画仙紙に揺れる影ー幕末因幡に青梅の残香

冬樹 まさ

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1章

6.離れの怪我人④

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 今娘が纏っている着物は、誠三郎が元服して間もない頃に母が縫ってくれた丹後縮緬の霰小紋である。きくに何度も繕ってもらい綿入れにして、冬場の重ね着に取っておいたものだ。地色は鉄紺で光沢はだいぶ失われているが、の澄んだ膚に似合っている。この絵は小下絵の一つとして、画帳に加えて綴じ込もうと描きはじめたのだが、あまりに像主の見栄えがよいので、軸に仕立ててみようと思う。

「米村どの、このまま立っているだけでよいのであろうか」
「では脇差の柄に、手をかけてくだされ」

 柄を右手で握り、半身を引いて構える姿には寸分の隙もない。体躯が華奢でありながら、手練れの剣士さながらの立ち姿である。
全身の骨描きができると、色を載せていく。構図的に映える色をと、着物は鉄紺地ではなく弁柄を効かせて紅紫に調合して塗ってみる。像主の若々しさが引き立ち、背景には朱塗の社殿を描くのはどうかと思案を巡らせた。

「休んでもよいでしょうか、足首が少々痛みます」
「済まぬ、休んでくだされ。しばらく彩色にとりかかる」

 昼前から降りだした霙交じりの雨は本降りとなり、障子の外は薄闇が降りてきた。夕餉が近いのに姪の声がしないが、稽古事の後に親戚の屋敷にでも寄っているのだろう。女中のきくが母の世話をする気配があるだけだった。寝付いて三年になる母の世話は襁褓を取り代えて体の向きをずらし、時がくれば薬を飲ませてと終日気ぜわしい。義姉の花江は母の世話をきくに任せて、なにかと屋敷を留守にしがちである。きくの留守に誠三郎が母の世話をしたこともあるが、半日で心身ともに疲弊してしまった。義姉を責めることはできない。
 娘はこちらに背を向け、炬燵に右肩を寄りかからせて休んでいる。誠三郎は火鉢にかけた土瓶から白湯を湯飲みに注ぎ、の前に持っていった。顔を覗くと、頬は上気して息遣いが荒くなっている。重たげな瞼で瞬きを繰り返し、笑いかけてきた。

「眠ってはおりませんぞ、また始めましょう」
「いや、休んでおられよ、無理はされるな。日が落ちて冷えてくれば、また熱が上がるやもしれん」

 文机の脇に畳んである夜着を広げたが、はここでよいと炬燵から離れない。誠三郎はいつでも横になれるように、箱枕を夜着に重ねた。画仙紙の前に戻ると、下絵の彩色の続きにかかる。手持ちの絵の具を調合しても欲しい色にならなければ、色の名前を下絵に書き込んだ。背景としてふさわしい素材を探して、長年描き貯めた画帳を書棚から取り出しては広げていった。

 台所から運んできた夕飯を済ませて、に煎じた三心五臓圓を飲ませる。娘は手持ち無沙汰に誠三郎の画帳を眺めていたが、炬燵を挟んだ書棚寄りに夜着を被って横たわった。誠三郎がの下絵に本画へ向けての背景として、道場の甍屋根や庭木の梢まで描き込んだ頃には夜も更けてきた。
誠三郎は若い女が隣で寝ておることに、到底耐えられなくなっていた。徒士の家出娘であろうが、あられもない食べ方だろうが、構うことはない。こうやって屋敷に連れ帰ったのも、なにかの縁である。下絵を描きだした時に胸に湧き上がったへの恋情を今宵伝えねば、明日にでも気が変わってここを出て行くやもしれないと焦りが込み上げた。

《いくらかでもこちらに心を寄せていなければ、しばらく置いてくれとは言わぬ。数日屋敷を空けて平気な娘であれば、男を知らないこともなかろう》

 誠三郎はの隣に寄り添うごとく横たわり、産毛の煌めく頬に顔を近づけた。青梅に似た香りがする。行灯の乏しい光で、顔色を確かめた。熱があるほど赤くはなく、寝息も穏やかである。

どの、それがしの思いを遂げさせてくれ」

 夜着を捲り着物の衿をくつろげて、顔を埋める。匂やかに実った乳房に頬ずりしようとするが、固く筋張った肉が盛り上がっていた。剣術をたしなむためかと、首筋に唇を這わせて口を吸おうとするが、顔を背けられる。焦って帯を解こうと伸ばした手を、逆手に取られて捻り上げられた。

