画仙紙に揺れる影ー幕末因幡に青梅の残香

冬樹 まさ

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2章

10. 佐治谷、冬の紙漉き唄②

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 すでに日が落ちて、納屋の中では互いの顔が陰って見辛くなった。火鉢を運んできた小柄な娘が、握り飯が載った皿と行灯を抱えて戻ってきた。行灯に火を入れると、頬の赤い娘は目を丸くしてこちらを向いた。

「このところ、うちもよく紙を漉いております。お父っさんは紙を束ねたりしとるから、うちが漉くところをお見せしましょうか」
「年の瀬の忙しいところ、申し訳ない。是非頼む」
「うちの名はあさ、言います。今夜は、家に泊まりんさるんでしょう、握り飯、食べてくださいな」

 濃い眉に円らな眸、団子鼻が居座って、父親と面差しの似た娘だった。親切だが、愛嬌はない。綿入れも羽織らず、継ぎの当たった丈の短い着物に素足で下駄を履いている。要之介は汚れた手を皿へ伸ばして、握り飯にかじりついた。飯を喉に詰まらせかけた要之介に、あさという娘はけらけらと笑い声をたてる。誠三郎は水の入った竹筒を差し出した。

「ようけ腹を空かせとるみたいですね。囲炉裏で呉汁ごじるが煮えとりますから、あちらで食べんさったらいかがです」
「それはありがたいが、あまり冷え込む前に、紙漉きを見せてもらいたい」

 あさは誠三郎の言葉に頷くと、漉き舟の方に向かった。誠三郎があさと並んで漉き舟の前に立つと、要之介は斜め前から覗き込む。
 娘は桶の水中から白い紙料の塊を掴み出し、漉き舟の中に入れた。竹竿で水の中を大きくかき回し、紙の元を溶かして濃さを均等にしていく。

「これはサナというもので、とろろあおいの根で作った糊です」

 片口に入ったとろみのある糊を、漉き舟の中に注ぎ込んだ。さらに水をかき混ぜる。
 屋根の梁から吊り下げている、小振りの畳ほどの大きさがある木枠、簀桁すげたと呼ばれるものを掴んで下ろし、漉き舟の中、紙料の溶け込んだ水中に差し入れた。ぱちゃぱちゃと水面近くで簀桁を素早く揺らし、水から引き上げる。ぽんと軽快な音をたてて、余分な水を捨てた。薄いすだれ状のを、簀桁の木枠から取り上げると、その簀の上に紙が漉きあがっている。

「この漉いたばかりの紙を載せた簀は、あそこの、小屋の隅に重ねて置いてます。そのまま一晩放っておいて、水を切るんです。翌日から重石をして水を絞り、しっかり乾燥させたら出来上がりです」

 あさは簀を大事そうに両手で広げ持って、小屋の隅へ運んだ。
 あさは漉き舟の前に戻ると、今度は漉きながら唄いだした。

〽因州因幡の 手すきの紙は
 殿の御用の納め紙 アリャ 納め紙
 
紙は手ですく 手は唄ですく
 唄はすき娘(こ)さんの心意気 アリャ 心意気
 
因幡手すき紙 お殿さんに納め
 蝶の御紋を許された アリャ 許された
 
朝も早から 紙ゃすくけれど
 晩にゃ殿御に手紙書く アリャ 手紙書く

 娘は簀桁を漉き舟の中に差し入れて揺らし、水から引き上げては簀を取り上げるまで、淀みのない手さばきで紙を漉いていく。水面で、簀桁が水と絡み合うぱしゃぱしゃいう音、漉かれた紙から水を切るぽんと鳴る音、あさの唄う紙漉き唄。すべてが溶け合って心地よい調べを奏でていた。
 目を閉じて唄を聞いていると、羽衣を纏った天女が紙を漉きながら唄う姿が脳裏に描きだされる。それほどに涼やかで澄んだ歌声であった。疲れと冷えで凝り固まった躰が、ほぐれて安らいでいく。
 目を開ければ、田舎臭いと眺めていた娘の横顔がにわかに愛らしく見えてきた。手際のよい動きと妙なる調べに、つい見惚れて聞き入ってしまう。横を見ると、要之介も口を半開きにしたまま放心していた。

「どうだ、面白いものだろう」
「ああ、こうやって紙ができるのか、考えたこともなかった。あさ、と言ったな、俺たちにも、漉かせてくれ」
「慣れんと難しいですが、やってみんさるといいです」

