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2章
3. 聖社、春祭の宵②
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獅子舞の下絵が仕上がり顔を上げた誠三郎は、足の踏み場もない人混みを縫って数人の藩士が境内を見回っているのに気づいた。役人のうち一人は誠三郎と同い年で、代々物頭を務める家を継いだ山岡辰之進である。誠三郎と一度目を合わせたが、忙しなく目礼したのみで人を探しているようであった。他の藩士は下役らしく、山岡に指図を仰いでいる。
境内を一通り調べ終えたのか、山岡はこちらに近寄ってきた。
「米村ではないか、久しいのう。このようなところで、なにをしておる?」
「祭りの風景を描いておる。それがしは絵師ゆえにな」誠三郎は筆を持ち上げて見せる。
「そうであったな、お主は絵師の道に入ったのであった。剣もなかなか巧みであったゆえ、道場の師範になるかと思っておったが。確か藩のお抱え絵師には、なっておらんかったな……、これからどうするつもりだ?」
山岡の声音には、はっきりと憐憫が滲んでいる。誠三郎は画帳を閉じて、山岡の立ち姿に目を走らせた。山岡辰之進は、樊六と通った兌山流の道場で共に修行した仲間だった。幼少の頃から大柄で剣の筋がよいと師範に目をかけられ、出仕してからは城での勤めの評判も上々と聞く。鼻筋の通った精悍な顔立ちで黒縮緬の羽織が身に馴染み、物頭を務める藩士としての風格が備わっている。
片やこちらはいまだ部屋住み、通いの絵師見習いである。裾が擦り切れた小倉の袴に、角のちびた下駄履きという風采の上がらぬ姿。どれほど憐れんだ眼差しで見られようとも同門の徒として対峙せねばと、顎を上げて山岡を見返した。
「それがし、遠からず御用絵師に推挙されるはずよ」
「そうか、吉報を待っておる。それはさておき、目下、不逞浪士が城下に入り込んでおるのだ。今宵の祭に紛れて、当藩の尊攘派と落ち合う気配であるとの報せが入った。米村、見かけておらんか?」
「いや、舟形屋台を描いておって、他はなにも見ておらん。そんな怪しい輩がおったら、目についたであろう」
「まあ、絵師のお主に聞いてもしかたないが、あの詫間とも親しかったゆえ、尊攘浪士を見知っておるやもしれんと思うてな。申し渡しておくが、尊皇攘夷を唱える不埒者は、いずれ厳罰を下される。大罪人の二十士が許されることはないと思っておるがいい。米村も身を慎むことだな」
山岡は命じる口調で告げて、誠三郎を見据えてくる。山岡は藩の主流となった幕府寄りの中道派という訳だ。物頭ともなると、派閥内でも力を持っておろう。俄然、反骨心が湧いた。
「それがしは尊皇派でも中道派でもないただの絵師だがな。聞くところによると、三月に水戸の筑波山で尊王攘夷を唱えて挙兵した天狗党は当初の兵数の百五十人から千人を超えて膨らみ、京を目指す勢いだという。はたまた、京の市中では、密かに入京した長州藩士、土佐やらの尊攘派が会合を持って決起に向けて動いておる。尊攘派は賊徒と呼ばれもするが、世の情勢はまだ定まってはおらん」
誠三郎は片頬を上げて笑ってみせる。
「そうよ。昨年八月十八日の政変で会津と薩摩によって京から追放された長州の賊めは、再起を諦めてはおらんのだ。本圀寺事件の二十士は、近く伏見藩邸から鳥取藩内へ移される。京での長州勢の水面下の動きに二十士が同調せぬよう、京大坂から遠ざけるのよ」
したり顔で山岡は声を潜めた。
「城下であれほど勢いのあった尊皇派は、今や中道派に抑え込まれておる。それでも二十士の処分が謹慎で留められているのは、水戸育ちの殿様のお慈悲やら、京屋敷大目付、堀庄次郎の後ろ盾によるものでもあろう。処分があまりに寛容過ぎて許せんと憤る声が収まらぬところへ、二十士が帰藩すれば騒ぎが起こるのは必定よ。不穏な動きの芽は、早くに摘まねばならん」
