画仙紙に揺れる影ー幕末因幡に青梅の残香

冬樹 まさ

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1章

3.離れの怪我人①

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 雨戸の隙間から青白い朝の光が射し込んでいる。
 誠三郎は炬燵布団に首まで潜っていた。江崎町の師の役宅で襖絵の色つけがある日だと思い出し、ようよう起き出す。
 雨戸を開けると、下男の徳二が鶏に餌をやっていた。ずくずくと霜を踏む音がする。

「朝からご苦労」
「坊ちゃん、今朝は早うございますな」
「江崎町に出る日だ。すぐに飯を頼む」
「台所に言うときます」

 母屋の様子を眺める。台所は煮炊きの音がしているが、座敷の雨戸は開いていない。寒気が部屋に入らぬよう慌てて障子を閉めた。
 火鉢の炭は燃えつきたが、部屋には仄かな温もりが残っている。女の傍に屈み込んで、容態を確かめた。顔は頬の赤味がなくなり、心地良さ気に見える。昨晩は熱の介抱をしたが、足の傷は山中で止血して泥を拭ったのみであった。
 夜着の裾をめくり足首の辺りを調べる。踝の擦り傷の周りが腫れており捻挫しているようだが、さしたることはない。行李の中で見つけた藍染の手拭いを濡らし、傷口に付着した汚れを拭き取った。藍には解毒の作用がある。生地の乾いたところを裂いて、腫れた傷に巻きつけた。

「い、痛い、なにをする!」

 布の巻き方がきつかったのか、女が声をあげた。

「お静かに、傷の手当をしておるのです。踝は、やはり痛みますか?」
「だれぞ、ここは一体? ……何も覚えておらぬ」

 ぐらつきながら身を起こした娘は、こめかみを両手で押さえる。

「そなたは、稲葉山で倒れておられたのだ。余計なことかと思ったが、時雨模様の山中で怪我した女子一人をそのままにしておけず、わが屋敷に背負って帰った次第である。それがしは米村家の次男、部屋住みの身の上につき、そなたがこの離れにおることは、母屋の者に知られたくないのです、お静かに願います。昨夜は熱でうなされておられたが、ご加減はいかがかな?」

「ああ、節々が痛みますな、熱はないようですが。昨日は確か……、稲葉山、そうでしたか。音をたてぬようには、気をつけましょう」

 そう言いながら女は衿元を調えて素早く壁際に目を走らせ、刀掛けにある己の脇差を確かめている。油断なく光る眸には力が籠もっており、熱は下がったようだが、声はひどく嗄れていた。

「飯を台所から運んでまいる。しばし待たれよ」

 襖の手前で耳を澄ませてから、廊下に出た。母と兄の部屋の前で、挨拶と早出することを告げた、母の登紀からは例のごとく返事はない。まだ休んでいた兄からは、ああ、おはよう、とだけ返された。隣の居間では、姪たちが起きだす気配である。
 誠三郎は台所で茶碗に飯を二杯分固めて盛り上げ、青菜の煮つけなども多めによそった。水屋箪笥から女の分の箸と茶碗などを取り出し、袂に放り込む。
 兄嫁の花江が台所に入ってきた。朝から丸髷にはきっちり櫛目が通り、一筋の乱れ毛もない。兄の帰りは遅かったであろうに、穏やかな笑みを浮かべている。誠三郎の抱えている箱膳に、花江は目を走らせた。

「なんとまあ、よくお食べなさること」
「今日は絵師見習いの役がござるゆえに、急ぎます」  

 誠三郎は急ぐ振りをして台所を出た。居間の襖が開いて、廊下に寝巻のままの姪が二人、飛び出してきた。

「ねえ、おじ様、お手伝いしましょうか」
「一緒にご飯、食べましょう」
「なりませんぞ、母上に怒られます。夕刻にでも、菓子のお相手をいたそう」

 箱膳に手をかけようとする姪たちを振り切って、離れに戻った。
 女は乾いた自身の着物に誠三郎の羽織を着込み、炬燵の前に威儀を正して座っていた。夜着や縮緬の袷は畳まれて、文机の傍らに重ねられていた。

「昨夜は熱にうなされておられたが、もう気分はよろしいか」
「お陰さまで治ったようです」

 そう言って羽織を脱いで返そうとしてきたが、唇には血の気がないので着ておくようにと突き返した。
 箱膳を据えて二人で向き合って座ると、女は一礼して箸をとった。山盛りの飯を半分、茶碗に分けて盛ってやれば、豪快に飯を頬張る。口の周りにいくつも飯粒をつけたまま、味噌汁を勢いよく流し込んだ。時折指先で汚れた唇の端を拭っている。行儀が悪いが、気品はある。
 頭の天辺を元結で縛り上げて髷を結わぬ勇ましい姿に、なりふり構わぬ食べっぷりは、まさに元服したての若武者であった。見ていると、細い指先が操る箸遣いは器用でしなやかである。それで品があるのかと、誠三郎は吹き出しそうになった。
 箱膳を片付けると、誠三郎は身支度をしながら行李の中を探った。いくらか見栄えのする綿入れを見つけて、女に差し出す。

「男物であるが、これに着替えられよ。もし、家の者がここに入ってきたら、それがしの絵師仲間であると言うのだ。これを着ておれば、男に見えぬこともあるまい。ここにおる間は、男になりきってもらいたい」

 男になれと言われて怒るかと思ったが、眉根を寄せた女は大人しく頭を下げ黙って着物を受け取った。

「では、出かけてまいる。それがしは、藩絵師見習いであってな。できれば帰ってから、そなたを絵に描きたいと思っておる。ま、気分がよくなって急ぎの用などあれば、構わずここを去られたらよい」

 誠三郎は女の顔を、最後かもしれぬと眺めた。渋い柄目の着物を着ているのが、かえって娘の初々しさを引き立てている。唇を噛みしめてこちらを見返す眼差しに、年増の媚びは感じられない。ふっくらとして肌理の細かい白膚は、釣り気味の眸が煌めいて映えた。絵心を掻き立てる娘だが、帰ってきたら立ち去っているだろう。
 半ば諦めて誠三郎は大小の刀を腰に差し、濡れ縁へ踏み出した。

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