画仙紙に揺れる影ー幕末因幡に青梅の残香

冬樹 まさ

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2章

1.初春

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 穏やかな新年を迎えていた。
 二人の姪、十一歳になった志津と八歳の百合が誠三郎の離れに遊びに来ていた。義姉の花江には離れで遊ぶことを禁じられているのだが、花江は兄の年賀の客のもてなしに追われている。ままごと道具や歌留多を持ち込み、振袖姿ではしゃいで遊ぶ子らに離れは賑わった。

「誠三郎おじ様は、どうしてご新造をもらわないの?」 妹の百合が問うてくると、姉の志津が誠三郎に目配せしてきた。

「ままごとの続きで、私がご新造になってさしあげましょうか」

 冗談でも志津のこのような言葉を花江が耳にしたら、己は包丁で切りつけられるに違いない。

「心配せんでよい。おじさんも、そのうち新造をもらうでな」

 嫌な汗が脇に滲むのを感じて誠三郎は唇を歪めて笑んでは、ぼりぼりと首を掻いた。大人の話を聞きかじって、子供は痛いところを突いてくる。誤魔化すにも、どうも決まりが悪い。ままごとに飽きた姪たちは、庭に出て独楽を回してくれと言いだした。
 廊下から声がかかった。

「なにをして遊んどりんさるな? お茶はいかがかね」

 きくが茶道具と焼いた餅を盆に載せて襖を開けた。きくだけは離れに要之介が居候していたことを知っていた。誠三郎が生まれる前から屋敷に住み込みで働いているきくは、誰よりも気にかけてくれる。食が細くよく熱を出した長兄の忠右衛門のことで手一杯だった母に代わり、十二歳で亡くなった次兄の義太郎と誠三郎の世話を焼いてくれた。

「誠三郎坊ちゃんは、今年こそお城の御用絵師になられんさる」
「御用絵師になったらご新造をもらうのね。祝言には、私たちも出られますね」牡丹が染めだされた朱鷺色の晴れ着を纏った志津は、大人びた笑みを浮かべる。
「お楽しみになさいませ。ご新造になりたい愛らしい娘さんが、行列作って屋敷に押しかけてきますが」

 そう言って餅に黄粉をまぶして小皿にのせ、きくは茶と共に差し出す。福々しい顔にくちゃっと皺を寄せて笑うきくに、誠三郎は厳しい現状を告げる気になれない。

「藩よりお召しがあれば、志津や百合、きくに新しい着物を仕立ててやろうな。じきに、師からお話があろう」
「良いこと尽くしの年になるがね」

 餅を頬張り茶を啜れば、すべてが思い通りに運んでいくような気がしてくる。正月くらいは、縁起を担いで景気の良いことばかり口にしておく。
 餅を食べて満足した姪たちは、離れから出て行った。きくが持ってきた盆の上には好物の豆腐竹輪の皿もあり、口直しに噛みしめる。これで燗酒でも一本ついていれば、胸に巣喰う憂いは消え去りそうである。
 誠三郎の食べっぷりを眺めているきくは、腰が曲がりはじめている。己の出世を待ち望むことに倦み果てておらぬかと案じるが、きくの眉間は晴れわたっている。

「まあ、うちは坊ちゃんがこの離れにずっといてくれたら嬉しいけど、そんなこと言ったら、罰が当たる。これほど絵の上手な坊ちゃんを、お城が放ってはおかん」とおどけた声で言う。
「いやいや、まったくその通り」

 ほんの片時の安らぎに、離れに笑い声が弾ける。
 このところ深更に目覚めると、胸を掻き毟るほどの焦りが戻ってきていた。要之介が離れに居た時は、移ろいやすい体調を気遣っては寝息の調子や寝相を確かめる日々であった。独りに戻ってみれば、己の不確かな行く末に思いが乱れて寝付けぬ夜ばかりである。
 夜更けに面相筆を手に取り、雨戸の隙間からの月明かりを頼りに描きかけの下絵を手直しすることがある。いつかの根本の言葉を思い出しては、雷に撃たれたごとく筆を放り出して胡粉を乳鉢で擂りだすこともあった。
《このまま御用絵師に召し出されなければ、いかにすべきか。根本先生は絵を仕上げたら中将様にお見せすると言うが、それをあてにして悠長に待つわけにもいかん》
 頭を抱えて呻き声を漏らす。町絵師として一人立ちして絵の注文を取り、寺子屋などで手広く絵を教えるのか。亡き父はわが絵を気に入っていたが、母は誠三郎が剣術師範となることを望んでいた。病に伏せた母は滅多に話しかけてこぬが、画道に進んだ己が疎ましくて口を利かないのではないかと胸が疼くことがある。とはいえ今さら剣術師範になるつもりはない。
 堂々巡りの思案を巡らしては、眠れぬ夜が更けていく。積もった雪に屋根が軋む音を聞きながら、誠三郎は天井の闇を睨みつける。そんな夜は寒さも感じられぬほどに気が昂って躰が火照り、凍った庭に飛び下りて叫びたい衝動に駆られた。
 
 二月二十日には元号が代わり、文久から元治となった。
 誠三郎が要之介を像主として根本の指南で描き直した絵は、軸装して仕上げられた。藩主の拝謁を願うと根本は言ったが、その機会が訪れることはないままである。
 誠三郎の江崎町での絵師見習いの勤めは月に五、六日しかなく、根本の屋敷に足を向けることが増えていた。根本は日々城へ出仕するので画室でその画技を見る機会は少ないが、見るたびに手際よい絵筆の動きから盗める手技がいくつもあった。
 年が明けて十八歳になった要之介は武具甲冑から花魁風の打ち掛けまで、多彩な装いで像主を勤めていた。誠三郎が画室を訪れると、絵の具や胡粉の調合から下絵描きにと忙しなく励む根本の弟子らの傍を離れてすぐに近寄ってくる。

「聞いておるか、大坂では東町奉行所の北角源兵衛なる与力が尊攘派に討たれて梟首きょうしゅされたらしい」

 要之介は眸をぎらつかせて囁いてきた。藤の花柄の小袖を纏い、髪に挿されたかんざしの銀細工がちろちろと揺れて白い膚に映えている。

「また天誅だな。江戸や京でも、天誅という名の下に蛮行が重ねられておる。志士だと名乗る無頼の浪士らは尊王攘夷のお題目を唱えて正義の剣とやらを振りかざしておるが、どういう天の下においてそのような蛮行が許されるのか」
「攘夷の勢いは止められん。お上が抑えようとしても無駄だ」

 頬を紅潮させて鼻息荒く語る要之介に、誠三郎は肩を竦める。
 尊攘の輩は危険であるとの風評が広まり、藩の改革派は力を失っていた。本圀寺事変を起こした二十士に恩情をとは言えぬ風潮が広がっている。
詫間ら二十士は依然、伏見藩邸で謹慎の日々を送っていた。

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