見慣れぬ旅装の侍連れは長州辺りの尊攘派だと、視野に入ったときから誠三郎は目星をつけていた。鳥取藩の尊皇派と連携するために城下を訪れており、京に上る途中なのだろうと眺めていたのだ。
要之介は神風流の門下として、師である樊六の剣技と人格、尊皇思想に心酔している。長州者と落ち合っていた若侍も、神風流の弟子かもしれぬ。京に乗り込んで樊六を幽閉から救おうという神風流門下による企みは、いまだ続いているのか。要之介は、再び神風流と繋がっているのだろうか――。
「不逞浪士は三人連れらしいが、見かけたら必ず番所に知らせるように。よいな」
そう言い捨てると、山岡は下役たちと境内を再び探索しはじめた。
藩の御用絵師になれないのであれば、幕府も藩も己にとって不要であるという考えが、このところ胸に萌していた。尊皇派は、政のすべてを天子に戻すべしと考えている。誠三郎がそこに心惹かれるのは自身の都合であって、朝廷へ尊崇の念を抱いているわけではない。命懸けで国事に奔走する、志士と呼ばれる長州や諸国の脱藩浪士、樊六ら二十士が抱く尊皇論、志というものが一体どのように芽生えるのか、不可解でしかなかった。誠三郎にとって胸の内から込み上げる熱情は絵に向かうものでしかない。
尊皇攘夷か佐幕か、どちらにも与するつもりはないが、新たな世に向けての信条に命がけで身を投げ出す者たちに、羨望のようなものを感じはじめていた。あの侍連れが山岡ら藩の追っ手からうまく逃れて欲しいと切に願う。
お囃子の音色が止み、獅子舞の奉納は終わった。
誠三郎は画帳と矢立を袂に放り込み、両の拳を夜空へと突き上げた。絵描きで凝った背筋を解し、仰向いて冷たい夜気を胸奥まで吸い込む。天空では星が冴えて光っていた。わずかに赤味を残した西空の縁が、夜闇に塗り潰されていく。あの色合いは、どのように絵の具を調合して作ろうか。弁柄に鉄紺を混ぜて塗ってみるとしよう。
山岡らが肩をいからせて南参道へと境内を横切る姿が、目の端を掠めた。町人たちは恐る恐る藩士らに道を空け、身を縮めている。
誠三郎はそちらに背を向け、西空の色の移ろいを眺め続けた。
境内を一通り調べ終えたのか、山岡はこちらに近寄ってきた。
「米村ではないか、久しいのう。このようなところで、なにをしておる?」
「祭りの風景を描いておる。それがしは絵師ゆえにな」誠三郎は筆を持ち上げて見せる。
「そうであったな、お主は絵師の道に入ったのであった。剣もなかなか巧みであったゆえ、道場の師範になるかと思っておったが。確か藩のお抱え絵師には、なっておらんかったな……、これからどうするつもりだ?」
山岡の声音には、はっきりと憐憫が滲んでいる。誠三郎は画帳を閉じて、山岡の立ち姿に目を走らせた。山岡辰之進は、樊六と通った兌山流の道場で共に修行した仲間だった。幼少の頃から大柄で剣の筋がよいと師範に目をかけられ、出仕してからは城での勤めの評判も上々と聞く。鼻筋の通った精悍な顔立ちで黒縮緬の羽織が身に馴染み、物頭を務める藩士としての風格が備わっている。
片やこちらはいまだ部屋住み、通いの絵師見習いである。裾が擦り切れた小倉の袴に、角のちびた下駄履きという風采の上がらぬ姿。どれほど憐れんだ眼差しで見られようとも同門の徒として対峙せねばと、顎を上げて山岡を見返した。
「それがし、遠からず御用絵師に推挙されるはずよ」
「そうか、吉報を待っておる。それはさておき、目下、不逞浪士が城下に入り込んでおるのだ。今宵の祭に紛れて、当藩の尊攘派と落ち合う気配であるとの報せが入った。米村、見かけておらんか?」
「いや、舟形屋台を描いておって、他はなにも見ておらん。そんな怪しい輩がおったら、目についたであろう」
