機嫌を直していく。
箱膳を台所に返しに行き、竈の脇で筍の皮を剥いていたきくに、要之介が離れにいることを話しておいた。
要之介と夜着を分かち合って寝るのは初めてだった。誠三郎の愛撫に挑むように躰を絡ませてきて、要之介は甘えた声をだす。誠三郎は、腕の中で蠢く若き獣の感触に酔い痴れていた。
みなぎる愛おしさに溺れながらも、時折、詫間家からの帰途、道で腐臭を放っていた嘔吐物が頭の隅を過った。何度振り払っても、あの光景と臭いが頭の中で不穏な翳りをちらつかせていた。
日々顔を合わせて道場や手習いで切磋琢磨した竹馬の友であったのに、樊六だけが藩の枠を飛び超え、暗雲立ち込める空に浮かぶ綺羅星として仰ぎ見る存在になったと思っていた。
こうしてやっとのことで再会してみれば、胸の内が深く通い合う友諠に変わりはない。誠三郎は来た道を引き返しながら、樊六のためになにもできぬ己の無力を恨んでは地を蹴って歩く。
ふと、えずきを覚えるほどの腐臭が鼻をつき、誠三郎は立ち止まった。
袋川の手前である。
濃くなった闇の中で、目を凝らして足下を確かめた。
道の真ん中に、嘔吐物が大量に零れている。吐かれて間がないようで、臭いが濃く立ちのぼっていた。草履の先についた汚物を土になすりつけ、誠三郎はそこを避けて歩んだ。あまり見ぬようにしたものの、点々と黒ずんだ血が混じっているのが目に焼きついた。
大榎町の屋敷に帰り着いても、鼻孔に臭いが残っているようだった。井戸端で顔を洗ってから、庭伝いに離れの自室に向かう。
障子を開けようとして、沓脱ぎ石に見慣れぬ雪駄が脱ぎ棄てられているのに気づいた。
息を呑んで、中に声をかける。
「おい、誰がいるのか、開けるぞ」
返事が聞こえぬうちに、勢いよく障子を開けた。
「いつでも来てよいと言っておったな、誠三郎。また世話になることにした」
馴れた様子で炬燵に足を突っ込んでいるのは、要之介である。
振り返って、勿体ぶった笑みを向けてくる。左目の下の傷は、依然黒ずんで残っている。生涯消えぬであろうか。
「こちらは構わんが、根本先生は知っておられるのか、随分急なことではないか?」
「今日は、根本先生に裏切られた。わが師の城下入りを俺に教えんなど、あり得ぬこと。あれほどに、俺が詫間先生と再会できる日を待ち焦がれておったのを知りながら」
思いの深さを知っていたからこそ、様子を見てから伝えようとしたのだといくら諭しても、聞く耳を持たなかった。要之介がここに来たのは嬉しいが、根本に怒りを抱いて屋敷を飛び出した体なのは遺憾であった。
「根本先生には、屋敷を出ると申し伝えた。後日、荷物を取りに寄るとな」
「先生は、なんと言っておられた?」
要之介は片頬を持ち上げ、薄笑いを浮かべる。
「気を落ち着けてくれ、今宵は共に帰ろうと言われたが、断って別れてきた」
「それはよくない。戻って、先生と話し合って来い」
「いや、もう戻らぬ。……済まんが、俺は腹が減っておる」
それきり根本の話はせぬまま、離れで夕飯をとった。
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そう息巻いて、要之介は飯を頬張る。
「どうも見通しはたたんな。切腹ではなく斬首にすべしと厳しい仕置きを訴える者がおる一方、大方の藩士は日和見を決めておるのよ。長州は表向き幕府に恭順を示したままで、水戸の天狗党は京を目指しての行軍の末に劣勢となり、先の十二月に加賀で降伏した。勤皇派に不利な状況下、二十士にお咎めなしとはいかんだろう」
眉根を寄せて要之介は声を荒げる。
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みなぎる愛おしさに溺れながらも、時折、詫間家からの帰途、道で腐臭を放っていた嘔吐物が頭の隅を過った。何度振り払っても、あの光景と臭いが頭の中で不穏な翳りをちらつかせていた。
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