画仙紙に揺れる影ー幕末因幡に青梅の残香

冬樹 まさ

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1章

5.離れの怪我人③

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 見慣れた鉄紺地の綿入れの背中が、炬燵に半身を埋めたていた。
 具合はどうであろう、と声をかけようとしたが、大儀そうに振り返った女は不機嫌そのもので、目を眇めていた。誠三郎が口中の言葉を飲み込んでいると、女が口を開いた。

「炭を継いでもらいたい。燃え尽きてずいぶん経ちますが、私が母屋に出向いて頼んではならんのでしたな」

 良い家の育ちなのであろう、人にものを頼むのに遠慮がない。体が冷えきったらしく、顔に血の気がなくなっていた。また具合が悪くなってきたのだろうか。

「ああ、すぐに炭を持ってこよう」

 女がいたことを喜ぶ間もなく、誠三郎は炭入れを持って台所へ向かう羽目となった。
 昼飯を済ませた頃には部屋は暖まっていた。五臓圓の包みを見せると、娘は袋を掴んで眺め肩を竦めただけだった。
 薬を飲ませるのは後にして、誠三郎は女の身元を尋ねた。俯いて腕組みした女はしばし黙り込んでから、顔を上げた。

「苗字は言えませんが、徒士の家の次女で、と申します」
「……その娘子が、なぜ稲葉山中で倒れておられたのか?」

 徒士の家というが、着ていた着物、脇差、言葉遣いからして、家士や下女が多くいる屋敷で育った娘に思えてならない。食べ方の勇ましさは育ちがいいとは言えないが。

「稲葉山で野歩きをしていたのですが、昨日は夕方にかけて冷え込んで急に気分が悪くなり、山道を踏み外したのを思い出しました。助けていただき、感謝しております。貴殿は確か、米村どのとおっしゃいましたか」
「米村誠三郎と申す。藩絵師の小畑稲升先生の下で絵師見習いをいたしておる。どの、なぜ、あのような脇差を差しておられたのたのかな。女子が持つには、仰々しい拵えこしらだが」
「護身のためにございます。いくらか心得がありますから」
 
 それにしても、金ごしらえの脇差は徒士の娘が持ち歩くものではない。気になって仕方ないが、厳しく問いただして怒らせては女を絵に描くことができない。頭を捻りつつ、首筋を爪でぼりぼりと掻く。

「うむ、そうであったか、……朝申したように気分がよくなっておられたら、そなたに絵の像主になってもらいたいのだ。いかがであろう」
「絵の像主とは、私を描くということですか?」
「さよう。面倒をかけるが、昨日着ておられた女着物に着替えてもらい、立ち姿を描かせてもらいたい。気分がすぐれぬようであれば、いつでも休んで構わん」

 頬に赤みが戻ってきたという娘は絵に描くと言われ、首を傾げて眉根を寄せた。芸者など玄人衆ならどんな姿態にでも描かれようとするが、藩士の娘なら断って当たり前である。

「気分はもう悪くありません。どうぞ絵にお描きになったらよい。米村どのには、助けてもらった恩義がありますので」

 大きく息を吐いてぶっきらぼうに応えたは着物の衿を整えて座り直し、誠三郎を真っ向から見返した。

「絵を描き終えたら、屋敷までお送りしよう。一晩帰って来ぬので拐かされたのではと、さぞお身内が心配しておられよう」
「いえ、それがいろいろと訳あって、屋敷には帰れないのです」

 娘はさして困った風でもなく、淡々と口にした。

「そう言われても、藩士の大切な娘子が他家の部屋住み次男の離れにおるのがわかれば、騒ぎになりますぞ」
「ご迷惑はかからぬようにいたします。しばらく、ここに置いてくださらんか」
「それがしは構わんが。まあ、じっくり絵に取り組めるというものではあるな」

 上士の家の育ちらしき風貌、物言いのが徒士の娘とわかり、誠三郎は拍子抜けした。藩重臣の深窓の娘をここに連れ込んだとなれば、いかなる騒動となったか知れたものではない。とはいえ徒士であれ、藩士の娘が一人で野歩きをした挙句に屋敷に戻ってこないとなれば、穏やかならぬ話である。
 おそらくなにか込み入った訳があって、屋敷を出たのだろう。親兄弟との揉め事か、駆け落ちでもしようとしたのか。屋敷では娘の身を案じておろう。は足の傷に痛みがあり自在に歩くのはまだ無理なので、明日にでも屋敷の所在を聞いて代わりに様子を見に行かねばなるまい。いざとなれば兄に打ち明けて、当家で預かって養生させていると申し出ようか。
 そう心づもりをしながら、誠三郎は文机のひきだしから画仙紙を取り出した。広げた紙の横に硯据えて墨を擦る。あるだけの岩絵の具の包みを開いてみて、色を確かめては小皿に出して並べていった。膠鍋に水を入れて、膠の欠片を浸しておく。
 背後でやおら立ち上がったよしのはこちらを向いたまま、貸してあった羽織を脱いで帯を解きだした。なんのためらいもなく堂々と着物を脱ごうとする娘に面食らい、慌てて手を上げて制する。

「むむ、待たれよ、そのままでよい。やはり、その男物の小袖を着ておる姿を描いてみようか。そのまま、そのままで脇差しを帯に差したところを描こう」

 帯を解く手を止めたは、刀掛けに手を伸ばした。金拵えの脇差を帯に挟むと、顎を引いて眸に剣士の雄々しさを宿す。
 切れ上がった眦に端正な鼻筋、翳りのない白膚のふっくらした頬。毅然とした侍らしさと、乙女ならではの匂いたつ愛苦しさ、相反する要素を兼ね備えている。前髪こそないがこれで男だったら、妖艶な香気を放つ若衆である。これほどの像主には、なかなか出会えない。
 誠三郎は息を呑んで、面相筆を手に握り締めた。眺めるほどに、眩惑されていく。
 鼓動の昂ぶりを鎮めるため、一度目を瞑った。画仙紙の前で背筋を正す。絵師として像主に深く心を寄せ構図を練るのは、修養であり鍛錬であると自身に言い聞かせる。
 目を見開き筆を取り直し、穂先に墨を含ませて骨描きの線をひいていった。娘の顔を見つめては輪郭線を脳裏に刻みつけ、紙上に艶やかな顔を描きだしていく。
 意気揚々と道場へ向かう道すがら、若侍の頬や首筋に羽毛のごとき綿雪が舞い落ちてくる情景――。
 雑念に手が止まることなく絵筆は走り、下絵は一気に仕上がった。
 誠三郎は気づいた。
――昨日まで三月ほど、下絵すら書き上げることができずにいたことを。元来、人物を描くことは不得手であったことを。


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