「まあ、絵師のお主に聞いてもしかたないが、あの詫間とも親しかったゆえ、尊攘浪士を見知っておるやもしれんと思うてな。申し渡しておくが、尊皇攘夷を唱える不埒者は、いずれ厳罰を下される。大罪人の二十士が許されることはないと思っておるがいい。米村も身を慎むことだな」
山岡は命じる口調で告げて、誠三郎を見据えてくる。山岡は藩の主流となった幕府寄りの中道派という訳だ。物頭ともなると、派閥内でも力を持っておろう。俄然、反骨心が湧いた。
「それがしは尊皇派でも中道派でもないただの絵師だがな。聞くところによると、三月に水戸の筑波山で尊王攘夷を唱えて挙兵した天狗党は当初の兵数の百五十人から千人を超えて膨らみ、京を目指す勢いだという。はたまた、京の市中では、密かに入京した長州藩士、土佐やらの尊攘派が会合を持って決起に向けて動いておる。尊攘派は賊徒と呼ばれもするが、世の情勢はまだ定まってはおらん」
誠三郎は片頬を上げて笑ってみせる。
「そうよ。昨年八月十八日の政変で会津と薩摩によって京から追放された長州の賊めは、再起を諦めてはおらんのだ。本圀寺事件の二十士は、近く伏見藩邸から鳥取藩内へ移される。京での長州勢の水面下の動きに二十士が同調せぬよう、京大坂から遠ざけるのよ」
したり顔で山岡は声を潜めた。
「城下であれほど勢いのあった尊皇派は、今や中道派に抑え込まれておる。それでも二十士の処分が謹慎で留められているのは、水戸育ちの殿様のお慈悲やら、京屋敷大目付、堀庄次郎の後ろ盾によるものでもあろう。処分があまりに寛容過ぎて許せんと憤る声が収まらぬところへ、二十士が帰藩すれば騒ぎが起こるのは必定よ。不穏な動きの芽は、早くに摘まねばならん」
見慣れぬ旅装の侍連れは長州辺りの尊攘派だと、視野に入ったときから誠三郎は目星をつけていた。鳥取藩の尊皇派と連携するために城下を訪れており、京に上る途中なのだろうと眺めていたのだ。
要之介は神風流の門下として、師である樊六の剣技と人格、尊皇思想に心酔している。長州者と落ち合っていた若侍も、神風流の弟子かもしれぬ。京に乗り込んで樊六を幽閉から救おうという神風流門下による企みは、いまだ続いているのか。要之介は、再び神風流と繋がっているのだろうか――。
「不逞浪士は三人連れらしいが、見かけたら必ず番所に知らせるように。よいな」
そう言い捨てると、山岡は下役たちと境内を再び探索しはじめた。
藩の御用絵師になれないのであれば、幕府も藩も己にとって不要であるという考えが、このところ胸に萌していた。尊皇派は、政のすべてを天子に戻すべしと考えている。誠三郎がそこに心惹かれるのは自身の都合であって、朝廷へ尊崇の念を抱いているわけではない。命懸けで国事に奔走する、志士と呼ばれる長州や諸国の脱藩浪士、樊六ら二十士が抱く尊皇論、志というものが一体どのように芽生えるのか、不可解でしかなかった。誠三郎にとって胸の内から込み上げる熱情は絵に向かうものでしかない。
尊皇攘夷か佐幕か、どちらにも与するつもりはないが、新たな世に向けての信条に命がけで身を投げ出す者たちに、羨望のようなものを感じはじめていた。あの侍連れが山岡ら藩の追っ手からうまく逃れて欲しいと切に願う。
お囃子の音色が止み、獅子舞の奉納は終わった。
誠三郎は画帳と矢立を袂に放り込み、両の拳を夜空へと突き上げた。絵描きで凝った背筋を解し、仰向いて冷たい夜気を胸奥まで吸い込む。天空では星が冴えて光っていた。わずかに赤味を残した西空の縁が、夜闇に塗り潰されていく。あの色合いは、どのように絵の具を調合して作ろうか。弁柄に鉄紺を混ぜて塗ってみるとしよう。
山岡らが肩をいからせて南参道へと境内を横切る姿が、目の端を掠めた。町人たちは恐る恐る藩士らに道を空け、身を縮めている。
誠三郎はそちらに背を向け、西空の色の移ろいを眺め続けた。
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