「なにをする、米村どの! もう我慢ならぬ、俺は男でござるぞ」
「な、なんと」

 は起きあがると、着物と襦袢の両肩を脱ぎ、滑らかに光る鍛えられた胸板を露わにした。
女にしか見えぬ首筋から胸元の白膚だが、よく見ると顎先にだけ、うっすらと髭らしき影がある。昼間像主として見ていた時には、気にしていなかった。熱があったせいで声がひどく嗄れているとは思ったが、まさか男だったとは……。
痛む手首を押さえて、誠三郎は唇を噛む。

「なぜに女子の着物を着て、女と名乗ったのか?」

 俯いたまましばし荒い息をしていたは、顔を上げて胸を張った。釣り気味の眸が爛々として見据えてくる。
 
「実のところは寺嶋家の四男でして要之介と申す。詫間樊六先生による神風しんぷう流の門下である」
「寺嶋家といえば、普請奉行を代々務める家門ではござらんか」
「その通り。寺嶋の家では、幼き頃より雖井蛙せいあ流の道場に通わされていたのですが、近年足が遠のくようになっておったのです。ちょうど評判になっていた詫間先生の神風流の指南を見に行ってこれだと思い、すぐに弟子にしていただいた。神風流では、懸命に修行に打ち込んでおったのです。それが先般の本圀寺の一件の後、弟子仲間と合議しておるのが父に知れまして……。父や兄たちは尊攘派を忌み嫌っており、父は神風流など寺嶋家には置いておけん、勘当だと怒り狂って、次兄には斬りかかられる始末、屋敷を飛び出しだのです」

身分や名は偽ったが、屋敷に戻れないというのは誠であったかと誠三郎はやり切れぬ思いで聞いていた。親子であっても佐幕と尊攘に別れて斬り合わねばならぬとは他藩の話と考えていたが、この鳥取にも厳しい世情が迫っている。

「しばらくは弟子仲間の屋敷を転々としておりまして。そのうち料理茶屋に雇われ、女剣士に扮して剣劇を座敷で見せるようになりました。藩の重臣らの密談をなんとか耳に入れて、詫間先生の京での謹慎の状況を探るべく企んだのです。……昨日は剣劇を披露した座敷で長兄とばったり顔を合わせまして、廊下で捕まり江崎町の屋敷に連れ戻されそうになったのを、途中で振り切って稲葉山中にまで逃れて来ていたのです。山道で雨に濡れた後に寒気がして躰に力が入らなくなり、その後は、覚えておりませんが、倒れていたのを米村どのに助けられた次第のようです」

 女剣士の姿で倒れておった訳が、樊六に繋がっておったとはなんとも奇縁であった。

「本圀寺の沙汰は物議を醸しておるが、寺嶋どのはまさに尊攘派というわけだな」
「俺は詫間先生のことを誰よりも尊崇しております。剣技においてのみでなく生涯の師としてお慕い申して、先生の抱かれる尊皇攘夷の志はそのままわが信条なのです。俺は先生のごとく心身ともに強靱になると決めたのです。幼い頃から女みたいだと、兄や近所の子らに虐められ、元服しても膚は白く髭もいまだ顎にわずかしか生えない有り様で、雖井蛙流では、弟子仲間に剣の相手でなく男色の交わりを迫られる始末。神風流に入って初めて、詫間先生は俺を侍として認めてくださり、厳しく鍛錬していただいた……」

 改め要之介は声を詰まらせ、膝の上に置いた拳を震わせている。

「それがしは樊六とは幼馴染なのだが、義侠心溢れる快男児であるな。本圀寺の件で罪を得るのには、あまりにも惜しい。どこの藩も進むべき路を手探りしておるところで、二十士への沙汰が謹慎からこの後、いかなる罰が下されることとなるか、いまだ見極めがつかぬ」
「俺は命を投げ出してでも女になりきってでも、先生をお救いしたいのです」

 顔を上げた寺嶋要之介は血走った眸を潤ませていた。目元から頬にかけては火照って赤いのに、唇は土気色でかさついている。剥き出しになった胸の膚が粟立っていた。
 肩に夜着を被せて衿を合わせてやると、要之介は誠三郎の手を取って、涙に濡れた熱っぽい頬を押しつけてきた。

「江崎町の寺嶋の屋敷には、帰れませぬ。しばらく身を隠したいので、ここにいてもよろしいか」
「構わぬ。家の者がこの離れに入ってきたら、それがしと同門の絵師見習いということにしたらよい」

 男とわかった今も、濡れた眸で見上げてくる要之介は雨滴の降りかかった芙蓉の花の艶やかさである。

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