 あさは漉き舟の正面を空けて、要之介の場所を作った。
 要之介が漉いた後、誠三郎も漉き舟の前に立った。簀桁に手を据えるのを手伝う娘の掌は、よく見ると真っ赤に腫れ上がっている。霜焼けになった上、ひびが切れているのだ。痛みがあろうに、あさは笑って水に手を浸していた。誠三郎が水中に手を入れると刺すほどの冷たさで、思わず簀桁を放しそうになった。あさは横からしっかりと、簀桁を掴んでくれる。

「お侍さんはそんなんで、勤まりんさるんか?」

 大口を開けて笑い、凍らんばかりの水中で真っ赤な手で簀桁を揺らす。こうするんです、と言いながら、誠三郎の手に己の手を重ねて捨て水の調子を取り、紙を漉き上げるあさの逞しさに、誠三郎は懐かしさを覚えた。女中のきくは六十過ぎだが、罅が切れた手に膏薬を塗ってやろうと言っても、痛くないから要らん、慣れていると笑う。その赤い手で誠三郎は育てられたのだ。

「寒中にも、紙を漉くのか」
「寒ければ寒いほど、いい紙ができると言います。紙の元を晒す水が冷たければ冷たいほど、白く冴えた紙になるんです。うちら百姓は冬場、こうして稼がんと食べていかれんです。世の中は尊皇、攘夷とか言いんさって、うちはよくわかりませんが、世の仕組みが変われば、暮らしが楽になるいうんは、本当のことですか?」

 誠三郎は咄嗟に応えることができない。佐治谷のごとき山里にまで、世情のうねりが届いていた。それほど激しく時勢が動いている。
 尊皇攘夷は一時代を風靡した御題目だが、日ノ本から異人を排すべしという攘夷思想はもはや時流にそぐわぬとして、開国を是とし異国から多くの知識や利益を得ようとする動向に変じていた。百姓の暮らしを根本から変えようと真摯に考えている尊皇志士がどれほどいるかは、誠三郎は疑わしく思っている。
「いずれ世は、尊皇派が良い方へ変えるはずよ。だが今は中道派が藩を統べておる。尊皇を口にするのは、止めておくがいい。己の身は己で守らんとな」

 誠三郎は十六本松での仕置きを思いだして、素っ気なく言い放った。紙を二枚漉き終えると、要之介が入れ代わりに漉き舟の前に立った。

「もう少し漉かせてくれ」

 あさは眉を八の字に寄せて、小屋の入り口を見やった。
 すっかり外は闇が下りている。せがむごとき顔になった要之介を振り返ると、ぎこちない辞儀をした。

「支度ができてますんで、そろそろ夕飯を召し上がってください。その後でまた漉きんさればいいです」
「そうしよう。手間をかけて悪いな」

 誠三郎が言うと、要之介はしぶしぶ漉き舟から離れた。あさに案内されて納屋を出て、隣の茅葺きの家に入った。
 大根と里芋を煮て、擂り下ろした大豆を流し入れた味噌仕立ての呉汁が夕飯である。珍しくもないが、百姓家の囲炉裏端で食べると、冷え切った腹に染みるように旨かった。せっかく躰が芯からほぐれて温まったので、紙漉きはやめてそのまま休むことにした。 
 古びて生地がほつれた夜着を貸してもらう。横になると、要之介はすぐに鼾をかきはじめた。
 夜更けに目が覚めた。あまりに顔が冷たく、夜着に潜り込もうとした誠三郎は、己と要之介との間になにか気配を感じた。暗さに目が馴れてくると、あさという娘が要之介に寄り添って綿入れにくるまって横になっているのがわかった。
 二人がまぐわった余韻は残ってない。あさは十四というから、気に入った男の傍で添い寝しているだけなのだろう。いや、あの艶のある歌声からして、色欲をすでに持っていても不思議はない。要之介は深い寝息をたてている。
 誠三郎は気になって目が冴え、寝返りを打ち続けた。
 隣に動きがあり、耳を澄ませる。
 あさは起きあがって要之介の隣を去り、奥の間に戻っていった。要之介の気配に乱れはない。
 聞き慣れていた要之介の小刻みな鼾に聞き入っているうち、誠三郎に波のごとく眠りが訪れた。 
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